4th. 無能な劣等種の研究成果
四元素がこの世を司っている。
主に魔法学で用いられる四元素論とは、火、地、風、水の四つの元素により、あらゆる物質、あらゆるエネルギーが構成されているというものである。ドロシーはこの四元素論を薬学に組みこむことで、独自の理論を構築し、それに拠って無限に近い調剤を可能としていた。彼女が書き記したノートは、モモが読むには難しすぎたが、ゴドフロワの薬を作る時、その箇所だけはすりきれるほど読んでいたため、諳んじることができた。モモは先ずそれを全てノートに写した。そして、難解すぎて理解ができなかったところを、解きほぐすところから始めた。即ち、四元素論の理解からである。さすがに魔法学はとれなかったが、冒険者登用試験必須科目である冒険学方法論の講義で、四元素論の基礎を学ぶことができた。加えて、薬学で膨大な量の薬草を暗記してゆくことにより、扱える素材が格段に増えた。同じ効能を持つ薬草でも、種類が違えば、調合をした後の効能が異なることが少なくない。呪いについても学びたかったので、冒険学特講をとり、講義に食らいついた。懸命に。だけれど焦らず、ドロシーの理論の究明につとめながら、創薬を繰りかえした。
修道騎士団本部に行くたび、試作品を持ちこみユーグに投与した。成果がちっとも出ずとも、ユーグも、ゴドフロワも、いつだってモモに感謝の言葉をくれた。モモはますますのめりこんだ。軈て大学が夏期休暇に入っても、教科書とノートだけでなく、参考文献までも読みこみ、或いは教授の研究室まで押しかけることまでして、自学自習を続けた。フランシス教授の厚意で、薬学の教室を自由に使っていいと、鍵まであずけてもらえたのは、感謝しかなかった。教室に泊まりこみ、寝食を忘れ研究に没頭するモモに、ジェームスは差し入れを持ってきてくれた。優しさに触れるとまた、頑張りたくなる。頑張った。頑張って頑張って頑張って、そして──。
「機能している」
膝の傷口に手を当てていたユーグの呟きに──最初はぼんやりと瞬きをしていたのだが。
「呪毒の進行が、止まった。──正しく、時を止める薬だな」
「止まった……?」
「おまえすごいよ、モモ。殿下の秘蹟でしか癒やせないと云われた呪毒を、寛解させちまった」
「……?」
まだ、モモは自覚できていない。
「有難うございます……」
ユーグに抱きしめられ、ゴドフロワに頭を下げられて。
「有難うございます、モモ、有難うございます……っ」
モモはようやく、ようやく、それを知ったのだ。
「おれの薬、ユーグの呪毒に、効いたのか?」
「昨日と同じくらい痛い。だが、昨日より痛いということはない」
ユーグはモモを抱きしめていた両腕をほどく。
「効いている。俺の体内を進んでいた呪毒は、この薬を投与される限り、脳には至らない」
「ほんとうか? そんな、奇跡みたいなこと」
「俺は賢者だぞ。自分の体内のことくらいは判る」
「ユーグ、は、狂い死に、しないのか……?」
華やかに笑う。綺麗な人が、それはもう、とてもとても、綺麗に笑った。
「しない。おまえは俺を助ける薬を作りあげたんだ、モモ」
「……っ」
ユーグが片手で、モモの頭をくしゃくしゃと撫でる。もう片方の手でゴドフロワの頭もぐしゃぐしゃと撫でている。
「あーもう、おまえらすぐ泣くんだからよ」
奇跡でなくて何なのだ。落第生のおれみたいなのが、そんな凄い薬を作ることができたなんて。
(いや、奇跡なんかじゃない)
モモは首を振る。ドロシーのおかげだ。彼女の研究のおかげで、モモの大切な人が救われたのだ。
毎日のように性暴力に耐え、それでも薬学に打ちこみつづけた偉大なる女性。おれの師とは、彼女のことだ。
(先生と)
いつかまた、出会えたら。ドロシーにそう呼びかけたら、彼女はどんな顔をするだろう。
モモは寨から寮に帰ると、ドロシーの理論を書き写したノートを手に取った。完全に理解した、とはとても云えない。けれども、ユーグの呪毒に対抗する薬をつくりあげることができた……。
「うん……もっと、勉強したいな」
折りしも明日から、夏期休暇が明け後期の講義が始まる。今までも必死に頑張ってきたけれど、もっと頑張って。せめてこのノートに書かれたことは、全て理解できるようになりたい。そう目標を掲げ、モモは秋の大学生活に臨んだ。
しかし、その初日にして──異変が起こる。
「……?」
ユーグの薬を作ると決め、記憶の理論を書き写したノート──ドロシーのノートを、モモは大学にも持ちこんでいた。だが──そのノートが、ない。
肌身離さず、大切に持っていたのだが。ユーグの薬が完成し、気が緩んだのだろうか。モモは慌てて、心当たりのある場所──教室はもちろん廊下や食堂、運動場まで走りまわって捜した。
休み時間をすべて捜索に費やしたが、結果は芳しくなく。モモはとぼとぼと寮への道を歩いていた。点呼の時間までに帰らねば、罰を受ける。モモひとりならばかまわないが、同室者も連帯責任として罰されるのだ。
「モモ」
声をかけられ、振り向く。逆光でよく見えないが──校内でモモの名を呼んでくれる人は限られる。
「ジェームス?」
薬学の先輩。茶色の髪を靡かせ立つかれは、一冊のノートを持っていた。
「それを、捜していたんだ。よかった、ジェームスが見つけてくれたのか」
ドロシーのノートを、ジェームスは──モモが差しだした手を、ひょいと躱し──返してくれない。
「?」
「フランシス先生も感心していたよ。まさか薬学を四元素で系統だてる論法を生みだすことができるなんて──よりにもよって、劣等生のきみがね」
モモは首をかたむける。
「そのノートはおれが書いたけれども、内容は──四元素的薬学の理論を構築したのは、ドロシーという女性なんだ」
「は? 女? 女がこの理論を? モモとはいえ、バカを云うものじゃないよ」
「彼女は薬学の天才だった。おれがゴドフロワ……シンシェレ修道騎士の薬を作ることができたのは、ドロシーに学んだからだ」
「ああ……謎が解けたよ。どうしてきみみたいなのがあの御方の薬を作っているのか、疑問だったのだ。なるほど、このノートのおかげということか」
モモの手からノートを遠ざけるよう腕を伸ばす。
「モモ。きみを薬学に誘ったのは僕だ」
「うん、そうだな」
「学生も教授も皆きみを嫌厭するなか、僕たちだけがきみの味方だった」
「ジェームスとフランシス教授には、たくさん優しくしてもらった。おれ、学校が楽しくなったの、ふたりのおかげだ。薬学の講義も、とても勉強になった」
「そうだ! きみは僕らに感謝が絶えず、そしてきみごときがこの理論を書きだすことができたのは、薬学の講義を受けたからに違いあるまい!」
夕風が吹いた。ジェームスの茶髪と、それよりずっと薄い色のモモの髪を揺すってゆく。
「つまり、この理論は、僕らの研究室の成果として発表するに値する」
「どういう、ことだろうか」
舞い落ちる葉は、まだ紅くない。
「今月九日に、学部対抗コンペティションがあるのは知っているね」
「各学部の研究成果を発表する……ええと、すごい、発表会」
「そう、すごいのだよ。なにしろ帝都が誇る聖フラテル大学校で、年に一度行われるコンペティションだ。研究室のレクチャーが受賞すれば、学長である殿下直々にお言葉をいただける──それほどの栄誉を受ければ、もう僕のことを──などとは呼ぶまいよ」
失礼、とかれは首を振る。
「この理論を、薬学研究室のレクチャーとして、コンペティションで発表してもいいかい? いいよね、モモ」
モモは一生懸命考える。立派な発表会がある。それにドロシーの薬学理論が発表される。これにより、色んな人が薬の可能性について知ることができれば、助かる命も多くなる。学問とは、独占するものではなく、生きる人のためのものだ。
「いいぞ」
ただし、とモモは──せいいっぱい、大きな声をだす。
「この理論を構築したのはドロシーだと、明言してくれ。ドロシーという女性薬師の功績なんだ。ジェームスも、フランシス教授も、そんなことはあたりまえにしてくれると思うけれど」
「もちろんだとも!」
赤い。夕日に照らされたジェームスは、糸のよう眼を細くし笑っていた。
その笑い顔は、連続する。九月九日のコンペティションが終わっても。
聖フラテル大学校のコンペティションにて、薬学研究室のレクチャー『薬学の四元素論的解釈と実践』が発表された。最高学府で行われる、学問の最高峰で競い合うなか、薬学研究室のレクチャーは、見事二位を受賞した。そのうえ、学長である第一王子より賜与された言葉は、一位のレクチャーよりも長く、熱のこもったものであった。英明の誉れ高い殿下は、この理論が薬学の進歩に、延いては病いやけがで苦しむ人々を救うことに、どれほど重大であるのかを存じておられた。
発表者のフランシス教授は、黄禁城に呼ばれることとなった。随伴する研究生として選ばれたジェームスも、なにくれと忙しくしていたが──ついに、モモはかれを呼び止めることができた。
この日も、夕方だった。前の時よりも少しだけ、涼しい。だが、夕日は同じよう真っ赤だ。
「どうしてだ、とおれはずっと訊きたかった」
今日はモモの顔が逆光になっている。ジェームスの笑い顔は、よく見えた。
「薬学的四元素論を構築したのはドロシーだ。彼女の功績であると、彼女の名で発表してくれると、約束したのに──どうして、嘘をついたんだ」
フランシス教授のレクチャーに、ドロシーの名など一つも出てこなかった。──ジェームス研究生の実践的研究成果はしつこいくらいに盛りこまれていたのに。
「嘘をついたのはきみの方じゃないか、モモ」
ジェームスの赤い、笑い顔。
「女ごときが、こんな崇高な理論を発想することなど、できるわけがない!」
「ドロシーを侮辱するな。おれの師だ」
「はっ、女が師だと!? あの感情的で技術も才能もない、労働力もない、男の劣等種が、師だと? そうさ、無能な劣等種は僕たち男に保護されていればいいんだよ! 女とは劣っているがゆえに優れた男を求めるものなんだ! それがどうだ! きみみたいに無教養で女に師事するゴミみたいなやつは、兵士に逮捕されて、拷問死するべきだね!」
「──簒奪だ」
モモはジェームスを見つめる。ジェームスは──眼を糸のようにし笑っている。
「おまえたちは、ドロシーから彼女の──努力と犠牲の上に建つ研究成果を、簒奪したんだ」
「簒奪だって! ははは、面白いことを云うね! 女のものは男のものなんだから、そもそもあの理論は僕らのものなんだよ」
「女性のものは、女性のものだ」
「きみには、道徳というものがないのかね」
道徳──男尊女卑、という、この世の道徳は、男が女を自由にレイプする権利だけでなく、女の成果を男が横取りする権利も保障しているのだ。
ジェームスは、最後まで笑っていた。そして──この日以降、モモと口をきくことはなかった。
今までジェームスと二人しかいなかった薬学の講義は、一躍大学の人気講義に踊り出た。大挙して押し寄せた学生たちで賑わう教室の教壇で、フランシス教授がふんぞり返っている。かれはもうどもらない。その隣りで講義をアシストするジェームスにも、学生たちの羨望の眼は向けられた。モモは教室の隅に押しやられ、実技に参加することすらできなくなった。
勿論、教室の鍵も返却を求められた。ゴドフロワとユーグの薬は、再び寮のキッチンを使わせてもらい、作ることになった。キッチンの女性たちは、相変わらず物云わずモモに場所を明け渡し、モモの邪魔をせぬようひどく気遣いながら仕事をしていた。悲しくなった。掻き回していた鍋に、ぽとぽとと落ちる水滴を見て、自分が泣いていることに気づいた。
(いけない、不純物が混入しては……繊細な薬なのに)
だめだと思うのに、涙が止まらない。どころか、製薬の手順も、何度も誤った。点呼の時間に間に合いそうになかったから、寮監に願い出た。シンシェレ修道騎士の薬を作るためと云えば、二つ返事で許可はおりる。モモは夕食も摂らず、薬を作りつづけた。涙が溢れる。また間違った。やりなおして、やりなおして──夜が更けてもまだ、薬は完成しない。
ついに、モモは座りこむ。膝を抱え、顔を伏せる。
「……ごめん、ごめんな、ドロシー」
ドロシーは、町はずれの庵に一人で棲んでいた。女が、一人で、棲んでいたのだ。町の男たちから共同便所と呼ばれ、夜な夜なレイプに苦しみ──ついに妊娠させられ、その子を自らの薬で流した。その壮絶な人工中絶のせいで、彼女は死ぬところだったのだ。死ぬほどの思いをしても、彼女は薬学を究めたかった。女が学者になどなれるわけない世だった。だけど彼女は諦めなかった。そうして彼女が生みだした理論は──またしても男によって踏みにじられた。
おれという、男によって。
「……、」
モモは、顔を擡げる。キッチンには道具が散乱している。どうしてもいつもみたいに扱えず、鍋を、へらを、摺鉢を包丁をあらゆる物を落とした。床は薬の出来損ないで濡れ汚れ、異臭を放っている。
「……」
きら、と光った。灯りをつけていなかったから、窓から入る月のか細い光りでも反射したのだろうか。モモの手は、吸いよせられるよう包丁を握っていた。
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