1st. 人魚の歌

 何の変哲もない湖だった。

 湖面は冬空の心許ない陽射しを、懸命に照り返している。ふちから身を乗りだしてみると、すぐに深くなっているようだ──底が見えないくらい、深い。

「ここが、目的地なのか?」

「そうなのだが」

 サワタリは鋭い眼で湖を見ている。それから、背負っているザックの中から、純白のカップを取りだした。

「ずっと思っていたんだが、それ、持ってきてよかったのか?」

「だめだろうな」

 王族の秘宝のカップは、黄禁城の奥深くに隠されていた。底に古代語がぐるぐると円を描くよう書きこまれ、そのなかにケマと読める部分があるらしい。どうやらそれをサワタリは盗んだ──無断で持ちだしてきたらしい。冒険者の職業名『盗賊』は、そういう意味で使われているのではないのだが。

 サワタリはその「ちょっと拝借した」カップで、湖の水を掬う。なにかが起きるのかと期待したが──何も起きない。

「ここも外れか」

「ご主人、水辺のダンジョンではいつもそんな仕草をする」

「このカップで水を掬う女神のすがたが描かれた絵画を、数点見た。まあ──俺は女神ではないしな」

「おれ! おれもやりたい!」

 モモは音をたて人間のすがたになる。苦笑しながらカップを渡すご主人に倣って、湖の水を汲んでみる。やっぱりおれも女神じゃなかったな、と笑って返そうと思った時だった。

「!」

「!?」

 ごうん、と音がした。モモは慌てて周囲を見る。波もたたない静かな湖面だったものが、ひどく掻き回されている。ばしゃばしゃと岸に打ちつけられる波を呆然と見ていると。

「モモ、泳げるか?」

「う……泳げない。濡れるの、好きじゃない」

 武術基礎演習と冠された大学の講義の時水泳も行われたが、モモは最後までまともに泳げなかった落第生である。

「ならば、モモンガのすがたで飛んでこい」

 そう云うと、サワタリは湖に飛びこんだ。十二月の湖など、喩えばモモの出身である北域であったら氷がはることさえあり、とても泳げるものではないのだが、ここは南域である。冷たくはあるのだろうが、水温などものともせずサワタリが泳いでゆくのは、湖の中央あたりか。モモは命じられたとおりモモンガのすがたになり、泳ぐあるじの真上を飛ぶ。

 やがて──そこに到着した。そことは、階段だった。

「なんだ、これ」

「下に降りてゆくものらしいな」

 サワタリが濡れた髪を掻き上げ、足を降ろす。階段は白い石でできており、サワタリの体重を難なく受けとめた。

「おまえには、女神の素質があるらしい」

 おもしろそうに云うサワタリに、モモは握っていたカップを返す。

「女神じゃなくてモモンガなんだが」

「なにかしら、条件があるのかもな。おまえはその条件を満たしていたから、鍵が開いた。お手柄だ」

 ご主人に頭を撫でられると、難しい顔で考えることができなくなる。ふわふわとした気持ちのまま、モモはサワタリの肩にとまった。

 サワタリは素早く階段に足をかける。足音も立てずすらすらと降りてゆくご主人の肩で、モモは周囲を見渡す。階段は螺旋を描くように降りてゆき、そのかたちに湖が穿たれている。つまり、壁が水なのである。岸から見ても水深がありそうだとは思ったが、中央ともなると相当に深い。ぐるぐると降りてゆく階段の周りだけが抉られたよう水を排除しているのだ。モモはそうっと手をのばす。壁に触れると、指が濡れた。どういう原理で成っているかは判らないが、正に隠された階段である。

「モモ、ここでは弓が遣いにくい。戦闘は俺が引き受ける」

「役立たずですまない、ご主人」

 そんな会話を交わしたのは、戦闘が間近に迫っていたからだ。

 もう一階層分くらいを降りたところで、階段が途切れている。代わりに、そこには魔物がいた。アルブスライオン──白いライオンの魔物は、動物のライオンよりも一回り以上大きい。

 サワタリが跳躍する。一階層分の重力をこめた一刀が魔物の脳天に突き刺さる。アルブスライオンの牙がサワタリの背をかすめるが、その時には既に三本ものナイフが魔物の首に刺さっていた。

 どう、とうずくまるように斃れたアルブスライオンの、白い体毛の中にモモはふと、見つけた。

(腕輪……?)

 白い毛皮の中であるから見づらいが、真っ白い──この階段の石にも似た──素材でできた腕輪が、その太い腕にまわっている。どこかで見たような気がする。いや、複雑な彫刻などが施されているわけでもなく、どこにでもある素朴な飾りであるから、どこかの町か、或いは街道で見たのかもしれない。

 ……それにしても、魔物が人のアクセサリーをつけるものだろうか。

 考えこむモモの隣りで、サワタリは下を覗きこんでいる。

「まだ下層があるらしいな」

 サワタリが魔物の死体を退けたところにあったのは、扉だった。アルブスライオンは、この扉を守る番人だったのだろう。サワタリは把手に手をかけ、引き開ける──なにしろ扉は足の下にあったので──鈍い音とともに開いた扉の下には、再び下へと降りてゆく螺旋階段が見えた。

 モモはサワタリの肩にとまる。そうして階段を降りてゆくと、また魔物が守る扉に行きあった。それを何度繰りかえしただろう。いかに深い湖とて、こんなにも下へと続く階段があるものかと──これは魔法でつくられた所なのではないかと、ようやくモモも気づきはじめた頃。

「……モモ、俺の後ろにいろ」

 サワタリの声が低い。モモは黙って、ご主人の背後につく。

「あら、上からいらしたかたは何百年ぶりかしら」

 うつくしい、女の声だった。サワタリはナイフのつかに手をやっている。モモはご主人の後ろから見て、瞠目する。美女の腰から下は、魚のそれだった。人魚──というやつなのか。伝説とされていると、大学の魔物学でも習った。

「ようこそ宝瓶の宮へ。わたくしはこの宮を司る白魔」

「宝瓶宮……十二黄道か」

「存ぜずここまでいらしたの?」

「いや、十二黄道というのならば、ここは当たりだろう。俺たちはケマをさがしている」

 人魚が艶然と笑う。

「そう、ケマをさがしにいらしたのね」

「ここに、あるのか」

 サワタリがナイフに手をのばす。それを瞥見し、人魚は云う。

「わたくしを害すれば、ケマは永久に失われることになりましてよ」

 人魚は、自分の喉に手を当てる。

「──偉大なる風の神。無より天を創りし創造神。かれは父神であった」

 朗々と歌いあげられるのはこの世界を創った神の歴史である。それを父神、という。

 モモはいつか旅の吟遊詩人がうたった歌を思いだしていた。この世界は風神、地神、火神、水神の四神によって創られと歌われていた。そのなかの風神を父神と、人魚は歌う。

「ここまで来た者にはこの伝承を歌いあげることになっているのだけれど、ご入り用かしら?」

 人魚が云う。

「ケマとは、真なる秘蹟というものについて書かれた書物だと聞いた」

「書物といえば書物かしら。ケマはわたくしに書きこまれているもの。わたくし自身が書物というわけね」

 もう一フレーズ、人魚は歌う。

「わたくしはこうして、訪う者へ伝承を歌いあげるものだわ」

「秘蹟については、知らないのか?」

「秘蹟は歌の中に暗号のよう籠められているもの」

「ならば、伝承を歌ってくれ」

「かしこまりました」

 モモはサワタリとともに、人魚の歌う物語りを聴く。歌は、父神の伝承だった。あるときかれの子らである兄妹の諍いがおこり、それによってこの世に多くの血が流れた。憂えた父神は、自らをはじめ兄妹神にこの世に関わることを禁じる。

 彼女が歌い終わっても、その歌声と詩を覚えていることにモモは気づいた。脳に直接書きこまれたかのよう、くっきりと記憶しているのだ。なるほど、これがケマか。この伝承のどこかに真なる秘蹟が隠されている。詩にか、歌にか、ほかのどこにか、どんなかたちで隠匿されている。モモはあるじを見る。サワタリは頭も抜群に良いが、果たして暗号解読というものと取り組んだことはあるのだろうか。

「ここで得られるのはこれだけか?」

 サワタリの言に、人魚は笑う。

「そうね。わたくしの耳を討伐の証しとして持っていけば、どれほどかのお金を得られるとは思うけれど。それよりも、人魚だったら拐かして闇市にだしたほうが儲かるかしら」

「ケマが何たるかが判った。礼を云う」

 淡々と返し、サワタリは人魚からモモへと視線を移す。

「さて、のぼるか。……これまで降りてきた分をのぼると思うと、うんざりするが」

「はい、ご主人──あ」

 そこで、モモは発見する。

「ご主人、背中にけがをしているぞ」

「このくらい、放っておいてかまわない」

「おれがかまう」

 モモは人魚の方を見る。

「ここで煮炊きをしたら怒るだろうか」

 人魚が微笑む。瞬間、ふわりと空間が広がった。洞窟のようだが、やはり壁はすべて湖の水である。

「ありがとう」

 お礼を云って、モモは人のすがたになる。その時だった。

へんげのすべ……あなた、人に変げができるの?」

 眼を見開き、人魚が云う。

「だいたいなんにでも化けられるぞ。へたくそだけど」

 魔物モモンガのすがたと、人のすがただけが安定している。そこまで云うつもりはなかったが。

「モモンガの時は完全に魔物だったわ。そして今は完全に人。わたくしの眼でさえ欺くいにしえのすべ……まさか、あなた」

 きょとんと瞬くモモに、いきなり人魚が平伏した。

「え、え?」

「幾年月が経ちましょうか。あなたさまのご降臨があるとは夢にも思わず、無礼つかまつりました」

「あの」

「ケマのなかの真なる秘蹟をお求めとのこと、微力ながらわたくしの介添えをお許しいただけるでしょうか」

 モモは混乱し、サワタリを見あげる。かれは無表情に、平伏した人魚を見ている。

「……見たとおり、こいつは魔物と人に変げができる。それを以て、おまえはモモをなにがしかと判じた。──モモは、何者だ?」

「わたくしからは云えませぬ。ただ、わたくしどもはあなたさまにお仕えするはしためにございます」

 なにがなんだか判らない。とりあえずモモは、人魚に起きてもらうよう云った。平伏されるようなものではないのだ。それから、サワタリの背中の傷に薬草をあてるため、煮炊きをさせてもらった。人魚は何か云いたげだったが、モモにとってはご主人のけがを看るほうが大切である。

「伝承のなかにある真なる秘蹟の取りだし方を、おまえは知っているのか?」

 サワタリの問いかけには見向きもせず、ひたすらにモモを見つめる人魚に、どうにもまいった。モモはおそるおそる、人魚に云う。

「ご主人の云うことに答えてやってくれないだろうか」

「かしこまりました」

 それでやっと、人魚の視線がサワタリに向く。短く歌い、そして何かを伝え、また短く歌う。伝承に籠められた真なる秘蹟を取りだす──暗号の解読法を伝授してくれているのだろうか。モモには難しいが、サワタリならすぐにものにするはずだ。

 人魚と話しこんでいるご主人の背中に、モモは手をのばす。血を拭うと、かなり深い傷であることが判った。薬草をペースト状にしたものを塗りこみ、包帯をあてる。他にも細かな擦り傷や打撲が見つかったため、モモはてきぱきと手当てをする。その間、ずっと人魚と話しこんでいたサワタリは──。

「真なる秘蹟とその使い方は、人魚の歌う伝承すなわちケマの中に、確かにある」

 そう呟いた。

「じゃあ、ご主人は秘蹟が使えるようになったのか?」

「トンネルをつくりだす秘蹟だった」

「うん?」

斜め十字山アンデレ・モンスレンジュが、陸地の東西南北を分けている」

「うん。ウトゥラガトス・ニドムに行った時、ご主人が教えてくれた」

 大陸にバツ印をつけるよう、険しい山脈が聳えている。斜め十字のかたちをした山脈が切り取る、扇形の土地を、それぞれ北域、東域、南域、西域と呼称する。

「ウトゥラガトス・ニドムを降り、帝都まで王の道を行ったろう。あの時、北域から東域に渡るさい、山脈に穿たれた巨大なトンネルを潜ったことを覚えているか?」

「覚えている。馬でも通りきるのに二日かかった凄いトンネルだ」

 宿駅もトンネルの中に二つもあったのだ。斜め十字山脈を行く旅をしたが、その深く険しい山を穿つトンネルの凄まじさは圧巻だった。

「あれも、王族の秘蹟で保たれている」

 モモは眼を瞠る。

「陸地を分割するほどの山脈を穿ち、更にそのトンネルを維持するのは、通常の工法では不可能だ。王族の秘蹟によって、あの山脈に干渉し、更に常時の人の通行を許されている。斜め十字山脈は巨大で強力な質量であり、地図を分割する意義を持つ。人の都合で道を敷くことなど神の御業でなければ不可能というところだ」

「もしかして、トンネルは他にもあるのか?」

「四カ所ある。東域と北域を渡るものが二カ所、東域と南域を渡るものが二カ所。西域の王の道は潰れてしまっているから、トンネルもない」

「その四カ所のトンネルを、ずっと維持するのも王族の役目なのか」

「そうなる」

 また途方もない力の話しだ。

「とすると、ケマの暗号を解いたご主人も、トンネルの秘蹟が使えるようになったのか?」

「秘蹟のシステムは理解した。だが、只人が秘蹟を使うには、先ずそれをアイテムとして実体化させなければならない」

「アイテム?」

質量の珠マサイ・ラピスというアイテムのつくりかたを書いたものが、ケマの暗号だ」

「その珠を使えば、トンネルを作れるということか?」

「そういうことだが、俺がそれを作ろうとすれば、数年はかかるだろう」

 そんな暇はないと云うサワタリに、そうか、とモモも頷く。

「ユーグの呪毒を治す秘蹟を捜しに行かなくてはならないものな」

 ここにある秘蹟が解呪のものでないということは、他の宮にあるということだ。それを捜しに行くのが目的であって、他の秘蹟には、云ってみれば用がない。

 しかし、一つのケマを求めるだけで、これだけの時間がかかったのだ。他の宮ともなればまたたくさんダンジョンに潜らねばならないんだろうな、と思ったが。

「次の宮へのしるべを教わった。……おまえのおかげだ」

「えっ、おれ?」

「あの人魚はおまえに仕えるものらしいからな。俺の質問に答えられる限りのことを答えてくれた」

 人魚は再び、モモに視線を投げかける。なにか、切なくなるような眼差しに、モモはご主人の服の裾を握る。

(あ……)

 その時気づいた。人魚の腕にもあの白い素朴な腕輪がつけられていることに。

「考えてみれば、おまえがカップで水を掬ったから、この階段が出現した。ケマを捜すには、どうやらおまえが必須らしい」

「おれは王族でもなんでもない庶民だぞ。なにか勘違いしているとかじゃないのか」

 人魚が微笑む。

「どうぞお健やかに。またまみえるまでの歳月、わたくしはここでケマをお守りいたします」

 ケマを書きこまれたうつくしい人魚。別れはあえなく、モモはサワタリとともに螺旋階段をのぼり、地上へと帰還したのだった。

「おまえは何者なのだろうな」

 地上に出ると、既に月が出ていた。月光に照らされたモモを、サワタリは見つめている。

「そういえば、サクラ・パシェンスの賢聖からはもんという伝説級の魔物だと云われていた」

 ソロモンさま──おれが従魔になりたいという思いを抱く理由となった人のことを思いだす。

「ご主人は、おれの正体に興味があるのか」

「ないと云えば嘘になる」

「もしおれが──」

「興味はあるが、結果がどうであれ、おれはおまえを手離す気はないがな」

 さらりと云われたことに、モモは眼を瞠る。

「ご主人」

 サワタリの頬に頬を擦りつけて。

「おれだって、何者になったって、ご主人の従魔なんだ」

 万感の思いを込め、云う。モモのあるじになってくれた人。主人と従魔という関係性にもかかわらず、モモを守り慈しんでくれる人。モモはサワタリの正体を知っている。冒険者は仮のすがた、本業は──人殺し。最初の頃は人を無惨に殺すさまに嫌悪しかなかった。それでも、どうしてサワタリが人を殺すのか、それは充分に判った。それでも拭えぬ悲しさを凌駕する思いを持っている。もう一生、自分はこの人以外をご主人と呼ぶことはないだろうと、そうモモは思う。

「一度町へ寄って、物資の補給と休息を摂る」

「はい、ご主人」

 そのまえに、濡れた服を乾かしていこうと薪を集めるご主人の肩から飛び降り、モモは人のすがたに変げする。倣って薪を集めはじめるモモの頭を、ご主人の大きな手がぽんと撫でた。

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