8th. きみの好きな人

 青々と茂った森に、方々を流れる小川、森の地味ちみを糧にあふれるほどに生きる動物たち。人の棲まぬ山は──だからこそ、豊かなものだと思っていた。だが、その景色が一変した。

 灰色の大地はとげとげしく、木が根をはることも、川が水を湛えることも許さない。乾いた風にぱらぱらと巻きあげられる砂が、不毛の大地を演出する。岩山。そうとしか云い様がない。剥きだしの岩盤が、激しく隆起と陥没を繰りかえす斜面は、これまで歩いてきた瑞々しい翠巒とは似ても似つかぬ巌を剥きだしにしていた。

「同じ山脈とは思えないな」

 斜め十字山脈の西側は、ほぼこの岩山で成っているという。

「大陸の西域は巨大な砂漠を擁する荒野だ。その東端がこの山脈になるからだろうな」

「荒野」

「人の町の栄えた歴史もあるらしいが、太古の昔──帝国が全土を統治する以前だから、お伽噺の類いだな。現在は定住する者は──いない、とされている。森や山谷はおろか平原さえダンジョンにまみれ、小物から大物まで魔物が跋扈しているから、冒険者にとっては世界随一の狩り場だ。長きにわたって冒険の舞台となっているから、延べ数夥しい冒険者が入っているが、いまだ一欠片の地理すら把握されていない」

 ご主人は西を旅したことがあるのか?と尋ねかけたモモだが。

「そろそろだな。モモ、人に化けろ」

 命じられ、頷く。音をたて人のすがたになったモモは、ご主人の隣りを歩く。──人の足で歩いてみて判る。靴を突き破るほどに地面が尖っていて、硬い。

 そうして、足許ばかり見て歩いていたせいだろう。

「モモ」

 呼ばれ、顔を上げ──眼を瞠った。

「ウトゥラガトス・ニドムだ」

 それは、岩山のなかにある岩山だった。四方に高い岩山がある。その裾はどこまでも陥没してゆき、中央でひとつになったそれが、むくりと隆起している。その中央の岩山の斜面に、びっしりと生えているのは──生えているのではなく、建っているのだった。人の手に拠るとしか思えない、自然にない造形。激しい自然の中に激しく突き刺さった町は、見るからに異様だった。

 ウトゥラガトス・ニドム──建物をびっしりと生やした岩山をそう呼ぶのならば──の周囲は、陥没している。四方に聳える岩山の裾は、いずれも地面を抉る深い谷になっている。岩山の町へのアクセスは、その谷に架かる吊り橋だった。サワタリが片手を伸ばす。その手に掴まり、モモは恐る恐る、吊り橋に足をのせる。思ったよりも揺れない。複雑に張り巡らされた鉄線が頭上に見える。これが橋を吊り支えているのだろう。橋の両側は木材で造られた欄干が通っていて、見たこともないような細工が施されている。

 岩山側に辿り着くと、正面に二階建てほどの大きさの建物があった。白い壁面は、腰から下に丹が塗られ、更に黒い石がぐるりと嵌めこまれ不思議な模様を描いている。扉は、極彩色だった。赤、青、緑、黄……鮮やかな色が塗られた扉を、サワタリは無造作に開ける。

 ようこそ、と出迎えられることはなかった。右の部屋から男が一人出てくる。サワタリは無言で、モッズコートの内側から何かをとりだした。男の手に渡されたそれは、球形をしていた。拳で包めるくらいのボールは、粘土でできているようだった。男はそれを眺め、外側に押してある印影を確認すると、ぱかりと半分に割る。中には小さな石が入っていた。文字を象っているようにも見えるが──モモがこの文字を知らないのは、まだ字を習い始めたばかりだからか、それともこの文字自体が世俗で使われぬものなのか。男は一つ頷き、小石を入れた球形の物を、サワタリに返却する。

 サワタリがそれを首にかけるのを見て、初めて男は口をひらいた。

「そっちは?」

「連れだ。俺の従……従者だ」

 男はもう一つ頷き、背を向けると奥の部屋へと戻っていった。ややあって──。

「……何の音だ?」

「喇叭の音だな。これで町に客が来たことを知らせる」

 客が町に入るたびに、山頂にある本営で、喇叭が吹かれるのだという。

 サワタリは無造作に進む。入り口の建物を抜けると──岩山の町に迷いこむ。

 実際、サワタリに手を引かれていなければ、モモは迷子になったと思う。複雑に入り組んだ岩山には、びっしりと建物が並び、道というものがない。互いの敷地の庭が通路になっているようなもので、住人でなければ、通い慣れた客でもないと、とても目的地までたどり着けまい。

「すごい町だな」

「闇の町──闇の職人の町、というかな」

「闇の職人」

「今世、全土を支配しているのは帝国だ。だが、国に従わない、或いは反逆する者は存在する」

「そうなのか?」

「ここに、いるだろう」

 微かに口端をあげるサワタリを見て、はっとする。ご主人は──人殺しだった。兵士に追われたことも一度や二度でなく、モモが出会うずっと前には、捕縛され拷問を受けたこともあるという。

「人殺しや盗賊、犯罪組織。そこまであからさまに楯突かずとも、禁制品を扱う商人や、徴税や労役を拒絶する庶民もいる。要するに、帝国軍が取り締まりの対象とする咎人だな。帝国からは蛮族バルバロイなどと呼ばれているが、ここウトゥラガトス・ニドムの職人も、そのバルバロイに含まれる」

「……人殺しのための武器を造っているからか?」

「それもある。俺のナイフのような特注品は、ここの職人にでもなければ頼まない。非正規の品の発注を受け、帝国に内密に製造してくれる。だから、バルバロイの武器から日常の道具まで、この町で造られていない物はない」

 だが、とサワタリは続ける。

「この町の住人自体が、バルバロイであるともいえる。この町の起源に、王室お抱えの鍛冶師であった男が、帝都の束縛に反発し、自ら王宮を去り、己れの思うがままに創作を成した場所が、ここ斜め十字山脈であったという逸話がある。実際、帝都や各町の職人がその地位を捨て、反骨精神や、己れの技術の研鑽のため、この町にやってくる例は今も絶えない。まあ、売られたり捨てられたりした子供がここで育ち、技術を継いでいる者が多数だが。どのみち、ここに帝王の加護はない。その分自由に己れの好きな物を造ることができる。それは、バルバロイの生き方だ」

 サワタリは、度々転びそうになるモモを支え、するすると進む。

「ここの職人は強いぞ。元盗賊や、元冒険者さえもいる。ここで育った者たちも、先人に倣い、自衛の精神が根付いているから、誰もが武器を持ち魔物と戦う。非正規品は闇の取り引きで高額の商品となるし、帝都の職人よりも技術が高いから、正規の品でもここで造られたものは品質が非常に高く、市場に出れば高額がつく。ために、資金力も半端なものではない。──ここには、王はいらないんだ」

「王がいらない……」

「王は自らをまつろわぬ者を蛮族バルバロイと呼ぶ。だが、バルバロイたちは自身のことを無政府主義者アナーキストと名乗る」

「アナーキスト。格好良いな」

 サワタリは頷く。そうか──ご主人は、この町が、この町に住むアナーキストたる職人たちが、好きなのだ。

 ──モモの、この時思った『好き』という感情は、直後に、複雑に変質することになるのだが。

「サワタリ! サワタリか!?」

 感極まった声で呼ぶ──呼ばれて、ご主人はこれまでモモとつないでくれていた手を、離した。

「久しいな、ジル」

「おまえは──僕がどれほど会いたかったと思っているのだ!?」

 工房を飛びだしてきた青年は、桃色の髪を後ろで一つにくくっている。隈の貼りついた眼は、明るい月夜の色をして──だがその色は、瞼が被さりふっと消えた。

 サワタリの腕に飛びこんだジルは、両手をサワタリの後頭にまわす。強引に引き寄せられたようには、見えなかった。むしろ、サワタリの方が積極的に身を屈め、ジルの唇に、唇を重ねていた。

(え……あ……)

 熱烈なキスを、呆然と眺めていて──見つめていたことを自覚し、モモは慌てて眼を逸らす。

「僕がどんなにか君に会いたかったか、君はひとしずくでも自覚をすべきだぞ」

「しばらく北辺を旅していたからな。西域に入る時は、必ず寄っていただろう」

「君が西域に入ったことなど、数えるほどもないではないか」

「俺がおまえと出会った時のことも、数えないか」

「ずるいのだ、その云いかたが」

 ジルはもう一度、サワタリの唇にキスをして、破顔する。

「君とのあの時間は、僕のいっとう大切なたからものなのだ。愛している、愛している、サワタリ」

「おまえは、変わらないな」

 サワタリがぽんぽんとジルの頭を撫でる。と、かれのくくられた髪が弾む。知らず、モモは自分のハーフアップにした髪を、手で押さえていた。

「おまえの造るナイフは、やはり別格だ。どれほど助けられたか知れん」

「そうか、僕のナイフは、ちゃんと君の武器をやっているのだな」

「前払いで置いていく。また郵便で補充を頼まれてくれるか」

 サワタリは金貨の詰まった袋をジルに手渡す。

「支払いは金でなく、サワタリの時間を要求する」

「俺の時間だと?」

「デートをするのだ! まずは本営だな。酒を飲み、語らうぞ。そうだ、長柄武器の形状について、君の意見を聞いてみたかったのだ。先端に工夫を凝らすと、使用に熟練が必要となる。軽く単純に造ると、攻撃力が下がってしまう。このバランスは鍛冶師の間で長らくの課題であるのだが、僕は閃いたのだ。槍の脇に、斧と鉤爪をこう──」

「判った判った、酒を飲みながら話そう。というか、おまえ、仕事はいいのか?」

「知らなかったのか? マレット工房は、サワタリが来る日が休業日なのだ」

「俺が来ない日もちゃんと休め。おまえ、また寝てないし食っていないんだろう」

「それのなにが悪い! 悪いのだな! だったら、僕に酒を飲ませ物を食わせるのだ! うん、君が共寝をしてくれたらいくらでも眠れるぞ!」

 ジルはサワタリの右腕にしがみつき、歩きだす。歩きだそうとしたところで、だがサワタリの方が動かない。

「待て、ジル。連れがいる」

「連れだと!? サワタリが連れてきたのか!?」

 大仰に驚くジルから──やっと、視線がモモに戻ってきた。

「モモという。俺の従者だ」

「あ……え、と、はじめまして。おれ──」

「従者だって! 冒険者でもないのか!?」

「まあ──そうだな。冒険者として、ギルドに登録はしていない」

 ジルは隈の濃い眼で、モモを上から下まで眺めている。

「モモ。こいつがジル。俺のナイフを造っているマレット工房の当代だ」

 そうだ、とサワタリの視線はまたジルに固定される。

「おまえ、モモのブッラを造ってやってくれ。モモはこれから先も、俺とともにここを訪う」

「……考えさせてくれ」

「なぜだ」

「僕は気分屋なのだ。そうだな、サワタリがデートで僕と愛のひとときを過ごしてくれたら、機嫌が良くなり、ブッラを造る気になるかもしれぬ」

「しょうがないな」

 サワタリは首からあの──この町に入るときに見せていた、粘土のボールを外し、モモの首にかけてくれる。

「この町の通行証、身分証になる。それがあれば町のどこにでも行けるから、遊んでこい」

「はい、ご主人」

「サワタリの従者の君」

 びし、と指さされ、モモは身を引く。

「そのブッラは、僕の工房が身分を保障している。君が町に不利益をもたらしてみろ、責任をとるのは僕になるのだ!」

「わ、わかった」

 この粘土のボールは、ブッラというらしい。ウトゥラガトス・ニドムの通行証、身分証であり──おそらく、発行したマレット工房、当代ジルが保証人となっているのだろう。

 こくこくとうなずくモモを、もう一度眺めまわして。それからジルは、サワタリの腕に巻きつき、歩きだす。今度はサワタリの足も動いている。ジルが背伸びし、サワタリの耳に何か囁いている。声をあげて笑うご主人は、ジルの背にあの大きな手をあてていて。互いに抱きあうように、ふたりは睦まじく町を上ってゆく……。

「……、」

 モモは、胸にかかる薬草ポーチのひもを、ぎゅっと握る。ご主人は、遊んでこいと云った。異相の町には、気骨あるアナーキストである職人の工房が犇めいている。闇の市場で取り引きされる禁制品が造られる、特別な町。探検に出よう。きっと見るもの聞くもの全部が初めてで、きっと、楽しい。

 実際、町を歩くと、新鮮な驚きに事欠かなかった。転ばぬように、ゆっくりと。一つ一つの工房で足を止め、交渉が叶えば、物づくりの現場を見学させてもらう。やはり鍛冶屋が最も多いが、他にも多種多様な物づくりが行われている。冶金、鉛葺き、馬具、研ぎ、皮なめし、陶磁器、染色、織物、刺繍、化粧品に香水、果ては人工宝石を製造している工房まである。とても数えきれない、様々な物づくりの様子はどれも興味深かった。だが……。

(今頃、ご主人はジルと一緒なんだな……)

 何を見ても、何を聞いても、なぜか心がそのことに引き戻される。甘えるように腕をからめ、守るように背を抱いて。酒を飲むと云っていた。ご主人の大好きなお酒は、モモは好きではない。けれど、ジルはきっと、一緒においしく飲めるのだ。

 ため息が溢れそうになる、口を両手で押さえた。自分の手にあたる、自分の唇の感触に──びくんと震える。サワタリとジルの、熱烈なキスがありありと思いだされる。

「どうしたね、臭いで気分が悪くなったか?」

「えっ、あ、ええと、違うんだ」

 モモは慌てて顔をあげる。製鉄の職人に見学させてもらっていたのだった。精錬炉で砕いた鉄鉱石と木炭を焼いているため、工房には臭いが籠もっている。

「いや、顔色が悪いぞ。こっちへ来なさい。少し横になった方がいい」

 髭を生やした職人が、モモの肩を抱く。だいじょうぶだ、と断ったが、職人は鍛えられた腕で、半ば引き摺るようモモを奥の部屋へ連れてゆき、ベッドに寝かせてくれる。

「親切にしてくれて、有り難う。でも、ほんとうにだいじょうぶなんだ」

 モモは起きあがろうとしたが、太い腕が押さえつけてくる。

「子供が遠慮をするものじゃない。ああ──綺麗な肌だな。歳は幾つかな?」

「十八歳……だけど」

「五つ六つ若く見えるね。いやしかし、十代の肌だね……きれいだよ……」

 頬から首を撫でられ──ぞわりと肌が粟だつ。反射的に手を払いのけそうになったが、寸でで思いだしたのは、首にかけたブッラが眼に入ったからだ。町に不利益をもたらしたら、ジルの責任になる。その戒めが、この職人の親切をむげにすることを、モモにためらわせた。

「茶を淹れよう。甘いものは好きかい?」

「あの、もう充分よくしてもらったから」

「見学のお礼に、おじさんとお茶を飲むことくらいしてくれてもいいんじゃないか?」

 胸でブッラが揺れている。モモは職人に従い、ベッドに横になった。茶が入ったよという声かけで起きあがり、素直にいただいた。職人もモモの隣りに座り、湯飲みをかたむけている。湯飲みは、この町で発明された青磁と呼ばれる磁器で、たいへんに希少なものだという。薄い緑とも青ともいえない、透明感のある色が綺麗だ。そう云うと、職人はうれしそうに胸を張った。

 その後もなにくれと話しかけてくる職人に、モモは一生懸命受け答えをする。出された茶菓子も全部食べた。おいしいと笑って、有り難うと頭を下げた。失礼にならないように──かれの不興を買わぬように。

 湯飲みがからになっても、職人の弁舌は止まらない。窓の外はすっかり暗くなっている。

「やあ、顔色がよくなっているね」

 どうやって辞去を申し出れば職人の気に障らないか。そればかりを考えていたから、モモはその科白に飛びついた。

「うん、もうだいじょうぶだ。たくさんよくしてくれてありがとう」

 おれはもう帰る──そう云いかけた口は──塞がれていた。

 声もだせなかった。呆然となったモモは、再びベッドに押し倒されていた。髭が、また顔に当たる。唇の感触は──唇ごともぎとってしまいたいほど、おぞましかった。

「おとなのキスは初めてかな? うっとりとして、可愛いものだね」

 声が。喉が、からからに干上がって、声が出てこない。

「おじさん、きみのことが好きになってしまったんだ。だから、ね」

 職人の──男の指が蠢き、モモの服にかかる。帯紐を解かれ、チュニックを腹の上までたくし上げられる。ズボンを引き下ろされた時、ようやく声が出た。

「や──やめ、ろ。なにを、するんだ」

「なにをって、愛の営みに決まっているだろう。ほら、腰をあげて。下着を脱ごうね」

「おれはそんなこと、しない。帰る──」

「は?」

 男の形相が変わる。モモはぎゅっと薬草ポーチの紐を握りしめ、男を睨んだ。

「俺は、気分の悪くなったきみを助けてあげたんだぞ」

「それには、お礼を云った」

「そうとも! 礼を云うということは、助けてもらった自覚があるんだろう? あんなに楽しそうに俺と話していた! よくしてくれたと感謝でいっぱいの眼で俺を見ていた! きみも俺のことを好きになったんだよね?」

「そんなわけないだろう」

 モモの言葉に、男は眉尻を下げた。

「おじさんが、いっぱい気持ちよくしてあげるからね。きみもおじさんのこと、いっぱい気持ちよくさせておくれよ」

「俺はあんたを好きになってなどいないし、あんたのしたいことをする気もない」

「腰をあげて。ねえ、下着を脱いで」

「これ、強姦っていうのじゃないか」

 男の顔が、怒気に染まる。

「愛しあっている者同士が営む行為に、なんて言葉を使うんだ!」

「だから、おれはあんたのことを好きじゃない」

「有り難うと云っただろうが! 楽しそうに話して! よくしてもらったと笑ったじゃないか!」

 この人は、おれの言葉を聞く気がないのだ。男の思いこみの中で、おれは男のことが好きで、だから──。

「痛いことはしたくないんだ。ね、下着を取るよ。ね?」

 男はモモの下半身から下着をむしり取る。

「……見ての通り、おれ、男だぞ」

「心配しないでいいよ。愛に性別なんて関係ない」

 ふと、ここに棲まう職人はアナーキストだということを思いだした。帝国の守護を受けない──独立した心を持つ。とすれば、帝国が道徳で厳しく禁じている同性愛に対して、むしろ積極的なのかもしれない。

「素直に足を広げて、ほうら、やっぱりきみも俺のことを愛してしまったということが、ばれてしまったね」

 男が強引に足を広げたのだが。モモは云い返そうとしたが、ふとなにかが滲んだ。

「良い子だ、可愛いねえ」

 頭を撫でられ、吐き気がするほどの不快感が噴きあがったが──そこにも滲んだのは、疲れたような感じだった。

(ご主人に撫でられるのは、あんなに気持ちいいのにな)

 甘やかで幸福な想い出は──だがすぐさま塗りつぶされた。サワタリがジルの頭を撫でる情景に。熱烈にキスを交わすふたりの情景に、塗りつぶされた……。

(おれ、帰る、って云ったけど)

 どこに帰るというのだろう。ご主人とジルは、もう帰宅しているだろうか。複雑な町をひとりで歩きまわったモモは、ジルの工房への道のりを覚えていない。けれど、一晩くらい帰らなくても、ご主人は気づかないのではないか。むしろ、ジルとの水入らずの時間を過ごすため、じゃまものは──おれは、いない方がいいのではないか。だって、共寝をすると云っていた。ひとつベッドで、今夜二人は……。

(ジルも、ご主人も、アナーキストだ……)

 もしかしたら──もしかしなくても、ふたりは恋人なのかもしれない。あの熱烈な手紙の文面を覚えている。サワタリは、いつものことだと気にした風もなかった。それくらい──親密な仲で。だって、サワタリは好きなのだと思った。好き。それは、この町のことではなく……。

「……、」

 不快感に、疲れた感じと、悲しい感じが、ぐちゃぐちゃに入り混じる。男が、モモの太腿をまさぐっている。肌がきれいだ、すべすべだと喚いては、ねちっこく撫でる。

(いいか……おれみたいな貧相なの、宿代にもならないだろうけど)

 少なくとも、セックスを受けいれれば今夜くらいは泊めてくれるだろう。もし悦ばせることができれば──もちろん性的なことを初めてするモモに、そんな技巧があるとも思えないが──明日も、明後日も泊めてくれるかもしれない。──それを望むほどに、モモはいま、サワタリの傍に帰りたくなかった。あんなに……あんなにも傍にいたいと、傍にいるのだとこいねがったご主人なのに。

 モモは眼を閉じる。一方的な睦言を囁きながら、男が覆い被さってくる。裸の肌が触れあい、また強烈な吐き気がした。我慢する。もういい。もういい……。

 そして、モモが投げだそうとした時だった。

「!?」

 凄まじい音がした。さすがに男も、跳ねるように起きあがった。

(……喇叭の音?)

 モモたちがこの町に入るときに鳴らされた喇叭の音は、風に紛れるような穏やかなものだったが──いま鳴る音は、音階もなにもなく、ひたすらにがなりたて、風を切り裂いている。

「ちっ……よりにもよって、こんなイイ時に」

 切迫感を煽る音に、モモも身を起こす。男は既にベッドを降り、服を着ている。

「……何の音なんだ?」

「非常事態さ。町を侵害するものあり、という警告音だね。さて、魔物か人か。町にあだなすものであるのは間違いない」

 男は壁に掛けてあった槍を持つと、モモを振りかえる。

「きみはそこで休んでいて。すぐに帰ってきて、たんと愛してあげるから」

 なるほど、この町の者はみな戦える──戦う者だというのは、ほんとうのことらしい。『イイ時』でさえ服を着なおし、武器を持って戦闘へ向かう。その気概があるからこそ、過酷な環境で、帝国に屈せず、生きてゆけるのだ。

(ご主人が好きな……)

 好き、という言葉が重たい。モモはうなだれ、のろのろとベッドを降りる。床に投げ捨てられた下着を取り、身につけた。乱された服をなおすと、胸をななめに紐が渡っていた。薬草ポーチ。ご主人が手ずからおれにつくってくれた、ポーチ……。

「……っ」

 モモは、紐を両手で握る。なんだか判らない感情がこみあげたが、のみくだす。──その時、はずみのよう、思いついたのだ。

(ご主人)

 あんまりにも──その傍に帰りたくないと思うほどに、あんまりにもご主人のことを考えていたから。ぱっと、頭のなかで結びつくものがあったのだ。

(──このタイミング)

 町を侵害するものは、魔物か──人。男はそう云った。

(ご主人は、ずっと警戒していた。山を分け入り進んでゆく間、その痕跡を丹念に消して──魔物との戦いで、悪路悪天で、どれほど体力を削られても、ずっとずっと、背後を気にしていた)

 モモは走りだしていた。胸を叩くブッラとポーチの紐を一緒くたに握って。岩山の町を駆け降りる。



 侵害する者──町が開戦の喇叭を吹き鳴らし、職人に武器を持たせ排除を促した相手は、一人だった。

(やっぱり──)

 果たしてたった一人で、この闇の町を相手取ったのは、背に黄色のマントを帯び、ワンズの紋章が刻まれた盾を持つ。幅広の重い十字剣を自在に遣う──修道騎士。

 ついにかれは、サワタリを発見したのだ。どれほどの執念を持って捜索したのか、この闇の町へと辿り着き──恐らく、侵入を果たした。だが、ここの職人たちは強い。サワタリの言が説得力をもって蘇る。武器を手に集った職人たちは、町からかれを排除したのだ。あの修道騎士が凄まじい剣技の持ち主であることは知っているが、凶悪な魔物の襲撃さえ打ち払う職人たち猛攻撃は、それを退けさえした。だが──そこで撤退するほど、相手もまたやわではない。

 修道騎士はいったんは退いたのだろう──そう見せかけ、陣取った。町への唯一のアクセスである吊り橋の上に。

 当然に、吊り橋の幅は狭い。武器を持った職人は多勢であったが、吊り橋で戦うには一対一の戦いを余儀なくされるのだ。そして──一対一の戦いに持ちこめば、あの修道騎士に比肩する者はいない。ここの職人が、そこらの兵士や冒険者よりも戦闘能力があるとしても──それでも二合と打ち合えぬほど、かれは強い。強すぎる。

 そして、かれの狙いはご主人──サワタリなのだ。火花が散る。いつか見た一騎討ちも、橋だった。ここで、あの修道騎士とサワタリが戦っているのは、必定というものだった。

「ご主人、ご主人っ……!」

 モモは吊り橋のたもとに群がる職人たちをおしどけ、進む。屈強な職人たちを、モモの力でどうやっておしどけたのか──無我夢中で覚えていない。両手両足で硬い岩盤に爪をたて、這うようにして吊り橋に辿り着いた。

「あ──」

 修道騎士の突きだした剣をひらりと躱し──そのまま、サワタリはかれの頭上をも飛び越えた。背後をとったサワタリが、ナイフを修道騎士の首に当てる。首の血管。しかし、それを引き裂く刹那に。

「──っぐ、う」

 修道騎士の十字剣が、ずるりと後ろに滑った。その柄が、サワタリの腹にのめりこんでいる。サワタリの動きを読んでいたのか。重厚な造りの柄は鈍器だった。修道騎士の並外れた膂力で突きだされた一撃に、サワタリが膝を折る。

「ご主人!!」

 ごぼ、と口から溢れたのは血だった。ぼたぼたと橋に血を吐くサワタリに、何を思う間もなくモモは吊り橋に踏みこみ、走りっていた。ぐらぐらと揺れる。来た時のような恐怖心は、一ミリも湧かなかった。怖いのは、血を吐いているご主人の容態だ。体勢をくずしたサワタリに、とどめの剣が振りおろされる──。

「だめだ──」

 首斬ろうと降ってくる刃の下にもぐりこむ──モモが、だが覚悟した切断の痛みを受けることはなかった。

「……え?」

 修道騎士が、仰向けに倒れている。喉に、ナイフが突き立っていた。修道騎士は顔全体を覆う大兜を着けていて、それは喉まで覆っていたが、サワタリの刺突はその装甲をも突き破っていたのだ。証拠に──大兜の内側から、血が流れだしている。

「けがはないか、モモ」

「──っ」

 ご主人の口から、胸までも血で濡れている。ぐっと喉の奥が痛くなった。視界が白くなり、狭まる。なにかいわなきゃ。なにかしなきゃ。なにか、なにかと思うのに、泣きだして、ばかみたいに泣いて、わけがわからなくなって。

「モモ?」

 無能なうえに、無様を曝す。吊り橋にうずくまって泣くモモの、ハーフアップの髪に。サワタリが手を触れる──触れた、刹那。

「……、」

「あ……」

 ぱん、と。その手を払いのけたのは、モモだった。サワタリを拒んだ自分の手を、呆然とモモは見おろす。

 ──その眼の端に、映ったか、どうか。

 角度から云えば、視界には入っていた。仰向けに倒れていた修道騎士が起きあがり──よろけたのは一瞬、かれに残った全ての力を全て、逃走に使っていた。

「──う」

 咄嗟にサワタリがナイフを遣う──だが、腹のダメージが──他にも体中に受けているだろうすべてのダメージが、追いつくことを許さなかった。修道騎士は吊り橋を駆け抜け、町と反対側の岸に辿り着くと、闇夜に消えた。

「っ……」

 サワタリが片膝をつく。それでも追おうとするご主人の、肩の下にもぐりこむ。モモはサワタリの体を支え、歩いた。いつかサワタリが足を痛めた時、こうして杖代わりをしたことがあった。その時のことを思いだすと、また涙が溢れて、どうして、どうしてこうも役立たずなのだと自分を死ぬまで殴りたい。

 自分より遙かに背の高いご主人を支え、歩いた。だが、吊り橋を渡りきったところで、もう息がきれている。ご主人の息も荒い。──と、片手を口に押しつけている。見る間にその甲が赤く染まり、モモは青ざめる。

(まだ、吐血が止まっていない)

 動揺すると、ただでも頼りない足がもつれた。ぐしゃ、と支えていたご主人ごと転ぶ。

(薬草を──吐血であれば消化器系が傷ついている。体の内側から傷を塞ぐ効果のあるものを、出せ!)

 硬い地面に転げたまま、モモは薬草ポーチに手をつっこむ。選りだした薬草は、煮出した方が薬効が高い。焚き火──よりも、町で火を借りた方が早い。モモは吊り橋の向こう側に視線を向けて──そこで、やっと気がついた。

 吊り橋をぞろぞろと渡ってくる職人たちは、互いに声をかけあい、岩山に散ってゆく。あの逃げた修道騎士を追うのだろう。更に──サワタリとモモを取り囲んでいる者が、十数人も。

「あれは、帝都の修道騎士だな。──厄介な奴を引き込んでくれたものだな」

 断罪の口調に、モモは竦む。隣りで、サワタリは淡々と顔を上げた。

「謝罪する。あれは俺を追っていた」

「認めるのだな」

「修道騎士に、この町の所在を知られた。不利益どころではないな。ウトゥラガトス・ニドムが被る損失は、はかりしれない」

 サワタリは頭を下げる。

「如何様にも罰してくれ」

「待ちたまえ」

 凜と響く声に、モモたちを囲った輪が崩れる。その開いた場所から、つかつかと歩いてくるのは──桃色の髪に、明るい月夜の眼の鍛冶師。

(サワタリの……好きな人)

 ジルは、サワタリの前に立つ。職人たちから守るよう、立ちはだかる。

「かれはマレット工房の客だ。ブッラに誓って、その責任は僕の工房が引き受ける」

 職人たちがざわめいた。マレット工房だと、そりゃ鍛冶師でも筆頭の、という声が方々で聞こえる。

「マレット工房の資産及び全ての技術で、かれの責任を購う。だから、かれを解放してはくれまいか」

「技術と云われても……あなたは、ジル・マレットだろう? あなたほどの技術を誰しもが持てるわけではないのだよ」

「サワタリ」

「……ああ」

 ジルが、サワタリを見つめる。その視線を受け、サワタリは肯いた。

「時間をもらえるならば、俺は必ず、あの修道騎士の口を封じる。この町の存在が知れるまえに、必ず、と約束する」

 また、職人たちがざわめく。そこに、岩山の方々から引きあげてくる職人たちが混じってくる。修道騎士を追っていった者たちだ。夜は魔物が活性化するため、深追いはできなかったらしい。

 ざわざわと話し合いの声が飛び交う。そして──結果として、職人たちはサワタリに縄をかけることをやめたのだ。

「なんだかんだ、あの修道騎士を一対一で倒したのは、この客だけだったからな」

「マレット工房が責任を引き受けるという言質もとった」

 大まかに云うと、この二つの理由で、サワタリは解放されることになった。三々五々、町へと引きあげていく職人たちを、ぼんやりと見送っていると。

「すまない、ジル」

「僕が君を信じているということにすぎない。さあ、これを」

 ジルは背に負っていたザックをおろす。中にはぎっしりと──様々な形状をしたナイフが詰まっていた。

 サワタリはそのうちの一振りを手にとり、笑った。

「実は、おまえのナイフが尽きていた。あの男の喉を突いたナイフはなまくらだった」

 なるほど、だからあの修道騎士は一命を取り留めたのだ。あれがジルのナイフであれば、確実に喉を貫いていたのだろうから。

「助かる。心から、感謝する」

 ジルが膝を折る。片膝をたて座るサワタリに覆い被さり、そして──ふたりは口づけを交わす。

 モモは。

 やはり、ぼんやりと、それを見ていた。

「それで、君は何なのだ?」

 ぼんやりと──いつかこちらを見おろしているジルの声を、聞いていた。

「戦闘の役に立たないどころか、じゃまをして。従僕だというのに、主人を助けようとする気概もないのか」

「……ジル、モモは」

「黙れ。僕は僕の云いたいことを云うのだ」

 サワタリの言さえも、きっぱりと切り捨て。ジルはモモを冷ややかに見おろす。

「サワタリの従者殿。君はどうせサワタリに守られてばかりなのだろう。守られていることに対して、なんの疑問も持っていないのだろう」

 これは、おれを糾弾する声だ……。

「疑問をもて。そして、考えたまえ。どうすれば守られるだけの存在にならないか。自分にできることはないか。……少なくとも、僕は考えたぞ」

 月夜の眼の下の、濃い隈。

「僕とてサワタリのような戦闘などできない。傍にいても足手まといにしかならないのは明白だ。だから、僕はかれの武器になろうと決めたのだ。なにものにも折れない、なにものをも貫き切り裂くナイフを造れるようになるまで、僕は死に物狂いで研鑽を積み……ここにいる」

 この鍛冶師は、寝食を忘れ仕事に打ちこみ──サワタリのナイフを、かれが絶大な信頼を寄せるこの世で無二の武器を造っているのだ。

「もっとも、かれの武器になることで、かれの傍に常にいるのは僕だという、自負を持つ下心もあるのだが」

「……真実だ。ご主人の──サワタリの傍にいるのは、おれじゃない、ジルだ」

 ジルのナイフこそが、ご主人のいちばん傍にいて、ご主人をいちばん助ける、ご主人が……好き、な……。

 なんだか、お腹の底が痛い。血を吐くほど腹を打たれたのはご主人なのに。痛くて、眼が翳む。喉も、胸も痛い。頭はぼんやりしている。心もぼんやりしていて、なにも聞こえない。見えない。

(なにも……)

 なにも、できない。

 もう涙も溢れてこないことは、いい、と思った。

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