3rd. 異分子かつ落第生

 聖フラテル大学校は、現王家の第一王子が学長をつとめ、帝都郭内の北西に位置する。第一王子カインは火神の顕現であり、その校名は大神殿より賜ったものである。つまり、神殿と深い関係のある学校だった。

 修道士を育む学び舎が起源なのである。修道士をはじめとする神職には、王家の血をひく者が就くため、この学び舎に通えるのは王族だけであった。だが神学だけでなく、様々な学問を研究する機関として発展してゆくにつれ、優秀な貴族の子息にも門戸が広げられてゆき、今に至る。つまり、帝都一の大学にて学ぶ者は、殆どが王の血筋に近い貴族たちなのである。

 モモは自分が、物怖じする性だとは思っていない。だが、さすがにそのことを知った時には狼狽した。モモは姓さえもたぬ庶民の出である。ユーグの推薦がなければとてもじゃないが入学を許されることはなかっただろう。──ユーグの推薦があっても、である。むしろそのことの方が苦しかった。

 紛うことなき異分子であるモモを、学生たちが軽侮するようなことはなかった。聖フラテル大学校は、帝都郭内に所在がある唯一の大学であり、即ち帝国第一位に君臨する最高学府である。貴族のなかでも、頭脳や武術など、いっとう優れた者たちが集う。家柄は勿論重んじられるが、それよりも本人の実力が第一に尊ばれる。ここで学ぶに相応しい実力があれば──友達だって、できたかもしれない。

 弓遣いアーチャーとして、冒険者登用試験に合格すること。モモが大学に入った理由はこれであるが、学びたい科目があれば自由に学べ、とユーグに云われたことを素直に聞き、興味のある科目は片端からとっていった。モモは初等教育を、最初のほんの少ししか受けていないが、その時の学校とは随分勝手が違っていた。小学校では時間割など学校が決めるものだったが、ここでは時間割は自分で作るものだった。開催されている曜日と時間が重ならなければ、学びたい講義をどんどんとって時間割を埋めてゆけるのだ。冒険者に必要な武術の講義と、冒険者登用試験に於いて必須科目とされている──大学で単位をとれば試験が免除される専門の講義は勿論、音楽の講義までとったのは、旅中にファンになった吟遊詩人の想い出があったから。めいっぱいに詰めこんだ時間割を両手で持ち、モモは大学生活に踏みこんだのである。

 そして──一ヵ月が経つ。

「──っ」

 眼の前が真っ暗になる。──肺が破裂しそうで、胃から物が逆流しそうで、顔も腹も手足も痛くて。この感覚は──初めてのことでないから。

「もういいです。外れなさい」

 モモは起きあがろうとした。ばったりと前に倒れた体は、ふいごのような呼吸をするだけで精一杯で。とても、立てない。今日も立てない。

 武術基礎演習の講義だった。武器を持って闘うよりも以前の、基本的な体力をつけることを目的とした講義で、武道の型や素振りをはじめ、体術や水泳などの実技が行われる。その講義の始めに、ジョギングがあった。およそ一時間、ひたすら走らされるのだ。他の学生は苦もなくこなすが、モモはいまだに──一ヵ月経ってもなお、走りきることができず、途中で倒れてしまうのだ。

 モモが人として暮らしていたのは七歳の頃までだった。以降は魔物──モモンガとして、魔力で飛行し自分の足で歩くことなど殆どしてこなかった。おかげで、同年代の青年よりも圧倒的に体力、筋力に乏しい。そして、同じ学び舎の学生たちは、貴族のなかでも特別優秀なものが選抜されているのだ。この差は──大きい。大きすぎた。

 最初の頃こそ、倒れるモモを気遣ってくれた者もいたが、今は誰も眼にも留めない。モモは、せめて他の学生の学びの邪魔にならぬよう、退こうとしたが──どうしても体が動かない。

 指導をする教授はうんざりした様子で、数字を云った。学籍番号だ。指名された学生が、無表情で引き返してくる。

 もう誰もモモの介助をしないから、教授が指名した学生がモモの運搬を強制されるのだ。

「ごめ……なさ……」

「喋らないで大丈夫だよ。吐かれる方が困るし」

 モモはぐっと口を閉じあわせる。学生は軽々とモモを担ぐと、保健管理センターまで送り届けてくれた。

 ありがとう、と云いかけた口をもう一度、閉じ合わせる。学生はモモに眼もくれず行ってしまった。ありがとう、ごめんなさい。おれにつきあわされたせいで、かれの講義を欠かせてしまった……。

 保健管理センター──保健室の大学版だ──のベッドに横になり、モモは眼を瞑る。

 ──落第の判を押されるのは、この講義だけではなかった。各人の武器の鍛錬を主目的とした武術応用演習では、弓を保持する姿勢すらままならず、モモだけが未だに矢を射る訓練さえさせてもらえていない。冒険者登用試験の科目である、冒険学をはじめとした九科目のどれも──魔物学ですら、モモはついていけなかったのだ。冒険者に必須でない科目──興味の赴くままとった科目も同じである。文学の授業では、そもそも字を習ったばかりのモモには、大学の課題小説など荷が重すぎた。譜面を読めないモモには、音楽の授業もついてゆけない。馬術も神学も社交学も──あらゆる科目について、モモは落第生だった。

 出自ではなく、この聖フラテル大学で学ぶだけの実力を持たぬくせに、ユーグの推薦というコネでむりやり入学した──それを指摘し糾弾する学生こそいなかったが。春も終わりという中途半端な時期に編入してきたモモに、親しげに話しかけてきてくれた学生たちも、しだいに離れてゆき、今ではモモなどいないかのよう無視しとおりすぎる。講義の時はもちろん、食事の時も、同室者のいる寮の部屋でさえ、モモはひとりだった。

(ひとりには、慣れている)

 モモがかつて主人を探し放浪していたのは、十年にわたる。その間ひとりきりだった。大好きな人に主従契約を断られていらい、何十人、何百人──数えきれない人にふられてきた。拒絶され、無視され、殺されかけてきた。それに比べれば、平和な学園という場所で、同輩に無視されることくらいなんてことはないだろうに──どうしてか、少し。

「……、」

 モモは、ベッドの上を躄る。

 寮の部屋は、二人部屋だった。モモと同い年の学生が同居人となり、こちらも最初は寮の生活について丁寧に教えてくれたりと、親切だった。しかし、モモの落第ぶりが知れるにつれ、しだいに距離をとられるようになった。もう話しかけても答えてくれないどころか、モモが部屋にいる時は、避けるように──実際避けているのだろう──コモン・ルームや友達の部屋へと行ってしまう。

 かれが出てゆくときに閉めた、戸の音がまだ耳に残っている。モモはそれを聞きながら、枕の下に手を入れる。両手で握ったのは、一冊の本だった。

 背表紙を何度も繕った痕があり、また中の字が薄くなったところは、上からペンでなぞり書かれている──ひじょうに古い本である。まさしく、古本屋で見つけた本だった。かつて訪れた古本の町の、月に一度の祭りの日。ご主人がモモに買ってくれた本だった。この本を毎夜ひらき、サワタリはモモに字を教えてくれた。懐かしい、旅の日の想い出に喉の奥が痛くなる。モモがこの寮に来た時、荷物はこの本と、薬草ポーチだけだった。

 戸を叩く音に瞬き、振り向くまで。モモは本を抱いていた。

「学籍番号534番。客人がお越しだ、談話室へ行きなさい」

 慌てて、モモは返事をする。本をもとどおり枕の下において。薬草ポーチを掴み、部屋を飛びだした。──飛びだして、着地した足はそっと動かす。姿勢を正し、ゆったりと歩を運ぶ。社交学の講義で習うことは、ここの学生は誰もが当たり前にできる。できないのは、おれくらいのものだ。

 優雅とはかけ離れた不格好な歩みで、モモは談話室に到着する。

「こんばんは、モモ。──顔色が悪いですね」

「おまえのほうが悪いぞ。痛みが酷いんじゃないか?」

 談話室で待っていたのは、ゴドフロワである。かれは膝の傷の薬──『時を止める薬』を取りに、約束通り、毎日モモの棲まう学生寮を訪う。

 きちんと立って礼をするゴドフロワをソファに座らせ、モモはかれの右膝を検分する。傷は悪くなっていないが、よくなってもいない。よくなっていない──これが重要なのだ、ゴドフロワにとっては。

 ナイフによる受傷である。長らく放置したため膿み酷いありさまではあったが、通常の薬草でも完治は可能だった。だが、ゴドフロワはそれを肯んじなかった。兄が呪毒を受けた場所と同じ場所にできた傷なのである。

「熱をもっているな。ええと、この薬を飲んでおいてくれ。あとはいつもどおり、傷の『時を止める薬』だ」

「いつも有難うございます」

 丁寧に頭を下げ、モモに貰った薬を大切そうに懐中にしまって。ゴドフロワは、じっとモモを見つめる。

「今日は、どんな風に過ごしたのですか?」

「いつもどおりだぞ」

「顔色が悪いです」

「……いつもどおりだからな」

 ゴドフロワは眼を細める。

「疎外されていると」

「疎外とまではいかないんじゃないか。おれなどここにいないものとされているだけで」

「それを疎外と、疎んじるというのではないですか」

「少しな、淋しい」

 モモは微笑む。ゴドフロワが僅かに眼を瞠っている。

 ゴドフロワは、毎日モモのところに来るつごう、モモの学校生活についてを知り、心配してくれている。それに対し、モモはいつも、大丈夫だと胸を張ってきた。

 だが……どうしてだろう。直前に、あの本を抱きしめていたりなどしたからだろうか。

「文学の講義で、おれと同じくらい朗読ができない人がいるんだ。その人は、講義で当てられると真っ赤になって、でも一生懸命読む。今日、教授は見せしめみたいに、その人に二時間も読ませ続けた。最後の方は言葉にならない呻き声みたいになっていた。──講義が終わった途端、その人のところに、みんなが集まった」

 隣り、どうぞ。そうゴドフロワが誘ってくれたので、モモはソファに腰をおろす。

「ある人は教授のやり方に否を云った。ある人はその人がきちんと読めた部分を挙げ褒めた。ある人は最後まで読めた頑張りを称えた。そしてその後、みんなで、かれと知識を分かち合った。小さな勉強会がひらかれたんだ。みんなが一生懸命、かれに文字と文法を教えて、かれはそれに応えようと、授業中よりももっと顔を真っ赤にして励んでいた」

 友情と思いやりにあふれた、学生たちの情景。

「……先週、その人はおれだった」

「どういうことでしょう」

「おれも講義で当てられると、ろくに読めない。教授の指導で、二時間同じ小説を繰りかえし読まされた。最後のほうは、自分でもなにを云っているのか判らないくらい、ろれつも回っていなかった。ほかの人達の学びの時間を奪ってしまっていることも苦しくて。つらかった。──講義が終わった後、おれはみんなに謝った」

 頭を下げて、数えきれないくらい、ごめんなさいと謝った。

「それで、顔をあげたら──教室には、誰もいなかった」

 誰ひとり、何ひとつモモに言葉をかけることもなく、置き去りにしていった。

「先週と今週で、すごい違いだな、と思った」

 かたや無視と置き去り、かたや激励と勉強会。

 おれはどんな講義でも落第生だけれど、かれは武術に秀で剣技では常に学年首位を争っている。

「それは、少し、淋しいと、思う」

「サワタリに会いたいですか、モモ」

「……、」

 モモは微かにわらう。ここに入学していらい、サワタリとは一度たりと会っていない。

「ご主人に会ってしまったから、淋しいと、思うんだろうな」

 ひとりだった。初めて大好きになった人に笑って無視されていらい、ずっとずっとひとりだった。

「ひとりぼっちには、慣れていたのに。慣れていたと自覚することもないくらい、おれはひとりだったのに。ご主人と出会って、ご主人が傍にいてくれて──おれを傍にいさせてくれて。それだから、ひとりぼっちがこんなにも淋しいことだって、思えるようになった」

 モモは隣りに座るゴドフロワを見あげる。笑顔は、しぜんに溢れた。

「だからな、大丈夫なんだ」

 いつもはやみくもに大丈夫だと宣言していた。でもほんとうに、おれは大丈夫なんだ。

「早く、ご主人の傍に帰りたい。それで、おれがご主人の傍に帰るとき、今までよりずっと強くなって、ご主人のお役にたてるおれになっていたいんだ」

 モモは冒険者になると決意した。おれはご主人の従魔だった。魔物のすがたで、ご主人に守られる幸せを知っている。だけれど、それがあべこべだってことも知っていた。おれはご主人を守るものだ。魔物のすがたで甘ったれるよりも、人のすがたで闘う方を選びたい。

 そのために、冒険者になるのだ。

 そのために、大学で学んでいるのだ。

「少し淋しい。けれど、それよりも、もっともっと努力して、できることを全部全部やって、講義に打ちこみたい気持ちのほうが、大きくて、強い。一ミリでもいい、前に進みたい。おれ、頑張るんだ。めいっぱい頑張るんだ。……そういう気持ちだから、淋しくても、大丈夫なんだ」

「そうですか」

 ゴドフロワの眼が、和む。

「それは、また、サワタリがへこみますね」

「……? サワタリに何かあったのか?」

「心身ともに頑強ですよ、かれは」

「そうなんだ。おれのご主人は、強いんだ」

 強くて優しい。ご主人のことを思うと、また、無限に、頑張る力がわいてくる。

「それにしても、サワタリはいったいどこで寝泊まりしているんでしょうね」

「ゴドフロワも知らないのか?」

「残酷に男を殺すマーダラーが、帝都に現れたという噂も皆無です」

「それなら、ご主人は別のことを頑張っているのだと思う」

 ゴドフロワはモモの言葉を──それを云った表情を見て、微笑む。

「週に二度ほど、修道騎士団本部に来てくださるので、行方不明というわけではないのですが」

 モモも大学が休みの日に寨へ──主にユーグに会いにゆくが、サワタリと会ったことはない。そのことについて、何を云うつもりもない。

 大学で学問を修め、冒険者登用試験に受かるまで──それまで会えないのかもしれない。大丈夫だ、と直ぐに思う。ゴドフロワやユーグがご主人のことをこうして教えてくれるし、なにより──モモはサワタリを信じているから。信じぬくのだ。

「もう点呼の時間でしょう。長居して申し訳ありません」

「ううん。……話しを聞いてくれて有難う、ゴドフロワ」

 ソファから、二人同時に立ちあがる。ここにいる学生とは比べものにならない、優雅な礼をして。学生たちよりも遙かに稚拙な礼を、それでも頑張ってかえすモモに、ゴドフロワが微笑んだことも知らず。モモはかれが去ってゆくのを、見送った。

 『時を止める薬』は作り置きができない。明日ゴドフロワに渡す分を作るため、モモは談話室を出るとキッチンへ向かう。寮監に申し出ているから──シンシェレ修道騎士の薬を作るため、と云ったら、即座に許可が下りた──モモはいつでも自由にキッチンを使うことができた。

 立ち働く女性たちは、モモが来ると場を譲ってくれる。申し訳なくていつも謝るのだが、女性たちはそのつど驚いて恐縮する。帝都の女性は町や村の女性よりも更に儚げで、声を出すことさえ殆どない。黙々と家事に専念する女性の、極力邪魔にならぬよう。モモは手早く火と水を使い調剤を行う。

(テンマ草が少なくなってきたな。明日ゴドフロワに頼もう)

 薬の材料はゴドフロワに頼めば持ってきてくれる。寮生が外から持ちこむ物品は厳重に管理されるものだが、果たしてゴドフロワがモモに渡すものは咎められるどころか確認されることもない。

 つまりゴドフロワは、或いは下層のモモをこの名門校入学させることのできるユーグも、絶大な特権を持っているのだが、この時のモモはそれを然程意識していない。意識したのは──。

「そこの学生。こちらへ来たまえ」

 立ち働いていた女性たちが、いっせいに頭を下げる。そのなかで、モモはきょとんと瞬く。──学生。このなかで、学生と云えば。

「おれか?」

「早くしろ。──こんな場所に長居はしたくない」

 男は台所に入らないものである。ゆえに、寮に棲まう学生たちからも、このキッチンやランドリーなど、女が働く場所は腐れ場と呼ばれ忌まれている。モモは顔を伏せる女性たちに頭を下げ、できあがった薬をポーチに入れる。片付けをしようとしたが、女性たちが代わってくれた──無言であったが、目顔で早く行ってくれというのは伝わったのでお願いし、モモは速やかにキッチンを出た。

 モモを呼んだ学生は、茶色の髪を靡かせ、階段を上っている。首をかしげつつ、モモも後について上る。

「私はきみを見ていた」

「うん?」

 階段を上りきり、廊下を少し行ったところで。振りかえった茶髪の学生は、いきなり口をひらいた。

「きみがあの忌まわしき場所に通っているのは、薬を作るためらしい」

「キッチンは、忌まわしき場所なんかじゃないぞ。おれたちのご飯を作ってくれる、大事な場所だ」

「答えたまえ。薬を作っていたのだろう?」

 言葉は高圧的だが、態度に尊大なところは感じられない。体の線が細く、常に笑んでいるような糸目のせいだろうか。

「うん、薬を作るために、キッチンを使わせてもらっている」

「シンシェレ修道騎士の依頼でか?」

「そうだ」

「すばらしい」

 ぱん、と手を叩き。茶髪の学生はその手を腹に当てる。もう片方の手を、軽く横に薙いで。右足を後ろに引き、頭を下げる。社交学で最初に習う、挨拶のお辞儀だ。

「私はジェームスという。七回生に所属している」

 七回生……モモは五回生だから、二つ歳上ということか。それで確か、七回生は最高学年だ。

「きみ、薬学の講義の学生になる気はないかね?」

 熱心に見つめる瞳の色はオレンジ。なにか、ぱっと華やいだように見えたのは、かれの眼の色を見たせいかそれとも──かれの言葉を聞いたせいか。



 薬学──という講義があることを、モモは知らなかった。

 シラバスには載っていた。だが、後ろの方の頁で、割かれたページ数も他の講義の三分の一という短いものだったため、見逃していたのだ。しかも、開催される曜日と時間が、音楽と重なっていた。音楽の頁を見た瞬間、即座にモモはそれをとることを決めていたのだ。

 ゆえに、薬学をとるのならば、音楽を諦めねばならない。どうしようかと迷ったが、モモは音楽の講義を辞め、薬学を受けることに決めた。誘ってもらえて嬉しかったこともあるし──大学で教わる薬学というものに興味を惹かれたからだ。

 そして、大学に於ける薬学の地位について、モモは知ることになる。それは、冷遇、という言葉がぴったりくる。

 薬学の講義を受ける学生は、ジェームスただ一人だけだった。それほどに人気のない講義があるのか、と驚いたものだった。聞けば、医療には回復魔法を用いることが主流であり、それを教える魔法学の人気が圧倒的で、癒やし手ヒーラーを志す者はそちらの講義をとるのだという。薬草など、魔法が使えない場合の予備のものという扱いで、それをメインに学ぶ者は変わり者だというのが実際なのだった。

「や、やっぱり、薬学なんて面白くないかな?」

 とするならば、この人も変わり者なのだろうか。モモは首をかたむけ──慌てて横に振った。

「いいえ、あの、ええと、たくさん勉強させてもらえて、うれしいぞ」

「そ、それならばよかった」

 どもりがちな上、声量が小さい。この白衣の人が薬学の教授であり、名をフランシスといった。

 フランシス教授の講義は──ほんとうのところ、退屈なのかもしれない。三時間の講義のうち、半分が座学、半分が実技にあてられるが、座学は薬草について産地や使用部位、成分、薬効についてひたすら暗記をするもので、実技はこれまた、複数の薬草を足し合わせ、或いは火や水を用い加工することによって、別の薬効を得る手法をひたすら暗記するものだった。他の講義は理論を順序だてて学び、実技も次々に新しいものに取り組んでゆくものであるから、ひたすら暗記を繰りかえすばかりの薬学は──モモの眼から見ても、地味であった。

(ドロシーのところで薬を作っていたときの方が──)

 ふと思いだした、天才薬師の稀なる頭脳と、その庵に蓄えられた膨大な材料。想像もしなかった創薬の方法に、薬草だけでない、鉱物や動物をも材料として扱う博識。そして彼女は、それらを理論として纏めあげようと何十冊ものノートを書き綴っていた。

(いや、この講義はこの講義で、とっても大切だぞ)

 薬草だけを取り扱う講義であるから、必然、深い知識が身につく。暗記だって大切だ。実際、モモの知らない薬草も講義で数多く取り扱う。なにより──モモでも講義についてゆくことができ、更に。

「モモ、ジュウヤクは黴がつきやすいと教授が仰っただろう」

「あっ、そうだった。すぐにこれに入れる!」

 薄い青の紙袋に、ジュウヤク──毒消しの効能のある薬草だ──を入れる。葉と花穂を乾燥させたものが一般的に売られているため、白い可憐な花が咲くことをモモは講義で知った。安価で、冒険者が常備する基本的な毒消草である。

「モモ君は手際がいいですね。そ、そういえばきみは、冒険者の従者として、旅をしていたのだったかな」

「うん。薬草係をやっていたんだ」

「ふん、実戦経験があるのはいい」

「いいだろう」

 わざと胸をはってみせると、ジェームスとフランシス教授が笑った。

 楽しかった。存在を無視されない──おれもここにいてもいいのかもしれないと、思わせてくれる。教授と先輩とともに過ごす講義の時間が、心地よかった。

 ──そんな薬学の楽しい時間のことを、今日も訪ねてきてくれたゴドフロワに話していた。

「ほんとうに、最近は楽しそうでよかったです」

 そう微笑むゴドフロワのほうは。

「ゴドフロワは、最近ちょっと元気がない」

「……判るんですか」

「心配しているんだ」

 ゴドフロワが、ソファに座るよう促す。いつもの、寮の談話室である。モモはかれの隣りに腰かけた。

「ユーグにばれました」

「うん?」

「右足のけがのことを、ユーグに知られてしまったんです」

 ゴドフロワは悄然とうつむく。

「むしろ、いままでよくばれなかったな。賢者サージェだから、すごい頭良いんだろう」

「はい、ユーグはとても優秀で、観察力にも長けています。敵の一番弱いところを即座に看破するんですよ。一目見て、有効な魔法を導き、的確に撃つ。われらが修道騎士の誇る賢者と称えられる理由の一つです。ですが、俺と居る時は、なぜだか気を抜いてしまうんですよね。完全無欠の修道騎士に、そんな弱点があるって、可愛らしいと思いませんか」

「……なあ、途中からのろけになっていないか?」

「あんなに可愛らしいのに、怒ると怖いんです」

「怒られたんだな」

「はい。とても、すごく、たいへん、怒られました……」

 それはそうだろう。ゴドフロワの兄への愛着も篦棒なものだが、その兄ユーグの弟への愛着も篦棒なものなのだ。

 ユーグのことである。ゴドフロワがわざと傷を治していないのは、自分の膝の呪毒のせいだということは、それこそすぐに判ったろう。それは、怒るだろうな。あのひとがめちゃめちゃ怒ったら……それはめちゃめちゃ怖いだろうな……。

「頬を殴られ、尻を蹴られ、軍医のところへ引き摺られ……」

「ちゃんと医師にみせたんだな」

「さすがに、ふしぎそうな顔をされましたね。受傷の時期を聞き、傷の状態をみれば……命にかかわる事態になっているはずであるのに、と」

 かれの右足の傷は、サワタリのナイフによって受けたものである。初めて出会った時であるから、一年とは云わないが、そうとうに古い傷だ。だが、重要な筋や血管を破損しているわけではなく、手持ちの薬草──修道騎士ともなれば一般の冒険者よりも質の良い薬草を携帯している──で手当てすれば、すぐに完治した筈である。それを放置したのは、故あってのこと。かれの愛する兄が、呪毒という特殊な傷を、右膝の下に受けていたためである。願掛けのような気持ちがあったのだろう。ゴドフロワは右膝の傷を放置し──むしろ大切に守り──膿んでも、そこから菌が入り全身に毒がまわりかけても、治療を拒んだ。そこでモモが作ったのが、『時を止める薬』である。

 これは傷の時間を止める。投与した時の状態に固定するというのか。この薬が機能すると、傷はよくもならないが、悪くもならない。これで、かれは兄とお揃いの傷を後生大事に抱えることができていたわけであるが──。

「うん……?」

 なにかが、かちりと頭のなかで嵌まったような。モモは瞬き、首をかしげる。

「どうかしましたか?」

「うん……なんだろう……」

 傷の時を止める薬。それは、医師も知らない──この世の誰も知らないだろう。ドロシーという魔女の弟子──否、天才薬師に拠って発明された薬は、彼女の庵とともに誰にも知れず朽ちてゆく筈だった。モモが後継として、その庵を引き継がなかったら……。

「傷の時を止める……、──!」

 モモは眼を瞠る。ゴドフロワの傷がユーグにばれた。ユーグに。ユーグは、呪毒を右膝に受けている。その呪毒は神経をたどり脳にいたる進行性のもので──。

「ゴドフロワ」

 モモは、ゴドフロワの両腕に手を置く。その手で、かれの腕をぎゅっと握る。

「ぬかよろこびはさせたくない。だけど、おもいついてしまった」

「はい? 何をですか?」

「おまえに投与していた薬を応用すれば──ユーグの呪毒に対抗できる薬が、作れるかもしれない」

「──っ」

 ゴドフロワが息をのむ。それから、両手でモモの肩を掴んだ。

「お願いします! モモ、お願いします!」

「うん、うん、がんばってみる。がんばってみるけれども、もっと、うんと勉強しないといけない。それに、おまえに薬を投与する時も云ったが、この系統の薬は、効果に個人差がある。ユーグに効果があるとは限らない」

「俺にできることがあれば、なんでもしますから。どうか、モモ」

 ゴドフロワの太い腕を、宥めるよう叩く。

「今までおもいつかなくてごめんな」

「ユーグの呪毒は、殿下の秘蹟でしか癒せないとされているのです。それに挑戦しようと思ってくださっただけでも、どんなにありがたいか……」

「元気、でたか? ゴドフロワ」

「──、」

 ゴドフロワが顔をあげる。

「はい! ユーグに怒られてよかったです!」

 鬱金の瞳を細めて笑う。ゴドフロワの笑顔に誓って──全力で、薬作りに取り組もうとモモは決める。

 幸いなことに──否、必然だろうか。ここは帝都一の大学である。うなるほどに勉強は、できるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る