7th. 斜め十字山脈

 サワタリは、鍛冶師ジルのナイフをほぼ使いきってしまったという。

 特に、男を殺害する時に用いる、太い杭型のものは尽きていた。あれはジルの工房以外では造れない特別製なので、旅を更に急がねばならなくなった。

 だが、サワタリは慎重だった。懸念があるのだということは、モモにも判った。あの修道騎士だ。かれが有能であるのならば──修道騎士というのだから、勿論剣技だけでなく頭脳も明晰なのだろう──必ず、たもとの下町での殺戮に気がつき、引きかえす筈だ。

「山に入る」

 サワタリは短くそう云った。何もなければ、このまま王の道を西域とのさかいまで進み、そこから斜め十字山脈に入る予定だった。だが、王の道はもはや使えない。その近辺の街道も避けた方が賢明だろう。ならばもう道そのものを外れ、直接山脈に入ってしまった方がいい。──その分、旅は過酷になるが。

 実際、山岳の旅は苦しいものだった。先ず、魔物が多い。であるのに、武器ナイフの消耗を避けるため、最低限の斬撃で斃すことが求められた。それには、精神力も体力も削られる。ふだんのサワタリならば傷を受けることすらなく仕留めるのだが、その制約もあり──更に山脈に出現する魔物は凶悪なものばかりであったから、絶えずけがにまみれていた。

 モモは戦闘の役に立たない。身を隠せる、或いは上空に逃れられる魔物のすがたで、サワタリの邪魔にならぬよう立ちまわるだけで精一杯だった。できることといえば、戦闘後に幾らか器用な人間のすがたに化け、サワタリのけがに薬草をあてることだけで──悔しかった。

 役立たずですまない、ごめんなさい。何度もそう口から溢れかけた。だけれど、それはゆるしを請う言葉だ。サワタリに「そんなことはない」と云わせ、宥めてもらうような──そんな余力を使わせることのほうが愚かだ。

 けがで削られた体力を更に削るのが、山道だった。否、道などはない。人の棲まぬ山脈には獣道さえなく、急な斜面は木の根や岩などで更に足場を悪くしている。おまけに気温が低く、天候は変わりやすい。暴雨や暴風の中山を行くのは、無謀と云えた。

 更に──体力も気力も底をついているのに、サワタリは前だけを見てはいないのだ。後ろを、自分たちが通った場所を、常に気にしていた。野営をしたさいに、焚き火やその他の始末を怠らないことは勿論、ただ歩いてきただけでも──喩えば踏みしだかれた草や、折れた小枝、それら人の通った痕跡を、丁寧に確実に消しながら、進む。

 そうして困難な旅を行くサワタリの表情に、変化はない。魔物に片足を食いちぎられる重傷を負っても(持ちだしてきたドロシーの薬で、切断は免れた)、嵐で濡れそぼり低体温症を起こしても(雪降る北域で手に入れていた温石が、この山の旅でも役に立った)、淡々と進んでいたものが。ふと顔を上げた。

「川だ」

 あの王の道の橋梁がかかるような、大河とは比べものにもならない。底の石が見えるほど浅い小川が、山の表面をかすめるよう流れている。

「ご主人、おれ疲れた。休憩したい」

 モモはサワタリの肩で身を起こし、額をご主人の頬にあてる。サワタリの手がぽんぽんとモモの背を撫でる。

 そのまま、サワタリは膝を折る。くずれるように、とまではいかないが、かれにしては危うい。嵐が間断なく襲ってくる悪路を、ハンデを負い魔物を斃しながら、かつその痕跡を徹底的に消しながら来た。消耗が激しいのだ。モモは音をたて、人のすがたに化けた。それから薬草ポーチに手を入れる。小分けにした袋を一つ取りだし、サワタリの傍にこんもりと積んだ。

「嗅いだことのない匂いだ」

「くさいか?」

「不快ではないな」

「魔物は不快になるんだ」

 ほう、と珍しそうにサワタリはそれを見た。濃緑、というより殆ど黒い。薬草をペーストしたものがベースになっているが、他にも幾つかの素材を練りこんである。

「ドロシーが作っていた薬の一つだ。魔物除けの効果がある。絶対じゃないけど」

 彼女の庵が魔物の襲撃から免れられていたのは、この薬を作ることができたからだ。絶対的な効果があるわけではないから、多分に彼女の運もあったのだろうが。

「そうか。ならば、少し休息がとれるな」

「ご主人は座っていてくれ」

「おまえ、疲れていたんじゃないのか」

「うん。とても疲れている」

 サワタリが微かに笑う。モモはかれの荷物をおろさせ、その中から火熾しの道具を取りだす。枯れ木を集め焚き火を作ることは、できるようになっていた。ひととおり野営の場を整え振り向くと、サワタリは座ったまま、眼を閉じている。ザックから毛布を引っ張り出し、そうっと背中にかける。ドロシーの庵から、この魔物除けの薬を持ちだしてきたが、量は僅かだ。だからこの機会をあますことなく使い、休んでほしい。そのモモの気持ちを読みとってくれるのが、ご主人なのだ。回復に努めるため、速やかに睡眠に入った。

 モモは考える。今のうちにできることはないか。幸い、食糧は豊富にあった。人は棲まないが、動物は多く棲んでいる山だった。魔物の駆除と動物の狩りの難度など比較もできない。つまりサワタリのおかげで、肉類はいつも新鮮なものを摂ることができた。更に、食用になる野草も多い。季節は晩秋に入っていたが、まだ実をつけている木も多いから……。

 あっ、と声をだしかけ、モモは両手で口を覆う。そうっとご主人の顔を覗きこんだが、起きる様子はなくほっとした。逸る気持ちのまま、魔物のすがたに変げする。

 モモは浅い川を越える。対岸にはすぐに着いた。そこに生えている樹木は、黄緑色の葉を茂らせ、こんもりと川に被せている。モモは細かい縦の割れ目の入った幹沿いに、するすると上がる。軈て枝は細くなり、そこにぶら下がるもの──対岸から見えていたものに手が届く。

「やっぱり、くるみだ!」

 モモの拳ほどの大きさの実だ。緑色の紡錘形。五、六個で一房になっていて、細い枝はいかにも重たそうに撓んでいる。モモは三つ指の手で房のねもとを握り、引っぱった。固い。歯をたて、噛みちぎる。取れた!

 重たい房を持ち、モモは川を再び渡った。サワタリは毛布を体に巻きつけ、寝息をたてている。それを確認し、モモは再び人のすがたに化ける。

(ええと、ナイフ……は、触るなと云われているんだった)

 勿論、薬草を刻む時などには、使わせてくれるのだが。無断でご主人のモッズコートからナイフを持ちだすことはしない。モモは辺りを見まわす。川辺には石がたくさん転がっていたから、掴みやすものを選った。台にちょうどいい平たい石も見つけ、その上にくるみを置く。

 房から一つずつ実を切り離す。びわに似た果実だが、ここは食べられない。ゆえに、剥く。モモは右手に握った石で、果実を叩く。固い。一度でだめなら、二度、三度。軈て果実に罅が入る。その割れ目に指を入れ、ぽきぽきと砕きながら剥いてゆく。

 一房に六つなっていた実を、全て剥いてしまう。果実を剥ぎ取った種子部分は、真っ黒で、でこぼこしていて、グロテスクだ。モモはそれを抱えると、小川へ持ってゆく。せせらぎに沈め、じゃぶじゃぶと洗った。途端に川が真っ黒になる。だが、川は絶えず新しい水が流れてくるから、間もなく元の澄んだ色を取り戻す。ほっとして、モモは洗ったくるみを抱き、焚き火の傍に戻った。

 台に使った石の上に、くるみを並べてゆく。晴天で良かった。みるみるうちに乾いてゆき、淡いベージュ色になった。

 モモはサワタリのザックから、底の浅い鍋とスプーンを取りだす。鍋を火にかけ、干したくるみを投入する。根気強く煎っていると、くるみの先端が裂けた。鍋をおろし、くるみが冷めてから、先端の裂け目にスプーンを差しこむ。ぱかんと、二つに割れた。やっと可食部に辿りついたのだ。固い種子の中身を、スプーンでそぎ取ると、見慣れた──パンの中に混ぜられているような、くるみのすがたが出現した。モモは残りの五つの中身も取りだす。力が足りず、また力を込めすぎ、大方のくるみは砕けてしまったが、食べられないことはない──と思う。再び鍋にくるみを入れ、火で炙った。

 芳ばしい匂いが漂ってきた。モモは腰のポーチから、塩を取りだす。バターでもあればもっと美味しくなるんだろうけれど、塩をふるだけで精一杯だった。

「良い匂いがする」

「ご主人!」

 咄嗟に両手を背中の後ろにやって。モモは上を向く。のっそりと起きあがったサワタリは、鍋の中を覗いて、──破顔した。

「いつか、おまえはやると思っていた」

 こんな笑顔、初めて見た。胸を押さえたかったが、その手は背中でぎゅっと握りしめているのだった。モモは笑いかえす。

「おれはご主人に、くるみを食べさせてやりたいと思っていたんだ」

 あの凍土に降りたつ金籠の都で、贅を尽くした食事にくるみが出てきたときは、先を越されたと、残念に思ったくらい。

「おれの夢を叶えてくれるか?」

 ご主人はモモの頭を撫で、無造作に鍋の中からくるみを取った。また、笑っている。不格好に砕けたくるみを口に放りこむのを、モモはじっと見つめた。

「うまい」

「ほんとうか!?」

「野生の胡桃を、すぐに調理したんだろう? 手間がかかっただろうに」

「くるみの食べ方は、ちゃんと勉強していたんだ」

 胸を張るモモに、瞳を細めて。サワタリは不意に、モモの腕を掴んだ。

「あっ!」

「痛そうだな」

 後ろに隠していた手は、易々とサワタリの眼前に曝されている。モモの指は真っ黒だった。そのせいで判りにくいが──サワタリにはばれているだろう。黒い汚れの下の皮膚が、爛れていることに。

「生の胡桃の果実を、手袋もせずに剥いたな」

「だいじょうぶなんだ。このくらい、ご主人のけがに比べればなんでもない」

「……、」

「ごっ、ご主人、なに、するんだ!?」

 サワタリは片膝をつき、モモの両手を、かれの大きな両手で包みこんで。その指先に、唇を押しあてた。

「口に、黒いのが着くぞ!」

「ちゃんと薬草を塗っておけよ」

 キスを落とした指先を、いたわるよう撫でるものだから。モモはこくこくと頷く。腰がひけているのに、またご主人は笑っている。離して、離してと眼を瞑っていると、ふっと手が軽くなった。

 どくどくと、すごい音がしている。心臓が耳のすぐ近くにとびあがったみたいだ。

 そんなモモのことなど気に留めた様子もなく、サワタリは体をひねり、ザックに片腕を突っこんでいる。かれは小さな瓶を取りだし、封を切った。

 あぐらをかいたサワタリの隣りに、モモも座る。

「お酒か?」

「酒のつまみに、この、塩のきいた胡桃が最高なんだ」

 うまそうに酒を飲み、鍋からくるみを摘まんでは口に放りこんでいる。すごい、ご主人、ご機嫌だ。

「ほんとうに、ご主人は胡桃が大好物なんだな」

「そう云った」

 旅路に、酒は貴重なものだった。事実、今まで封を切らず、大切に持っていたものを、開けてしまった。モモはぎゅっと、指を組む。くるみにかぶれた指は、真っ黒でひりひりと痛い。けれど、そんなことは気持ちの端にも引っかからない。うまそうに、とびきりの上機嫌で、モモの採ってきたくるみを食べてくれるご主人を見ていると、満足感でいっぱいだった。

「胡桃の木は、近くにあるのか?」

「すぐ、向かいだ。川の向こうの、あの木」

「ああ──まだ実がなっているな」

「とってこようか?」

 サワタリが頷く。

「二日くらい干しておけば、保存食になるけど……」

「いいな。しばらく毎日胡桃が食える」

「塩も使うぞ」

「あれを取ってこい、モモ。果実を剥くのは俺がやる」

 身を乗りだし、川向こうのくるみの木を見つめるサワタリに、モモは笑ってしまった。

「こんなご主人、はじめてだ」

「そうか? 俺はわりに、おまえに甘えていると思うが」

「あ、甘え……っ!?」

 驚倒する。おれはご主人にべったり甘えている自覚があるけれども、その逆はひとかけらも想像できない。

「この休息だってそうだろう。おまえは自分をだしにして、俺を休ませてくれた」

 サワタリの大きな手に、髪を撫でられる。

「実際、視野が狭まっていたことを実感した。適度な休息を摂るほうが、結果的に距離を稼げる。そんなことすら忘れるほど、余裕を失っていた」

 おれの手でとってきたくるみを、ご主人に食べてほしかっただけなのに。ご主人はうまいといって、いっぱいの笑顔で食べてくれたばかりか、元気になってくれた。──比喩でなく。

 くるみを天日干しするため、モモたちは二日ほど小川の傍にとどまったが、それも良い休息となったらしい。安静にしたことで、繰りかえし開いていた傷口も塞がり、体力も回復した。思っていた以上に、山岳の旅はサワタリの体力を、そして精神を削っていたらしい。保存が効くよう手を加えたくるみは、小さな袋にしまわれ、夕食の終わりに取りだされた。毎日うれしそうにくるみを食べるサワタリに、モモの方が何倍もうれしくなっていることを、ご主人は知っているのだろうか。そうしてふたりは、悪路も悪天も凶悪な魔物の襲撃も、凌ぎきったのだ。

 延々と続く森林が、不意に開けた。モモは飛ぶ。木の切り倒された形跡があり──奥には小屋まであった。

「ご主人、人がいる」

 人の棲まぬ山脈に、いきなり現れた人の気配である。興奮するモモをなだめるよう、サワタリはミルキーベージュの背を撫でる。

「炭焼きの痕だな。時期的に、職人はもう去っている」

「炭焼き?」

 サワタリはモモを肩に載せ、開けた地面を歩く。──と、小さな黒い山が見えた。よく見ると、中心に一本の大きな丸太が立っており、その周りに円錐状に木材が積み立てられている。更に周囲は土と灰で塗り固められ──遠目に、黒い小山に見えたのだ。

「こうやって、木材を蒸し焼きにし、木炭をつくる。炭焼き職人は、森の周縁部を移動しながら仕事をし、できあがった木炭を職人の町へと運んでいる」

「職人の町!」

 サワタリはうなずく。

「ジルの棲む町だ」

「もうすぐ、着くんだな」

 ご主人はゆっくりと、発音した。斜め十字山脈にある、職人の町──ウトゥラガトス・ニドム、という名を。

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