7th. 罰
黄禁城にあるアベルの館──黄水晶宮に入るのは、二度目だった。一度目のときはご主人が一緒だった。ゴドフロワもいた。だが、今回はモモひとり。
きっと、ご主人のときのようにはいくまい。あいかわらず長椅子にしどけなく寝そべり、モモを見おろしているアベルを、モモは跪いた格好からでも真っ直ぐ見あげた。
「もう一回聞こうかな。どうしてあなた、女なんかを助けたの?」
「人が食い殺されるところを、黙って見ていることなんてできなかった」
「あれは人じゃなくて女だよ」
「女性も人だ。おれたち男と同じ、人だ」
そう云いきることの怖さを知っている。知っているが、モモは云う。
「ふうん、根っからの背徳者なんだね」
アベルは首元のフリルを弄りながら云う。
「それで、ぼくのコロッセウムであんなことしでかしたのだもの。矯正所送りにするのが妥当なのだけど」
細い指で、かれは呼び鈴を鳴らした。修道騎士が二人、音もなく現れアベルの傍に跪く。
黒い──と思った。かれらは鮮やかな黄色のマントを羽織っているのに、どうしてか真っ黒い、影のように見えた。
「支度をしてあげて」
また、音もなく。滑るように二つの影が──二人の修道騎士がモモの方へ歩んできて、両脇からモモを立たせる。そのままモモは部屋を出された。
矯正所というところにやられるのか、と思ったが。予想に反し、連れてゆかれたのは城内にある小部屋だった。そこでモモは湯浴みをさせられ、着替えをさせられた。着せられたのは裾の長い──引き摺るほどに──薄い黄色のワンピースで、腰の部分を凝った編み物の帯で結ばれ、その帯もまた引き摺るほどに長かった。
もともと着ていた服とともに、薬草ポーチまで取りあげられそうになったから、モモは必死で飛びついた。もう体の一部のようになじんだポーチは、サワタリがつくってくれた大切なもので、今日ユーグに買ってもらった貴重な薬草も入っている。モモの固執に辟易したらしい、修道騎士がアベルにお伺いをたてにゆく。結果、薬草ポーチは取りあげられず、身につけることを許された。
そうして再び、モモは両脇を修道騎士に挟まれ、アベルの部屋へと戻された。
「これは何だ? おれは矯正所というところに行くんじゃないのか?」
「あなたについては、ぼく自らがお仕置きをしてあげようと思ってね。そのお洋服、可愛いでしょう。ぼくの侍従の制服だよ」
「侍従?」
「今日からぼくの侍従として働きなさい」
「どうしてだ?」
「それが、ぼくがきみに与える罰だから」
アベルの侍従を勤めることが罰になる──とはどういう意味か。
「……おれが、サワタリ以外の人をあるじとしない、と決めているから。だから殿下に仕えさせることが罰になると思っているのか」
「あなたがあの男に傾倒しているのは判っていたけれど。ただの主従じゃくなくて、それ以上の関係なんだよね?」
「サワタリとおれの関係は主従だ。それ以外のなんでもない」
「ふうん、そうなの」
興味なげに云い捨てたアベルは、ほんとうにその辺りの思いの機微に興味はないらしい。それでもモモは、アベルの侍従になるのがいやだと、食い下がった。すると、アベルは修道騎士に、モモの薬草ポーチを取りあげるよう命じた。──さっき取りあげられなかったのは、こういう風に利用するつもりだったのか。モモの顔色が変わるのを見て、おとなしくぼくの命令に従いなさいと云われ──モモは薬草ポーチと引き換えに、ここで侍従をつとめることになる。
両手と腰の拘束は既に解かれていた。長椅子からうっそりと立ちあがったアベルに付き従い、かれの自室へと赴くことが、モモの最初の仕事だった。
否──仕事はすべて、それだけであった。つまり、アベルの後をついてゆくだけなのである。
喩えば夜に、アベルは自室に戻ると着替えをする。それは──服を脱がせ、また着せかけるのは、お附きの修道騎士の手で行われ、モモが関与することはなかった。朝起きてからの着替えも同じである。アベルは第二王子として帝王陛下の政務を手伝っているが、そのまた手伝いなども、学生の、しかも落ちこぼれであるモモに務まるはずがない。食事の席での給仕も、剣や魔法の修行の相手も、外出のお供も、なにもかもその役を務める修道騎士がいて、モモの出る幕などないのだった。
だが、モモは必ず、アベルの傍に侍っていなければならない。モモのすがたが見えなくなると、その
退屈、ということはなかった。王族の生活を間近に拝見できる機会など願っても得られるものではないだろう。祈りの時間こそ王族のみしか入れぬ聖堂で行われるため見学は叶わなかったが、帝王の補佐として行う政務の処理や、音楽の流れるなかで優雅に行われる食事、冒険者顔負けの剣と魔法の修練の様子を、モモは興味深く見つめていた。また、黄禁城の様々な宮を歩くのは、それだけで見学になる。アベルの宮だけでなく、あらゆる宮のあらゆる場所に凝った燭台が置かれ、夜も常に赤い火が灯されていた。それらは──確かに興味深いものではあったのだ。だがモモは学生なのである。もう何日学校に行っていないだろう。落第生のモモは、一日でも授業を受け損ねると、あっという間についてゆけなくなる。この頃ようやく授業についてゆけるようになったばかりなのに。これもまた、アベルがモモに与えたかった罰なのだろうか。
そんなことを考えていたせいだろう。モモは足を止めてしまっていた。だが、呼びつける声がない。首をかたむけ、モモは走った。このずるずるとした衣装の捌きかたもだいぶ判ってきたから、転ばずに。辿り着いた場所には──。
(殿下?)
見事な彫刻の施された燭台に手をついて。アベルは、見つめていた。暗い鬱金の瞳が、更に暗く見える。火色の燭台のもと、長い睫毛が被さり、いっそう暗い。
モモはアベルと視界を重ねる。そこにいたのは、アベルと同じ鬱金の瞳に金髪の美丈夫──カイン兄王子だった。アベルが歳をとればああいう顔だちになるのだろうな、と思えるほどそっくりな兄弟である。
(……んん、まただ)
モモは腕をさする。なぜか、カイン殿下を見ると肌が粟だつ。ぞっとする、というのか。理由はまったく判らないのだが。カイン殿下はアベルの陰鬱な性質とうってかわって、快活な方なのに。
今日もまた、よくとおる声で誰かを呼んでいる。カイン附きなのだろう修道騎士になにか指示を与え、溌剌と笑う。それから颯爽と歩きだす。アベルは自分の宮から殆ど出ず、出るときといえばコロッセウムに視察に行く時くらいなのだが、カインは自ら出向くことを惜しまない。──今日のように、カインを見つめるアベルを見て、モモはそれを知っている。
ため息が聞こえ、モモは顔をあげる。アベルの顔が憂いを帯びたものから──妖艶な笑顔へと変わる。
「お茶会を開こうかな」
陰る鬱金の瞳は、モモを見ているのか判らない。自分に云われたことかも判らず曖昧にうなずくと、アベルはのろのろと体を回転させ、自分の棲む黄水晶宮へと帰ってゆく。
秋の果物を贅沢に使った菓子が、ふんだんに用意されていた。
お茶会は、黄水晶宮の中庭で行われることになった。気持ちの良い秋晴れの日、早朝というより夜中から準備が始まり、世界に名だたるパティシエたちが渾身でつくりあげた菓子たちが勢揃いし、また世界から選りすぐった茶葉もずらりと並んでいる。庭園にも豪華な燭台が幾つも配され、火が踊り場を彩る。まさしく、この世でいちばん贅沢なお茶会だろう。
ごく身内だけの集まりだからと、アベルはモモも同席させた。必ず後ろに侍っているように、と云い渡され、モモは裾と帯を引き摺りアベルの後ろを黙々と歩いた。
そして──肌が粟だったのだ。
(カイン殿下)
アベルの兄王子が到着していた。かれは馬車から最初に降り、片手を伸べる。その手に掴まって降りてくるのは金髪にティアラをつけた女性だった。ならば彼女がカインの奥さんなのだろう。続けて、ぴょんと飛び降りてきたのは息子さんで、再び手を伸べたカインの手をとり淑やかに降りてきたのが娘さんと思われた。みな、黒と黄色を基調とした華やかな格好をしている。
アベルはカインの到着に気づいているのだろう。だが、眼の前の客と話しこんでいる。兄王子一家は、修道騎士に連れられ席へと導かれたが──。
そこで、兄王子の表情が変わった。なんだ、と思う間もなく、かれは真っ直ぐにこちらへ──アベルのもとへと歩んでくる。
「アベル」
カインは、黒い衣服に黄色の差し色を使う衣装を好んで着る。鎖骨の部分に聖笏があしらわれた大きめの襟。丈の短い上衣に、足にぴったりとフィットするズボン。肩にかけられたストラの文様は火の意匠であるらしく、いかにも豪華だった。背からは黒い生地に黄色で刺繍をほどこされたマントが翻り、長身で逞しい体躯に、その衣装はとても似合っていた。
「私の妻と、娘の席が見当たらないようだが」
アベルはなおも振り向かないようだったが、話していた相手が恐縮し、去ってしまったため──ゆるゆると兄王子に向き合う。
「カイン兄さま、本日は我が宮に足をお運びいただき有難うございます」
「お招きいただき感謝する。──それで? 私の妻と娘の席がないのはどういった理由があっての狼藉か」
「狼藉だなんて。おかしな言葉を遣われますね」
「おまえはいつもいつも──こうだ」
溌剌と笑っているすがたばかり見ていたから、こんな風に──苦虫を噛みつぶしたような顔をしているカイン殿下に、モモは驚いた。
「いやしくも第二王子である私のお茶会ですよ。なぜ女が参加できるとお思いなのか」
「女ではない、私の妻と娘だ」
云い争う二人の後ろから──モモはアベルの後ろにいたから、それはカインの後ろからになる──おそるおそるといった風に声を挟む。
「アベル殿下、申し訳ございません。わたくしたち、ご無礼をいたしました」
「おまえが謝ることなどない!」
「はい、申し訳ございません、旦那様」
頭を下げるたび、銀色のティアラが上下する。その華やかなドレスの腰のあたりから顔を覗かせたのは、彼女の娘。謝りつづける母親を見あげ、叱りつける父を見あげ、それから──彼女はアベルを、叔父を見た。
頬をつりあげ、瞳を見開いて。姪は伯父の手を握る。
「あたしは叔父様のこと大好き。とっても綺麗なお顔をしておられるのだもの。ねえ、お茶会にまぜていただけませんか?」
シックな黒のビロードのドレスに、黄色い花がふぶくようデザインされている。豪華なドレスを身に纏った少女は、小首を傾げアベルを見あげている。
咄嗟に、モモは踏みこんだ。だが間に合うはずもない。
「──キャアッ!」
アベルは乱暴に腕を振る。その手を握っていた少女は振りほどかれ──地面に叩きつけられた。
カインが娘の名を呼び抱きおこす。彼女の母はおろおろとするばかりで、弟はきょとんと瞬いている。
「ハンカチ」
短く命じるアベルの手に、修道騎士がシルクのハンカチを捧げもつ。かれはそれで、姪に握られた手を丹念に拭いている。
「アベル、おまえ、私の娘によくも──」
「けがらわしい女に触られたんですよ。──ああ、消毒薬も持ってきて」
「帰らせていただく」
泣きながら縋る娘を抱きあげ、カインは毅然と云う。
「妻と娘をこのように貶めるお茶会など、参加する気はない」
「そうですか。お帰りの馬車を用意させましょう」
「いらん。こちらで手配する」
カインはそのまま背を向けたが、一度だけ振りかえる。
「おまえが用意した馬車が、私の妻と娘を乗せたら、その馬車を──馬ごと、おまえは廃棄するのだろうからな」
「さすがカイン兄さま。ぼくのことをよく理解しておられる」
溌剌とした笑みとはほど遠い──怒れる表情を隠しもせずアベルに向けて。カインは──カインたち一家はお茶会の中庭を去った。
「あれが女だよ」
とろりとしたアベルの眼は──相変わらず焦点が合っていないようであったが、おれに向かって発された言葉だということは判った。
「男には絶対服従でなにも云えやしない。或いはあんなにも幼い時から男を意識した仕草を見せる。男に寄生して生きるしか能のない害虫が」
モモは思いだす。コロッセウムで、女の人を鮫に食わせる見世物をやっていたのは、この王子なのだ。
「だから、殺してもいいのか? あんな風に、鮫に食い殺させるなんて、酷いことをするのは──殿下にとって、害虫駆除なのか?」
「あれは見世物だって、ユーグは云ってなかった? 男の欲を発散させるために必要なんだよ。帝都の綺麗な秩序のためにやってるだけでさ。自慰している男がいたでしょう? 男の女に対する加害欲って、性欲の代替になるのだから。男は女を犯す時と同じくらい、女を甚振る時気持ちよくなるんだよ」
歌うようにアベルは云う。
「ぼくは女を犯したいとは思わないけれど、女ごときの意見で何事か変わるのは虫唾が走るし、女は男に消費され、子を産むためだけのものだって判らせるために、強姦や中絶禁止は当たり前にあるべきだよね」
「女じゃなくて、カインの奥さんじゃないのか」
アベルの眼が──うつろだった眼が、すうと。
「殿下が憎んでいるのは、制裁したいのは、女じゃなくてお兄さんの奥さんなんじゃないのか」
焦点を結ぶ。直にモモを見て。アベルは、にっこりと、笑った。
「どうして、そう思うの?」
「奥さんに、お兄さんをとられて憎んでいるんだ」
おれは──ジルが憎いんだろうか。そんなことをぼんやりと考えてみる。
「不敬」
一言、アベルがつぶやく。途端に、モモの両側に修道騎士が立つ。
「南の主塔に連れていきなさい」
修道騎士たちが燭台の陰から現れ、モモを捕らえた。連れてゆかれる。アベルにとってはいつでもよかったのだろうが、この時にした。この時からモモは囚人らしい囚人となる。
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