6th. 赤く濁るプール

 モモは再びひとりになった。落第生と蔑まれ、教師にも学生にも無視される。だが、モモは怯まなかった。モモを厭う教師たちに教えを請うのに苦労をしたが、そんなものは苦労のうちに入らない。いないものとして扱われるのがつらいだなんて思わない。ジルはもっと苦労した。つらかった。でも頑張った──サワタリのために。

 おれは従魔だけれど。従魔だから。従魔として。ご主人の役に立つ者になるため、おれにできる精一杯のことをする。いまだに着慣れない学生服でも、背筋を伸ばし構内を歩いた。どれほど無視されても講義にしがみつき、ついていけないところは休み時間や放課後に自学自習に励んだ。

 やがて、武術基礎演習では、最後まで走りきれる体力がつき、武術応用演習ではついに弓をとり矢を射るところまで漕ぎつけた。文学や社交学はまだまだだったが、冒険学をはじめとした冒険者登用試験の科目は、おいてけぼりにされることなく、その日に習ったことを、その日に復習できるようになった。落第生だったが、モモは結して折れなかったのだ。

 ところで、大学は週末が休みになる。

 クラブ活動に勤しむ者が多勢を占めるが、モモはその日、決まって外出届を提出する。修道騎士団本部へ行くのだ。もちろん、ユーグに会いに。

 『ちょこちょこ遊びに来い』とは社交辞令でなく、大学の最初の休みの日に、早速来いと手紙が来た(魔法の手紙で、すごくきれいだった)。それ以降、大学が休みの日、モモはユーグを訪うことを欠かしたことはなかった。

 ところが、ジェームスの簒奪事件があり、どうしても外出する元気がなく、前回は寮の自室に閉じこもってしまった。ゆえに、今日は二週間ぶりの来訪となる。先週は来れなくてごめんなさい、と。ユーグの部屋に入ったら、先ず頭を下げようと思っていたのだが。

「よお、モモ!」

「え、あ、ユーグ?」

 本部の寨の出入り口である、跳ね橋の前だった。立哨の兵よりも前に出て、ふんぞりかえっている。赤毛に鬱金の瞳の──ものすごく、綺麗なひと。

「部屋を出てきていいのか? またゴドフロワに怒られるぞ」

「呪毒はおまえの薬で止めてもらってる。ほんとう、有難うな」

「それは、えと、おれでも役に立っているのなら、うれしい……」

「つーわけで、モモ、俺と帝都デートしよう!」

 うん?と首をかしげる。

「帝都デート」

「そうだ! 一緒に遊ぼうぜ!」

 そう云って、ユーグはモモの手をぎゅっと握る。無邪気というか、子どもみたいな人だ。こんなに綺麗で、しかも修道騎士団でも無二の賢者だというのに。

「あっ、待て。ちょっと手を離すけど、またつなぐからな、待ってろよ!」

 ユーグは背に垂らしていた赤毛を一つに括り、更にフードを目深にかぶる。そういえば、今日は騎士団の制服ではなく、地味な普段着を着ている。地味な普段着、というが、帝都のそれはたいへん上品で、上質なものなので、一般の町人にはとても手の届かないようなものなのだが。

「顔を隠してゆくのか?」

「まあな。俺の顔面派手だしさ。制服来てるか装備つけてるかじゃねーと、絡まれんだわ」

 そりゃあ……歩いているだけでも大騒ぎになりそうだな。それくらいとんでもない美形なのだ、ユーグは。

「ほい」

 もう一度モモの手を握り、ユーグは微笑む。……いや口許だけでも、とんでもない美形なの判ってしまうぞ。

「モモ、どっか行ってみてーとことかあるか? 俺様が帝都のどこでも、スペシャルに案内してやるぜ!」

 と、ユーグがぐいぐいくるものだから、断るということも忘れ、モモはかれとの一日デートに繰りだすことになったのである。



 行ってみたいところ、と云われて、モモが思いついたのは大神殿だった。

「旅の途中で、レンとリダーという人達に会ったんだ。えっと、この世で一番すごい神殿に、参拝に行くって。火の神様が好きな赤いベールと、赤い布と、お酒の入ったひょうたんと、杖と、あと、あと、ロザリオと」

巡礼者ペルグリーヌスか。イニス・エト・フラテル大神殿つってなかったか」

「そう、それだ!」

 モモはうなずく。

「おれの学校も、その名前を戴いているって聞いたけど、ほんとうの神殿に行ったことはないんだ」

「聖フラテルは、もとが神学校だかんな。ふうん、おまえ行ったことなかったのか」

「休みの日はユーグに会いたかったから」

「そうかそうか、愛いやつだ」

 ユーグはぐりぐりとモモの頭を撫でながら、でもなあ、と続けた。

「神殿は帝都のど真ん中にあるし、行ってみるのは全然いーんだけどよ。中に入るのは難しいんだよな」

「えっ、そうなのか?」

「巡礼者ってのは、世界中からやって来る。んで、教皇猊下の秘蹟にあずかるわけだが、勿論一日に猊下に拝謁できる人数は限られている。つまり、すんげー順番待ちしねーと入れねーんだ」

 今だと二ヵ月待ちくらいか、とユーグは云う。

「二ヵ月!」

「俺が修道騎士の立場でゴリ押せば、特例で通してもらうことはできるだろーけど──そーゆーやりかた好きじゃねーんだよな」

「あたりまえだ。みんな長い旅を乗りこえて、それで、ちゃんと順番を守って参拝しているのに、ずるはだめだ」

「愛いやつよ」

 またぐりぐりと頭を撫でられる。ハーフアップにした髪がぐしゃぐしゃになる。結びなおそうとすると、ユーグが「俺がやる!」と自ら紐を解き、きれいに括ってくれた。

「外から神殿の建物を見るだけならできっからさ、行こうぜ。きれーな神殿だから、帝都見物にゃちょうどいい」

「うん!」

 そうして、ユーグの手にひかれ、モモはイニス・エト・フラテル大神殿へと向かった。

 大神殿は、帝都郭内の本通り沿いにあった。空を衝かんとするその威容に、モモは感嘆の言葉もなくし見入った。

 先ず眼を惹かれるのは、すくりと伸びる双塔だ。美しい円錐形が連続し、からみあい、上へ上へとさしのばされ、最後は二つの先端が空を穿つ。あそこから見おろせば、地上にいる人々など点にしか見えないだろう。圧倒的スケールの巨大な双塔は、ため息が出るほどにうつくしい。

 一つ一つの円錐が、人が最も美しいと感じる比率で造られているのだと、ユーグが説明してくれた。なるほどかたちもうつくしいが、色もまたすばらしく綺麗だった。陽光に煌めく黄色の石で造られているのだが、この石は透明に見えるのに、なぜか向こう側が透けて見えない。それは透明というものではないのではないか、と思うが、やっぱり透明に見えるのだ。ディア・ファヌムルテウムという名の希少なギョクだと、これもユーグが説明してくれた。この玉が採れる山は特区となっており、神殿の許可がなければ入れないという。採れる山自体も少なく、産出量も極少。そんな希少のなかの希少である玉で、これほどに巨大な神殿を造った──神殿の、延いては教皇猊下の権力というものが、一目で判るというものである。

 神殿に近づくと、また──何度目かため息が漏れた。双塔がつながり、一つになった根もとのところに、何十体もの彫刻が飾られているのだ。帝都の門の小広間に設えてあった祭壇で、見た。神学の授業でも習った。あれは、人となった神様が、世界中に結界を授ける旅をしたさい、付き従った十二使徒。

「聖タラータ……」

「お、使徒様を知ってんのか」

「ご主人が、字の勉強にって、絵本を買ってくれたんだ。それが聖タラータの本だった」

「ふうん、珍しいな。聖タラータはご自身で書物を残されなかった──ああ、聖イトナーシャルがお書きになったものか」

「聖イトナーシャル?」

「聖典の著者とされている。聖典っつーのは、火神様の旅記から十二使徒の生まれまで、様々なことが書き収められている。殆どが聖イトナーシャルの手記で、それを整えたものが聖典として読み継がれ、今に至る」

 会話をしながらも、モモは彫刻から眼が離せない。あんなに大きいのに、こんなに精緻である。服の皺一つ、羽毛のふくらみ一つが忠実に掘りだされ、まるで生きた人がそのまま、石の像になったみたいだ。──と、いつまでも神殿から眼が離せずにいるモモに、ユーグが笑いながら提案する。

「また連れてきてやっから──そうだな、参拝の申請もしといてやるよ。神殿の中もすげーから、心の準備をしておくように」

「有難う、ユーグ」

 つないでいた手をぽんぽんと叩かれ、またぎゅっと握られる。ユーグの手は少しひんやりして、体温まで綺麗な人だな、などと思う。

「腹減ったろ、飯行こうぜ、飯!」

 勢いよく手を引っぱるのは、子どもっぽいんだが。──そこもまたかれの魅力なのだろう。

 そうして手を引かれ連れられたのは。

「アーケード? というのか?」

「おう。帝都にゃ立派なデパートがごまんとあるが、俺はこっちのが好きでさ」

 そこは、大きなトンネルのような場所だった。天井はガラス細工が敷き詰められ、それを通ってきた光りが、まろやかに照らしている。そして、その両側にずらりとお店が並んでいる。ショウ・ウィンドウも上品で、一つ二つの商品と、瀟洒な飾り文字で綴られたプレートが置かれていた。

「じゅうぶん立派なお店ばかりだけど」

「小さい店ばっかで可愛いだろ。食い物屋もちっさくてさー、居心地良いんだよな」

 と云って、ユーグがモモを連れて入ったお店は、四、五人分ぐらいの席しかない、正しく小さくて可愛らしいご飯屋さんだった。

 出てきた食事は、寮の食堂で出される食事と変わらない、質素なものだった。──質素、とは勿論、帝都に於いて、という意味である。パンは真っ白でふかふかだし、卵にも豊かな味がついている。硬くて茶色のパンや、せいぜい塩をふったくらいの卵というのが一般的な町で出される食事である。モモは初めて寮で出された食事に眼を剥いたものだった。

 初めてもなにも、未だにこの豪華な食事は慣れないのだが。しかし──。

「おいしい……」

 思わずつぶやく。バジルを落としたスープは、とても良い匂いがして、優しい味がする。

「だろ? トウモロコシは北域の産地のものだが、魔法で運搬しているから、鮮度が抜群なんだよな。あと、生クリームがこの店の秘伝ってやつでさ、あ、飯が終わったらデザート頼もうぜ。シフォンケーキに生クリームのっけて食べると、マジうまくてさー」

 嬉しそうに話すが、ユーグの食は余り進んでいない。聞けば、食欲がないのだと苦笑する──呪毒を受けてからずっと。

「おまえの薬で、これ以上の進行はねーんだが──それでも今まで傷つけられた場所が治るってことじゃねえだろ」

 そうなのだ。モモの薬は、「傷の時を止める薬」。これ以上悪くならないし、これ以上よくもならない。

「回復魔法を常時使っているが、体の免疫も闘っている。そちらに体力をもってゆかれているから、他の機能が落ちちまってるんだよな」

 ご飯を食べる体力すらない──死に瀕しているのだと実感し、モモは唇を噛む。

「おれがもっと、ちゃんとした薬をつくれれば」

「殿下の秘蹟でなければ癒やせない呪毒なんだぜ。干渉できただけ、おまえはすごすぎなんだぞ、モモ」

 明るく笑って云う、ユーグは痩せ、真っ白な顔色をしているが、言動が無邪気で元気なせいで、死に瀕しているという風に見えない。でも、やはりぎりぎりなのだ。こうして外出することは無謀だったんじゃないか。

「なあ、ユーグ。やっぱり帰って寝ていた方が──」

「なあなあモモ、飯食ったらどこ行く? 他に行きてえとことかねーか?」

 いつもぐいぐいくる人だけれど、今日はいつにも増してぐいぐいくるなあ、などとぼんやり考えていたら。ランチの後はショッピングに連れだされた。衣類や雑貨を見てまわったが、さすが帝都である。どの店の物も一級品たる──お値段をしていた。それをユーグは気安くモモに買ってやろうとするものだから、断るのに汗だくになった。ただし──唯一モモがユーグにねだって買ってもらったものがある。薬草である。

 帝都とはいえども、薬草──薬やその材料を扱う専門店はなかった。薬学の地位が低いことと直結しているのだろうから、もしかしたらこれから先増えるかもしれないが──ともかく、モモがその薬草を見つけたのは、バザールのワゴンでだった。帝都の中央広場には、珍しい品を取り扱う商人がずらりとワゴンを出していたのだ。その中に、貴重な薬草を発見し、だけれどとても高価であったから、モモはユーグを見あげた。ユーグは──笑顔満面で、モモが欲しがるだけ──欲しがる以上に薬草を買ってくれた次第である。

 いつも肩からかけている薬草ポーチがぱんぱんに膨らんで、重い。それがうれしい。何度も何度もお礼を云うモモを、ユーグは機嫌良く撫でる。そうしてバザールを漫ろ歩いていた時だった。

「あれ、何だ?」

 モモは指さす。なにか──ふしぎなかたちの建物があった。円形をしているが、重厚に積みかさなった石が厳めしい。

「コロッセウムだな」

「コロッセウム」

「円形闘技場。闘士と闘士の闘いや、闘士と魔物との闘いとか、まあ、戦闘の見世物場だ」

「そんなものがあるのか」

 ふと、モモはユーグの膝を見る。かれはアベルの命令で伝説の魔物と闘い、この呪毒を受けた……。

「正解。俺が蛇の魔物と闘わされたのも、あそこ。あそこはさ、アベル殿下の管轄なんだ」

「アベル殿下の……」

 モモはぎゅっと、両手を握る。

「行ってみたい」

「ん?」

「おれ、コロッセウムに行ってみたい、ユーグ」

「……んー」

 なぜかユーグは、難しい顔をしている。これまでは、モモが行きたいといえば、二つ返事でうきうきと連れてきてくれていたのに。

「何を見ても、俺の隣りを絶対に動かないこと」

「うん?」

「それを約束できるなら、連れていってやってもいい」

「動かないぞ? ユーグの傍を離れたら、おれ、迷子になって寮まで帰れないと思う」

 表情をふっと緩め、ユーグはモモの頭を撫でる。

「約束だぞ」

「うん」

 そして、ユーグはモモを連れコロッセウムに行ってくれたのだ。

 近くで見ると、厳めしい円形の建物もまた、途方もなく巨大なのだと判った。だが、帝都らしいうつくしい造形とは少し違う。味気ない石組みの建物は、どこまでも冷たい。中に入ると、陰惨ささえ感じた。それはここで行われる見世物が、戦闘だからなのだろう。

 幾人もの──何匹もの血を吸った床がいちばん低い位置にあり、その周囲を囲うよう客席がある。盛況だった。殆ど満員とも云えるほどに右も左もぎっしりと人が座っている。

「……まずい」

 小さく、低くつぶやく声に、モモは隣りを見る。

「今日はアベル殿下がおでましなのか」

 ユーグの眼はちょうど向かい側にある貴賓席に向けられていた。屋根がついており、豪華な寝椅子が置かれている。遠すぎてよく見えないが、そこに寝そべっているのが、あの王子様らしい。

「アベル殿下がいると、まずいのか?」

「凄惨になる──よりいっそう」

 モモは首をかたむける。

「おれは冒険者のご主人と一緒に旅をしていたんだ。魔物の血も──人の血も見慣れているから、だいじょうぶだぞ」

「そうか。頼もしいな」

 ユーグは笑おうとしたが、笑えていなかった。どうしてそんな表情をしているのだろう。考えるモモの思考に割り入るよう、鳴り響いたのは喇叭の音。

 見世物が、始まったのだ。

 驚いたのは、大量の水がいきなりコロッセウムの舞台を覆ったからだ。下の方の席の人達が、慌てて上の方へ避難している。円形の建物の一番底に水が溜まり、ちょうどプールのようになった。さすがにモモたちの座るところまでは水はきていないが、かなりの水深がある。

 そして、その即席のプールが──海水であったのだと知るのは、そこに放たれたものを見たから。

「あれは……なんだ?」

「──鮫」

「鮫だって!? 海から運んできたのか!?」

「秘蹟を使えるアベル殿下にしてみれば、簡単なことだな」

「なんのために──鮫なんか」

 そう云ってはみたが、モモに予感がなかったとは云えない。

「モモ、俺の隣りを動くなよ」

「それは……うん……約束した……でも」

「でももくそもねえ。動くな」

 独特の背びれが、すいすいとプールを行き交う。何匹の──何十匹もの鮫が、プールに解き放たれているのだ。そして次に運びこまれたのは──。

「女の、人」

 女は人ではない、と云ったのは誰だったか。道徳の教科書だったかもしれない。でもモモは思う。女の人達が、板きれに乗せられ、次々とプールに浮かべられている。

「なにを……なんで……こんな……」

 最初に悲鳴があがったのは、いつだったか。いかにも頼りない板きれは、ただ乗っているだけでもひっくり返る。そうしてプールに落下した女の人は──遊泳する鮫に……。

 プールの色んな場所が、赤く濁っている。鮫たちは興奮し、まだ板きれに乗っている女性にも襲いかかっている。板が傾ぎ、ずり落ちてゆく女性の足に、鮫が食らいつく。足が、腹が、胸が、頭が噛みつぶされるまで、女性は悲鳴をあげつづけていた。

 阿鼻叫喚の地獄を見せる、プールを取り囲む観客席は大盛りあがりで、それもまたモモには理解ができない。男たちは巨大な鮫に食い殺される女性たちを見て、たいへんに盛りあがっている。中には股間を扱き自慰をしているものまでいて、モモは唇を噛んだ。

「……帝都で女がレイプされない理由が、これだ」

 低い声で、ユーグがつぶやく。

「定期的に、女を惨殺するショウがここで開催される。男たちはこれを見て発散する。……男同士が、或いは男と魔物が闘うのを見るだけじゃあ、満たされねえもんがある。それが、これだ」

「女の人を無惨に食い殺されることを、ショウと呼ぶのか!?」

「発散する機会は必要なんだ。でなければ帝都の男たちとて加害欲を持て余し女を襲う。……治安維持のためだ」

「今あそこで食われている女の人達の命よりも、男の欲を満たすのが道徳なのか!?」

「モモ。俺とてこのショウを楽しむ気にはなれない。殿下にもさんざん諫言している。だが、だめなんだ。殿下は結しておやめにならない」

 また、一人食われた。歓声があがる。男たちは身を乗りだし、舌なめずりをしながら食い殺される女性たちを見ている。プールはもはや全体が血で濁り、そのところどころに、腕や足、髪の毛のついた頭部などがぷかぷかと浮いている。凄惨、凄絶、惨憺──などという言葉ではとても表せない。

「子どもまでいる……」

 まだ幼児といえる歳の女の子は、お母さんと思わしき女性に抱きあげられている。母親は必死に鮫から子どもを守ろうとしているが、板きれは上下に激しく揺れ、また鮫が乗りあげて来さえする。

「……!」

「モモ!」

「むりだ、おれはいく」

「約束しただろう!」

 立ちあがったモモの腕を、ユーグの手が掴む。それを思いきり、モモは振りはらった。

 モモはその場で魔物モモンガに化ける。熱狂するコロッセウムに、小さな魔物が一匹紛れこんだところで、見咎められることはなかった。それで、人でごった返す観客席を飛んで降り、プールの縁まで辿り着いた。

 そこでもう一度、変げを使う。人のすがたに戻り、見渡すとさっき見た母子の板がすぐ傍に来ている。モモは咄嗟に、両手を伸ばした。

「こっちに!」

 母親の眼が、縋るようにモモを見る。そして彼女は、抱いていた幼女をモモの手に渡してくれた。

「あんたも来るんだ。飛び移れ!」

「その子がぶじならば、わたしはいいの」

 見れば、彼女の足には既に、鮫の牙が突き立っていた。

「女に産んでしまって、ごめんね、エリカ」

 彼女の最期の言葉が、それだった。無数の鮫にたかられ、頭も手足も胴も全部、別々の鮫に食われて、女性は死んだ。

 せめて惨たらしい死に様を見せぬよう。モモは渡された幼女を抱いた。放心というのか、泣きもせずただ立っている。彼女の腕に小さな擦り傷を見つけ、モモは薬草ポーチを開いた。

「おくすりを、塗ろうな」

「……」

 やはり何の反応もない。だが、モモは彼女の擦り傷に、丁寧に薬を塗りこむ。その時だった。

「!?」

 がしゃん、がしゃん、と音が鳴った。同時に、首筋に冷たい感触。この剣を知っている。クレイモアと呼ばれる、修道騎士の聖なる剣。その剣がモモの後ろから突きだされ、前で交差している。つまり、モモの後ろにいる騎士二人は、いつでもモモの首を刎ねられる……。

 そして、もう振り向くことさえできないモモのまえに、悠々と歩んでくるのは──。

「アベル殿下!」

 呼んだのは、ユーグだった。観客を掻き分け、ようやくこのプールの縁まで降りてこれたらしい。

「このたびは、私の連れが背徳をはたらき、誠に申し訳ございません。私の監督に責任があります。どうぞ私にお裁きを」

 膝をつき、頭を垂れるユーグを一顧だにせず。アベルは楽しそうに眼を細め、モモを見ている。

「どうして女なんかを助けたの?」

「当然すぎる答えだろう」

 うふ、とアベルは笑った。

「ぼくのうちに連行して。この罪人の裁きはぼくがくだすから」

「アベル殿下! 裁きは私にと申しあげております!」

 アベルは面倒そうに振り向き、ユーグを見る。

「おや、ぼくの可愛い賢者殿は、まだ右足が痛むらしい。──あなた、しばらくお休みしてていいよ」

「殿下! どうか!」

「ぼくの秘蹟を待たず、薄汚い庶民の作った薬で治療したらしいじゃない。そんなにぼくのこと信用していないの、ユーグ」

「それは──」

「除隊とは云わないからさ。あなた、少し休んでいてよ。ねえ、ユーグなら、さいごはぼくの云うことを聞いてくれるものねえ」

 モモは立たされ、腰に縄を打たれた。両腕の拘束も、前回よりも厳しい。きつく食いこむ縄を見て、モモはユーグを振りかえる。

「ごめんな、約束やぶって」

 ユーグは懸命に、モモに手をのばす。だが、他の修道騎士に押さえこまれてしまっている。

 モモを捕らえたアベルは、機嫌良く歩きだす。その途中に、ぼんやりと立つ幼女がいた。先ほど、モモが彼女の母親に託された──。

 その幼女を、アベルは歩くついでとばかりに足で蹴る。ぼちゃん、と水音がした。一瞬で、プールがまた赤く濁った。

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