12th. 慈しみと恋しさを

 なんとなく、違和感があった。

 違和感──いつもと違う感じ。

(いつも、って何だ)

 モモは少し笑う。自分は、サワタリを殺人鬼として追う修道騎士の人質となった筈だ。それが、その修道騎士に庇護され、自分の足で歩きもせず移動し、宿に着いては丁重にもてなされ──贅沢な旅をしている。

 それ自体が、違うものではないか。おれはサワタリと──ご主人と旅をしていた。でこぼこで雑草だらけの道を、魔物と闘いながら行き、眠るのは大抵が野宿で、運良く町で眠れる時も、場末の安宿の、据えた臭いのするベッドで眠っていた。

 違う、というのならば、この旅がまるごと違っている。けれどただせずいることに呵責を覚えていたのは、モモだけでなく。

「モモ」

 モモは相変わらず、乗馬するゴドフロワの前に乗せられ、手綱を持つかれの両腕の間に挟まれている。馬の上で動くと叱られるため、振り向かず、うん、と返事だけをする。

「気づいていますか──俺たちの後を、ずっと追ってくる者に」

「……うん」

 正面から来ていたロバを引いた商人が、慌てて道の外に出る。王の道を騎馬で進む修道騎士に、誰もが道を空けるのだ。

「俺があなたを捕らえている限り、あのマーダラーは俺を追ってくるでしょう──帝都までも」

 道の外で頭を地面に着けている商人から、眼を逸らす。

「そうして帝都までおびきよせ、あなたを解放することを条件にでもして、マーダラーを確保し、殿下の面前に引き出すつもりです。そう──俺はずっと、そのつもりで進んでいる」

 修道騎士にあるまじき卑劣な手段を使ってでも──そう決めていたのに。

「それなのに、なぜでしょう、苦しいんです」

 仄かに微笑み、ゴドフロワは片手に手綱を絡めたまま、胸を押さえる。

「あなたに、ほだされたかな。あなたは毎日、一生懸命弓の練習をします。それをみていると、苦しくてしかたがなくなります……」

 胸を押さえるのは、修道騎士の動作だ。祈るとき、挨拶をするとき、様々な場面でかれは、胸を押さえる。だけど──。

 モモは咄嗟に──禁じられているにもかかわらず、後ろを振りかえる。

「苦しいって、それ、気持ちだけのことじゃないんじゃないか!?」

「……?」

 瞬くゴドフロワの──瞳が妙に、とろんとしている。

 モモは体をねじる。ゴドフロワの首に手をあて、胸に耳を寄せ肺腑の音を聴く。

「酷い熱だ──いつからだ? 胸も変な音がするぞ」

「これくらい、問題ありません」

「薬草でしのいでいたけれど、限界だったんだ」

 違和感の正体の一つは、ゴドフロワの容態だったのだ。そして、もう一つ。

 未知の道行きに出現すると、途端に違和感となるのは──既視感。

「おれ、ここ、見覚えがある」

 王の道が続く先に、町が見える。否、王の道に町はない。あるのは──橋梁。橋のたもとの町。

「たもとの下町だ。おれたちは上町でおまえに襲撃され、振り切るために橋を渡り、下町の──外の森に、身を隠した」

 そこで庵に棲まう女性に出会った。夜ごと繰りかえされるレイプに苦しんでも、研究をやめなかった女薬師。自身で人工流産の処置をし、命の危機に瀕していたが、奇跡的に救われた──。

「ドロシーの庵がある。ゴドフロワ、森だ。おれが云う方向に馬をやってくれ」

「庵、ですか?」

「天才的な薬師がいた。彼女の薬ならば、おまえのけがを癒やせる」

「……俺、右足は治しません」

「まだそんなことを云うのか!」

「右足のけがは治療から外す。そう約束してくれるなら、森の庵とやらに行ってもいいです」

 モモは唸る。髪をくしゃくしゃと掻きまわして。それから、頷いた。

「約束する。だから、森へ」

 王の道は地面より一段高い。だから、馬は飛び降りるかたちで、森へと着地した。獣道すらももう見えない。馬はでたらめに生える木々を避け、するすると進む。モモは記憶を必死にたぐりよせ、そしてついに、そこに。

「あった! ドロシーの庵だ」

 古びて小さい。だがこの庵に、薬学の粋が詰まっている。

 馬を木に繋ぎ、モモはゴドフロワを支え、庵の中へと入る。薬の、独特の匂い。だがからりと乾燥している。森の中の庵ならば──実際、かつてここに来た時、じっとりと湿っていた記憶があるから、これはあの水竜が使った魔法の余波なのだろう。モモ以外の誰も、この庵に関与できない……。

(確かに、荒らされた形跡がない。実験道具もあの時のままだし、薬も素材も機器も──なくなっているものは一つもない)

 この庵にはたもとの下町から大勢の男達がレイプ目的に──そのうち一握りは薬を求めて、毎夜のようやって来ていた。ドロシーがいなくなったとあれば、荒らされていそうなものだが──ほんとうに、誰一人中に入れたものはいないのだろう。

 ゴドフロワをベッドに寝かせ、モモは縦長の筺の前に立つ。モモが立ったまますっぽりと入ってしまうくらいの大きさの筺だ──だが、それは叶わない。筺の中は上から下までガラスの板が差しこまれ、棚になっている。そして、その棚には薬がびっしりと収められているのだ。

 壁一面を覆う薬箪笥が薬の材料を入れる場所ならば、この筺はドロシーが作った薬を保管しておく場所だった。温度が低く保たれ、光りが入らないよう工夫されている。薬の多くは、高温や光りによって劣化するのだ。既に作り手のいなくなった薬は、ここから持ちだされる一方で増えることはない。それを少し悲しく思いながら、モモは手をのばす。以前ここを発つとき、薬草ポーチに詰めていった。そしてまた今も、取りだし使おうとしている……。

(全身の症状……衰弱が激しい時に使う薬、それから熱冷ましの薬)

 ドロシーの手当てをした時に、或いは彼女と雑談をかわした時に、彼女が作った薬のこと、その使い方を教わっていた。モモは迷わず薬を選りだす。

(焼くものと、流水にさらすもの)

 彼女は投与の仕方まで独特だった。薬草を煎じたり、或いはお湯に溶かしたりすることはあるが、直接炎で炙るような取り扱いは、ふつうしない。水にさらすものもそうだ。成分が水に融けだしてしまうから、その水を服用することはあれど、水にさらして残ったものを薬として与えることはまずしない。だが──。

 モモは竈に火を入れ、甕から水を汲みあげる。ドロシーの処方をあやまたず、薬の状態を整えて。それをゴドフロワに与えた。

 効果は覿面だった。夜に起きだしたかれの状態を診ると、ほとんど解熱し、衰弱も回復している。肺のいやな音もしなくなっていた。ほっとしていると、ゴドフロワが自らの喉に手を当て、つぶやく。

「ここを、貫かれた傷は深かった。なのに、きれいに塞がっています」

 岩山の町で、ご主人のナイフが穿った傷だ。一時はかれの生命すら脅かした傷は、もう眼を凝らしても見えない。

「あれも、この庵にいた薬師が作った薬なんですね」

「うん。ドロシーっていう人だ」

 ゴドフロワは、喉を押さえたままモモを見る。

「そこの筺に入っている薬を使えば、俺の右足もこんな風に完治するんですか」

「おまえは、それを嫌がる」

「はい」

「でも、おまえ、そのままにしてると壊死して──足を切断することになるぞ」

「怖いですね」

「全然怖くなさそうに云う」

 モモはため息をつく。それから、ゴドフロワをベッドに寝かせ、毛布をかけた。

「腹が空きました」

「町まで食糧を買いにいってくる。おまえは寝ていろ」

 寝る前に、とゴドフロワは金貨の入った袋を渡してくれた。相変わらず路銀は潤沢である。モモはそれを使い、たもとの町で食糧と日用品を買いこんだ。庵に戻ると、健やかな寝息が聞こえてくる。簡単な食事を作ったが、ゴドフロワが起きる様子はない。薬で多少回復したとはいえ、消耗は大きいのだ。このまま寝かせておこうと、ひとりで食事を摂り──それから、モモは文机に向かった。

 庵にある机はどれも広く、だけれどそれが狭く見えるほど実験器具にまみれているが、この机は小さく、正しく物書きのための文机と云う形容があてはまる。机の端には本が積まれている。すべて、ドロシーの手で書かれたものだ。彼女の師は文字を知らなかったらしい。その師の教えを受け継ぎ、そして発展させた自身の研究を、彼女はずっと綴りつづけていた……。

「……、」

 モモは一冊を手にとる。字を習い始めたばかりのモモには、読むのがとても難しい。それでも、ドロシーと薬について話していた経験があり、いくらか読めるものもある。そうしてぽつぽつと拾い読みをしていると、眼にとまった文字があった。

「時の固定化……?」

 胸がさざめいた。モモは人差し指で文字列をなぞりながら、懸命に読む。朝が白みはじめ、鳥が鳴きかう時間になっても、読みふけっていた──から。

「貫徹したんですか?」

「わあ!」

 後ろから肩を叩かれ、飛びあがった。

「ゴドフロワ! あれ、寝てたんじゃ──」

「こうも明るかったら、さすがに。それに、腹が空いて耐えられないです」

「あっ、もう朝か!」

「昼じゃないですか」

 窓の外を見て、モモは慌てる。陽が燦々と射し、賑やかな森の音が聞こえてくる。

「ご飯と薬! ちょっと待ってろ!」

「俺もやります。何をすればいいですか?」

「おまえ、右足をそれ以上使うな! 引き摺っていても、壊死へと進んでいく──」

 ふと、モモは口を押さえる。今、おれは何と云った?

(壊死へと進む。進む、とは時のことだ)

 ドロシーの本の記述が、脳にばらばらと散らばる。

(生理的時間に関与する──トケイソウ)

 彼女の実験記録。けがと病気の症例。投与した後の経過……。

「モモ?」

「……できるかも」

 モモは振り向く。ゴドフロワの右足を見つめる。

「おまえの右足のけが、治さなければいいんだよな?」

「はい。俺はこの傷をずっとかかえていたい」

「でも、放っておけば壊死する。それならば、壊死する前の状態で止めておくのならば、どうだ?」

「……? どういうことでしょうか」

「けがは治さない。痛むし、また熱をだす。患部はそのままだ。だけど、それ以上悪くはならない。良くもならない」

「良くもならない……」

「今の状態に保存される──比喩的に云うならば、傷の時を止める」

「そんな薬があるんですか?」

「本を見ながら、つくってみる。おれ、おまえの足が壊死するの、何もせず見てるの、いやだ」

「……、」

 ゴドフロワは右足に手をあてる。それから、微かに笑った。

「わかりました。あなたがつくった、時を止める薬、というものだけは、服薬します」

「よし!」

「そのまえに、ご飯がほしいです。お腹空いたんです」

 今度はモモが苦笑する。昨夜作った雑炊がまだ鍋に残っている。これを暖めて。それからその火を使い薬を炙ろう。水も用意しなくては。忙しく立ち働きながら、一方でモモの頭は、『時を止める薬』をつくる算段でいっぱいだった。


 結果として、モモの作った薬は奏効した。

「……と、思う」

 モモはゴドフロワの右足の状態を確認しながら、眼を細める。

「ずっと薬草──創傷に薬効のある薬草の湿布でこらえてきたが、それが限界にきていた。つまり、壊死の力が、薬の力を上回りだしたんだ。このまま何の処置もしなかったら──喩えば奇跡的な効果のある薬を投与するでもなければ、傷は不可逆的なところまで進行し、壊死するところだった。だが」

「『時を止める薬』──云いえて妙ですね。俺の足は、この薬を投与し始めた三日前から変わっていない。悪くなってもいなければ、良くもなっていない」

 頷く。

「痛みもある。熱発もある。衰弱も回復しない。だが、それらは薬でコントロールが可能だ」

 つまり、ゴドフロワの壊死寸前であった傷は、その『寸前』の時から先に進むことを拒まれている──モモのつくった『時を止める薬』によって。つまり、限りなく壊死に近い状態だが、壊死することはなくなった。

「今回は、だが」

「今回とは?」

「不安定な薬なんだ。ドロシーがつくったものでさえ、効果にはばらつきがあったと記録されている。おまえは運がよかった、ゴドフロワ」

「俺の傷には、偶々合った、ということですか? 喩えば、どんなけがや病いにも効果がある、というこことでなく」

「そういうことだ。同じけがや病いであっても、投与する個人によっても効果がばらつく。おまえと全く同じ壊死に至るけがであっても、おまえでなければ、この薬は効かなかったかもしれない」

「あなたは懸命に、手当てをしてくれる。寝ずに薬をつくり、その後もつききりで看護してくれた。……眼の下、すごい隈ができています」

 モモは微かに笑う。黒い眼の下の、濃い隈。サワタリの鍛冶師にとっては、それが毎日のことなのだ。毎日、毎日、遠いかなたを旅する好きな人のため、一心に武器をつくっている……。

「今日は俺が床で寝ますから。あなたがベッドを使ってください。立てますか?」

「だいじょうぶだ。気が張っているからか、却って目が冴えている」

 眠れそうにない、と笑ってみたが、モモは結局、ベッドへと追いやられてしまった。

「やっぱり、全然眠れそうにないぞ」

 ベッドに横になり、毛布に包まってみたが。睡魔はこそともやってこない。

「……では、寝物語りでもしましょう」

「寝物語り?」

「あまりにくだらない物語りだから、聞いているとすぐに寝てしまいます」

 モモは仰向けから横向きに体を転がす。ゴドフロワはいつもモモが座っている椅子に腰かけている。いつもはゴドフロワがベッドに寝て、モモが椅子に座っているから、ちょうど入れ替わったかたちだ。

「御代の王子はお二人いらして、兄君であらせられる第一王子殿下と、弟君であらせられる第二王子殿下の間には、確執がおありになる」

「かくしつ」

「兄王子は、弟王子をうとんじておられる。俺たち修道騎士にさえ判るほど、あからさまに、遠ざけられること度々。その都度、弟王子殿下は傷つき嘆き悲しまれます」

「え、兄弟仲が悪いのか?」

 ゴドフロワは微笑む。頷いたようにも、首を振ったようにも見えた。

「その時も、兄君のおふるまいに、殿下は傷つかれておいでだった。それをお慰めしようとおそばに侍ったのが、第二王子殿下附の修道騎士、ユーグ・シンシェレ」

「ユーグ……おまえのお兄さんか」

「殿下をお慰めするべく、ユーグは闘技場で行われる武芸試合の前座に出場するよう命じられました。闘技場は、第二王子殿下がお作りになられた戯れの場。殿下の仰る前座とは──その戯れの極みなのです。ユーグは、魔物と闘わされました。伝説と云われる、大蛇の魔物です」

 両手を組み、瞳を伏せて。ゴドフロワは続ける。

「殿下の慰めになるのならばと、ユーグは剣も持たず大蛇に相対しました。かれは優秀な賢者サージェなので、剣がなくとも魔法で闘えましたが、相手は伝説級の魔物です。激闘のすえ、ユーグが大蛇を斃した時、大蛇もまた、ユーグに致命的なダメージを与えていました」

 呪毒です、と重い声が庵に沈む。

「呪いと毒があわさった、非常にたちの悪い傷です。一般的な魔物の呪毒であれば、司祭や僧侶のスキルで対応が可能なのですが、伝説の魔物の、最期の攻撃による呪毒は強力にすぎ──それを癒やせるのは、火神の秘蹟しかありません」

「火神の秘蹟……王族のみが使えるっていう、あれか」

「はい。ですから、すぐに殿下が助けてくださると思いました。でも、殿下は……ユーグを捨て置いた」

「なんだって?」

 モモは身を起こす。毛布が腹まで落ちた。

「ユーグは右膝の下を、大蛇に噛まれました。その傷口に、呪毒が放たれた」

「右膝の下……」

「ユーグの受けた呪毒は、体内の神経をたどり、脳に達すると、狂い死にするものです。呪毒は今も、ユーグの体内を脳へと向かって進んでいます。呪毒が神経をたどる痛みは、凄まじいものだといいます。ユーグは回復魔法も使えるから平気だと嘯きますが、そんなことはない。想像を絶する痛みと、いつ呪毒が脳に達し、死ぬかもしれないという恐怖。しかも狂い死にです。脳を冒され死んでゆくというのは、どれほどの苦痛なのか。俺は──俺が、耐えられませんでした。俺は殿下に直訴しました。何度も、何度も、ユーグを助けてくださいと請いました」

 ゴドフロワは、身を屈め右手で右足の──膝の下を押さえた。

「そのたび殿下は、あなたはぼくの修道騎士だよね、と仰る」

 かれの膝の傷は、かれの兄の呪毒の傷とは違うものだけれど。どうしたって重ねてしまうのだろう。だからゴドフロワは、このけがだけは治すつもりがなかった。自分も、ほんの僅かでも同じ傷みを受けたかった。だからモモの治療をかたくなに拒んだ……。

「ぼくの心に叶うはたらきをしてくれたら、感激して、あなたのねがいを叶えてしまうかもしれないね、と仰る」

 そうして、とゴドフロワは語気を強めた。

「殿下が秘蹟を施すため訪われた町で、連続殺人犯マーダラーの凶行に眼を留められ、ご自身が裁きをくだされたいと──そう俺に、囁かれた時。それが殿下の御心に叶うことだと、ユーグを助けられる唯一の方法なのだと、俺は……」

「ゴドフロワ」

「俺は、だから、なにがあっても、どんな手段を使ってでも、マーダラーを捕らえ、殿下のもとに突きだすんです。戒律を破っても、卑劣だと詰られても──修道騎士でいられなくなっても、あなたに……こんなに、俺に心をくだき、薬をつくってくれたあなたを苦しめても……っ」

「ゴドフロワ、もういい」

 モモはベッドから降りる。椅子に腰かけたまま、膝の傷に爪をたてているゴドフロワの──横を通りすぎて。

「ご主人」

「……取り込み中だ」

「とりこみちゅう?」

「盗み聞きをしている」

 モモは微笑んだ。眼前にあるのは、黒く夜に塗りつぶされた窓。気配を消すことに長けたサワタリの、それを感じることなどモモにはできない。だけど、ご主人がそこにいる、ということは、どうしてか判るのだ。

 ずっと、ご主人が傍にいることは、判っていたのだ。

「この庵は、おれと、おれにゆるされた者でなければ、干渉できない。入ることはもちろん、見ることだってできない──その筈なのに、ご主人には見えているんだな」

「俺がおまえのあるじだからだろう」

「……っ」

 ぎゅっと両手を握る。そうだ、おれはサワタリの従魔だから。だから、意識なんかしないまま、最初の最初から、サワタリをゆるしてしまっている……。

「ご主人」

「呼ぶな。傍に行きたくなる」

「入ってこれるくせに」

「……、」

 窓は、閉まったままだった。戸が開け閉めされた様子もない。それなのに、いつのまにか──モモのすぐ隣りに、サワタリが立っていた。

(ご主人は、いつだっておれを取り返せた)

 ゴドフロワと馬で王の道を行った。サワタリは徒歩で、それをひたりと追ってきた。宿駅で別の部屋に泊まっている時はおろか、弓の練習をしている時や、二人乗りをしている時でさえ、サワタリならば、ゴドフロワからモモを取り返せただろう。

(それをしなかったのは──おれの意を汲んでくれたからだ)

 おれの意。ゴドフロワとともに行く──という意ではない。それは、サワタリとともに行かないという意だ。

 モモはサワタリから距離をおきたかった。色んな気持ちで心がぐちゃぐちゃで、少し遠くで、整理したかった。離れたかった。顔なんか、みたくなかった。

 それなのに──それだってほんとうのことなのに。どうしてモモを見おろす赤い瞳が、こんなにもなつかしい。なつかしくて、むさぼるように見つめていたから。いつかその目線がさがり──見おろされていたのが、見あげられていることに、モモは気づかない。

 モモのまえに跪き、サワタリは己れの従魔に──こいねがう。

「おまえに、極力触れないようにする。だから、また傍に──ともに旅をしてくれないか?」

「ご主人、髭がすごいぞ。髪もぼさぼさだし、体も洗っていないだろう、臭いぞ」

「おまえを失ったら、俺はこうなる」

「ご主人、一緒に旅をしようか」

 漂泊の旅をするかれを、縛りつけよう。

「目的地は、帝都だ──帝都の、お城の、王子様の前まで行こう」

「おまえが傍にいるのならば」

 どうして即答するんだ。ご主人の旅は漂泊なのに。そのご主人の旅路に生じる目的地は、あんたの鍛冶師がいる町ぐらいのものだろうに。

「だめです! いけません!」

 泣きそうになったが、泣かなかったのは。ゴドフロワが椅子から立ちあがったからだ。右足を引き摺ってくるものだから、慌てて止める。だが、ゴドフロワは声を荒げた。

「殿下のまえに引き出されるということは、死よりも酷い。あなたが死ぬ時、死ぬことが救いと思えるほどに、あなたの体も、心も、凄惨に壊し尽くされています」

「ご主人は、そんなに弱くないぞ」

「そういう次元じゃないんです、殿下は──」

「それに、どういう手段を使っても、サワタリを弟王子のとこに連れてくって決めてるんだろう、おまえ」

 ゴドフロワが苦しそうに顔を伏せる。かれの心が引き裂かれている様子がありありと見え、モモは胸を押さえる。

「心配ない」

 云いきったのは、サワタリだった。

「俺を殿下の面前とやらに突きだせ。俺は人殺しだ。捕らえられたこともある。その時は、拷問も受けた」

「ですが、ですが──」

「取り引きといこう。俺はおまえに捕らえられ、帝都の殿下の前まで連行されてやる。代わりに、おまえはウトゥラガトス・ニドムに出頭しろ」

「ウトゥラガトス・ニドム。斜め十字山脈の西に位置する、岩山の町ですね」

「あそこは帝都の支配の及ばない、アナーキストの町だ。おまえのような帝国の犬に知られることは、重大な危機と捉える。職人達に、俺はおまえの口を塞ぐ──殺す、と約束した。だが、俺はおまえを殺すのはやめにした」

「なぜですか?」

「おまえこそ、俺を殿下の面前に引き出すのをやめさせようとしただろう──たった今、な」

「……」

「……」

 二人はそれぞれ無言で、視線を横に向ける──モモを見る。それから、再び向き合った。

「判りました。帝都へあなたを連れてゆき──兄を助けたら、必ずウトゥラガトス・ニドムへ出頭します」

「おまえの命の保証はせんぞ。出頭したおまえをどうするかは、あの町の職人の判断次第だ」

「あなたこそ。先刻も云いましたが、殿下はあなたに、死よりも惨い仕打ちを、裁きと嘯いて賜りますよ」

「おれがついている」

 虚を突かれたよう。ゴドフロワがモモを見あげる。サワタリは──表情を変えることはない。

「サワタリには、おれがついている。だから、だいじょうぶだ」

 淡々と視線をはずすサワタリと正反対みたいに、ゴドフロワの眼が、口が、ぎゅっとゆがむ。同い年なんだなあと、なんとなくこの時、ゴドフロワのことをそう思った。

「あなたみたいな弱いのがついていたところで、なんだっていうんですか」

 こうして、この夜に。三人での旅が始まったのだ──帝都へと向かって。


「あなたは、馬に乗れますか?」

「それなりに」

 サワタリとそんな会話を交わした後、ゴドフロワはどこからか──おそらくまた、町の屯所に慇懃に突撃したのだろう──馬をもう一頭調達してきた。

「どうぞ──、……」

 なぜか口ごもっているゴドフロワに首を傾げると、サワタリがそっけなく云う。

「俺のことは好きに呼べ」

「……では、遠慮なく呼ばせてもらいます」

 薄く笑ったサワタリは、たぶん違う呼び方をされると思っていたのだろう。

「こちらの馬をどうぞ、サワタリ」

「──」

 笑みが剥がれて、無表情になる。ゴドフロワはこれまでずっとサワタリを「マーダラー」と呼んでいた。

 黙ったサワタリから、ゴドフロワに視線を移して。モモは云う。

「サワタリも、さん付けとかしたらだめだと思う」

「お馬さんに乗ってみてください、サワタリ」

 ──と、そんな風に云うものだから、モモは思わず、噴きだして笑ってしまった。

 サワタリは無表情のまま、馬の鐙に足をかける。相変わらず速い。敏捷な動作は眼で追えず──馬も自分がいつ乗られたのか判らなかったのではあるまいか。おまけに、背の高い人なのに、まるで体重を感じさせず、ふわりと馬に跨がっている。

「乗馬の型とは全く違いますが、馬に負担をかけない、優しい乗りかたをしますね」

「おきれいな馬具をつけた馬に乗るのは初めてだ」

「裸馬に乗っていたと?」

「太腿の締めつけだけでも馬は御せる」

 淡々と答えるサワタリは、手綱から手を離す。かれの足が微かに動いたようだった。それで、馬はゆったりと歩きだす。サワタリの足がまた、動く。馬が足を止め──首をねじると、サワタリに甘えるよう鼻を鳴らした。

「それなり、どころではないですね」

 ゴドフロワが感嘆している。ご主人は馬に乗る時まで格好いいんだなあ、とぼうっと見惚れていると。

「それほどの技量ならば、二人乗りも造作ないでしょう。あなたは、モモを抱いて乗るといい」

「……困る」

 無表情だけど。淡々とした声だけど。サワタリはほんとうに──困ったように、モモと眼を合わせない。

「俺はこいつに触れないようにすると、誓ったばかりだ」

 ──おまえに、極力触れないようにする。だから、またともに旅をしてくれないか。

 サワタリがそう云った──モモのまえに跪き、誓った夜を思いだす。

「……モモは、おまえのけがの容態も気になるだろう。おまえが抱いていけ」

「と、サワタリは云っていますが」

 うん、とモモは頷く。もう一つ、決めたことに頷いて。

 モモはゴドフロワの馬の方へ──ではなく、サワタリの馬の方へ、歩む。

「ご主人」

 馬上の人を見あげる。困ったよう、モモを見ない赤い瞳が。

「おれはご主人の従魔だ。命令してくれ」

「……、」

 低い場所に──モモのいるところに、向く。

「モモ」

 ご主人に呼ばれると、甘く疼く。

「俺を拒むな、抱かれていろ」

 命令されると、もっと、ぐっと、甘く重く疼く。

「はい、ご主人」

 サワタリが馬上から手をのばす。その手に掴まった時には、もう馬の背に跨がっていた。ご主人の両手が、モモの腹にまわされる。モモは背中をご主人の胸にあずける。後ろからふわりと、抱きしめられた。

「怖いな」

「ご主人に、怖いものがあるのか?」

「おまえが──あの時のような、酷い顔をしていると思うと、おまえの顔を見るのが怖い」

「ご主人……サワタリ」

 モモは、首をねじる。高いところにある、サワタリの顔をみあげる。

「困っても、怖くても、ご主人はそれをねじ伏せる」

 モモの顔を、真っ直ぐに見おろす。サワタリに、モモは笑いかける。

「力だけじゃない。気持ちが強い。とてもとても強い。ご主人のそういうところ、格好良くて、おれ、好きだ」

「……おまえ、酷い顔、していないな」

「おれを抱いていってくれるだろうか」

「抱かれていろ。そう、命令した」

 うん、と頷いて。モモは体をねじり、サワタリの胸に頬を寄せた。頬を擦りつけると、サワタリの両腕に、攫うよう抱きしめられた。

「……馬の上で暴れると、馬に迷惑ですよ」

 そこで、控えめながら、確りと批判するゴドフロワの声が聞こえて。モモは笑い、サワタリは云い返す。

「この程度で惑う馬ではない。良い馬だ」

「その馬は、すでにあなたに懐いている様子なのが、なんとも悔しいですね」

 二頭の馬は、縦に並んで走りだす。顔にあたる風が冷たい。雪片が混じっているのに気づき、モモは空を仰いだ。

 風がふきすさび、雪がまいちる、冬に沈んだ王の道を。切り裂くよう、ひた走る。

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