5th. 僕の夜にあいにきて、抱きしめて

 先端の尖りを胸に向けた。熱いような、痛いような胸に。

(懐かしい)

 胸を焼く思いは、懐かしいというより、なじんでもう、おれそのものだった。それくらい。

(おれは、もともと、死にたかった)

 死にたいくらい、産まれてきたことがいやだった。産まれたくなかった。お姉ちゃんを妹をお母さんを苦しめるために産まれさせられて、うれしいわけない、いやだった、いやだったいやだったいやだった死にたいくらい。

 死ぬからどうかゆるしてください──それだけを、おれは、思うものだったのに。

「おまえ、あの時と同じ顔をしている」

 モモは鈍く、瞬く。

「あの時って、いつだ」

「飢えた俺の食糧になろうと、うさぎに化けて火の中に飛びこんだだろう。あの時と、同じだと思ったから」

 大きな手が、モモの小さな手にかぶさる。手の甲をさすられたら、力が抜けた。床にそっと包丁を置くと、よくできた、と褒めるよう、この手はおれの頭を撫でてくれるのだ。

「ご主人……っ」

 夜の暗闇から分離するよう、いつかサワタリのすがたがモモの傍にあった。

「おまえを、抱きしめてもいいか?」

「あるじは従魔に頼みごとなんかしない。命令するんだ」

「俺を拒むな、抱かれていろ、モモ」

「はい、ご主人──、……っ」

 もう涙など溢すだけ溢したと思ったのに。ご主人に抱きしめられると、あとから、あとから、とめどなく溢れてくる。サワタリに抱きしめられ、モモは泣いた。

「おまえ、魔物モモンガのすがたに戻れ」

「え……?」

「ずいぶんと長い間、人のすがたに化けたままだろう。おまえの硬い毛皮が懐かしくなった」

 そうだ──ゴドフロワと帝都まで旅をしてきて、それからずっとモモは人のすがたでいる。別段負担はないのだが──それでも、サワタリの言葉が、そのままのものでなく、モモを思いやってのことだということは判った。

「でも、こんなところで、魔物のすがたに戻ったら──」

「ここには今、余人の気配がない。加えて、俺は誰かが近づいてきたらすぐに察知できる」

 モモは甘えた。音をたて、魔物のすがたに戻る。ぎょろぎょろと飛びだした目玉に、枯れ枝のよう細い腕にはびろびろと飛膜が垂れている。生まれたての人の子くらいの大きさの、醜い魔物。それがモモのほんとうのすがただった。──そう、モモも、サワタリも、そう思っている。

「来い、モモ」

「うん」

 膝をついたご主人の腕のなかに、モモは飛びこむ。サワタリの両腕にすっぽりと囲われ、世界で一番安全な場所にしまわれる。

 サワタリは何も云わない。もともと口数の少ない人だ。だから、沈黙は怖くない。むしろ言葉がなくてもみちたりるものがある。ご主人の体温だけでもう、さっきまでの切迫した思いが融けてゆく。死にたい、なんて思わない。だって、産まれてきたからサワタリの従魔になれた。

「なあ、ご主人」

「うん?」

 そうだ、おれは従魔なんだ。だから、傍にいてもいいと、甘えていた。

「ジルは、元気にしているだろうか」

「ジル? やつはいつも気力が充溢している。それで健康をおろそかにしているが」

「眼の下にすごい隈ができていた」

「ジルに興味があるのか?」

 闇の町の天才鍛冶師。ご主人の、好きな人。つらい夜に会いにきて、抱きしめてやりたいのはおれじゃなく。ジルのことだともう、知っているから。(だいじょうぶなんだ)

「今なら聞けると思ったんだ」

「今というのがよく判らんが」

「ジルの話を聞きたい。だめだろうか」

「断る理由はない」

 サワタリは床に腰をおろすと、モモを一度抱きなおす。──どんな抱き方をされても、ここがおれの居場所だと思うけれど、ご主人はおれがもっと落ち着く姿勢を知っているんだ。

「さて、ジルの何が訊きたいんだ?」

「どうやって──どんな努力をして、あんなにすごい鍛冶師になったんだろうか」

 かすかに微笑んだご主人に、モモは首をかたむける。

「おまえの眼をとおしてみる世界は、透きとおっている」

「うん? どういう意味だ?」

 モモのミルキーベージュの背を撫で、ご主人はそれには答えず──その一つまえの問いの答えとなる、物語りをかたりだす。

「ウトゥラガトス・ニドムが無政府主義者アナーキストの町だということは教えたな」

「うん。帝国から独立した自由の町。王の庇護を受けず、自分たちで武器を取って闘う」

「更に積極的な反骨の精神の象徴として、あの町では同性愛が異性愛よりも尊い性愛であるとされている」

「ああ……うん……そうなのか」

 歯切れの悪い返事になったのは、それを知っていたからだ。モモは一人で町を巡っていた時、職人の男に強姦されかけた。あれがその『尊い性愛』なのだろう。

「ジルは、あの町にある男娼窟に売られた」

「男娼……って」

「男が男を性的に悦ばせるために、あらゆる技巧をしこまれた商品が、男娼だ。その商品を陳列し、サービスを提供するのが男娼窟。ジルが売られたのは、やつが九歳の時だったが──なにもかもを了解したうえで、あいつは自ら、あの町の男娼窟に売られることを望んだ」

 サワタリは淡々と続ける。

「俺など想像することもできん、どん底の生活だったろうと思う。だが、あいつの眼から光りが失われることはなかった。さして見栄えのする容貌ではなかったが、それこそ技巧を──磨いたのだろう。二年もすると幾人もの上客がつくようになり、ついに名だたる鍛冶師の中でも随一と謳われるマレット工房に身請けされることになった。やつは最初、マレット工房に飼われた、稚児だった」

 ぞわぞわと、さっきから寒気が止まらない。モモは知っている。男に下着を剥ぎ取られ、肌に触られたことがあるのだ。あの時の──不快感という言葉では追いつかぬほどの、苦痛。ジルは、あれを毎日受けていたのだ。

「当時のマレット工房の親方は、稚児趣味で有名だった。他に幾人もの稚児を飼っていた。そのなかから、ジルは這い上がった」

「這い上がった?」

「夜に寝室で玩具にされるだけであった稚児が、昼に工房に出入りするようになり、軈て鍛冶の腕を身につけ、ついにはマレット工房の後継者たる鍛冶師となっていた」

「それは──どれほどの、努力、なんだ」

 サワタリは赤い瞳を細める。

「工房には当然、鍛冶師の見習いとして雇われていた者もいた。それらをおしどけ、鍛冶の腕を身につけるために、やつは──文字どおり、体を張った。親方の寵愛を最も受ける稚児となり、ついに技工を教わるところまで漕ぎつけたのだ。無論、他の者からは恨まれた。他の稚児たち、見習いたちに。憎まれ、恨まれ、散々に妨害をされながら──それでも、ジルは折れなかった。鍛冶の研鑽に励み、励んで──凄まじい努力の末に、マレットの姓と工房を受け継ぐ職人となった」

「サワタリの武器になりたい、とジルは云っていた」

 モモは眼を閉じる。思いだす。桃色のポニーテール。黒い瞳の下には、もっと真っ黒な隈が貼りついていた。寝食を忘れ鍛冶に──サワタリのナイフを造ることに打ちこむ、闇の鍛冶師。

「なにものにも折れない、なにものもを貫き切り裂くナイフを造れるようになるまで、僕は死に物狂いで研鑽して、ここにいる、と」

 閉じ合わせていた瞼を、ひらく。

「ご主人のためだ」

 モモは、サワタリを見あげた。

「サワタリのために、ジルは嫌なことにも耐えて、耐えて、頑張って──果てしない努力をして、あの闇の職人の町で一番の鍛冶師になった」

 サワタリは、微かに首を傾ける。モモの頭を撫で、モモの大きな黒い眼を見おろす。

「やつは強姦の末に産まされた子だった。堕胎は重罪であり、況して産まれた子が男子であれば、育児に尽くすのが女の義務だ。やつの母親は、呪詛を浴びせながらジルを育てたという。ジルは、七歳で家を飛びだし、旅人から食い物を盗みながら生きていた。だが、盗みが露見し、袋だたきにされることもままあった。そうして死にかけている時、俺と出会った」

「ご主人が、助けたんだな」

「助けた、というつもりはなかった。俺も腹を空かせていて、食い物を求めていた」

 サワタリは、果物ナイフを持っていたという。それで旅人を脅し、或いは傷つけることも躊躇いなくやって、食糧を得ていた。そのサワタリにジルはくっついてきた。なんとなく、サワタリはジルにも食い物を分けた。ふたりでそうして、半年ばかり街道をふらついていた──この時が、きっとジルにとって、最も幸せな時間だったのだ。

「だが、所詮は子どもだった。旅人相手ならば、幾人とでも闘えたが──盗賊団には手も足も出ずひねられた」

「盗賊団!?」

「盗賊団に捕まったんだ。抵抗はしたが、二人とも荷物のように馬の背に縛りつけられ、運搬された。もともと子どもを攫って売買するのを生業としていた盗賊団で、俺も売り払われるはずだったんだが」

 人身売買──それは厳しく禁じられている筈だが、そうだ、ウトゥラガトス・ニドムも帝国の法律などに縛られない場所だった。盗賊団とて、帝王をまつろわぬ者──闇の鍛冶師たちと同じ、アナーキストなのだ。

「盗賊団の副長──そいつが俺を仕留めたんだが──が、俺に興味を示した。仕込めば戦闘員として働かせることができそうだと。俺は縄を解かれ、ナイフを返された。そのナイフでもう一度挑んだが、やはり負けた。ジルを助けることはできなかったんだ。だが、ジルはそのままでいいと云った。自分から、ウトゥラガトス・ニドムの男娼窟に売られることを志願した。──強い、意志だった」

 疑問を持て。考えろ。どうすれば守られるだけの存在にならないか。自分にできることはないか。……ジルは、考えたのだ。考えて、そして、サワタリの武器になるため──とほうもない努力を重ねたのだ。

「おい、モモ?」

「うん……」

「泣くような話しだったか?」

「うん」

 ぼろぼろと溢れてくる涙を、モモは小さな三つ指の手で拭う。少し遠くの床に、きらりと光った。淡い月光を照り返す、包丁。あれを握り、気持ちの悪くなった胸に向けた自分は──なんて、弱い。

 ジルは、なんて、強い……。

「ご主人、ジルの話しをしてくれて、有難う」

 鼻水がつくのもかまわず、ご主人はモモの顔を拭いてくれる。

「……初めてだ」

「?」

 サワタリが口端を持ちあげる。

「俺が俺の過去のことを、誰かに話したのは──おまえが、はじめてだ」

「……もっと知りたい、ご主人のこと」

 ほんとうは、少し痛い。だって判ってしまった。

 サワタリとジルの絆を、知ってしまった。サワタリを愛するジルの思い。その強さを、愛さずにはいられまい。

「ならば──、……、」

 なにかを云いかけた、ご主人の口が。ふと噤まれる。赤い瞳が緊迫を帯びるのを、見た。

「なんだ? なんだ、ご主人?」

「見られた──見られていた、のか」

 声にもならぬほど低く、つぶやいたサワタリは。モモを抱いたまま立ちあがる。

「モモ、人のすがたになれ」

「あっ、うん、はい、ご主人」

 音をたて、モモは人のすがたに化ける。ご主人の腕に抱かれたままだったから、自分で飛び降りた。

「──もう少し、傍にいたかったが。俺は行く」

「傍にいたかったのは、おれのほうだぞ」

 サワタリは、モモのハーフアップの髪を撫でる。

「ずっと、おまえに会いたかった。おまえが弱っているところにかこつけて、来てしまったのが、今だ」

 モモは、撫でられた頭を押さえる。サワタリの好きな人の──ジルのポニーテールの頭と、おれのハーフアップの頭は、少しだけ似ている。

「ご主人」

 微笑む。サワタリを見あげると、ふっとそんな、表情が、溢れた。

「おれは、ご主人の従魔だ」

 ご主人のことが大嫌いでも、大好きでも、おれは……。

「では、命令しよう」

 サワタリは、モッズコートを着ていた。まだ着るには少し早い季節だが、北域の旅は思い出深く、モモがいちばん見慣れたご主人のすがただった。

「俺を拒むな、抱かれていろ」

「はい、ご主人」

 両腕を伸ばす。両腕が、背中の後ろにまわってくる。抱きあって、少し。そして、サワタリは機敏に身を翻し、夜の闇に融けていった。

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