6th. 薬師の庵

 森の中の庵に住む人は、ドロシーと名乗った。

 地面に眼を凝らしかろうじて見えた獣道、その終点にあった粗末な庵。臭いをたどっていったさきで、辛く苦しい悲鳴を聞き、モモが駆けつけた時。彼女は血まみれでベッドに倒れていた。 

 自分で自分の人工流産の処置をしたという。薬と器具を使った凄絶な堕胎は、彼女の体を限りなく痛めつけた。これも彼女があらかじめ用意していた、処置後の薬がなければ、既に彼女の命はなかったろう。

 そして、今なお、彼女の容態は予断を許さない。

 モモは彼女の臥したベッドにつききりで看護をした。幸い──というべきかは迷うところだが、彼女の意識は清明で、モモは彼女の指示に従い、適宜薬を調合することができた。幸いと云いきれないのは、意識がはっきりとしているがゆえに、彼女を蝕む痛みから逃れられないからだ。拭いても拭いても脂汗で体中が濡れ、呼吸は浅く、彼女はベッドの中で何度も身を捩った。身悶えし、痛みに声をあげることもしばしばだった。

「また、熱があがったみたいだ」

 ドロシーの首に手のひらを当て、モモはつぶやく。彼女は笑って、じゃあ熱冷ましの薬を作ろうと云う。

 窓辺に置かれた机は、その広大な面積を押しつぶすよう、びっしりと器具が並んでいた。様々な形と大きさをしたガラス瓶、鉢、水差し、やすり、へら、ハンマー……挙げていったらきりがない。加えて、精錬炉や蒸留器、濾過器といった機材も部屋中に設えられている。更に豊富なのが、薬の材料である。天井まである棚は、薬箪笥というらしい。小さな引き出しが数えきれないくらい並んでいて、そこにそれぞれの材料にとって最適な状態で保存されているのだ。ケイヒ、クコシ、レンギョウ、シコンといった植物質のものから、牛の胆石、亀の甲羅、ロバの膠、水蛭、貝殻といった動物質のもの、孔雀石、緑礬、石灰石、辰砂といった鉱物質のものまで──これもとても全て列挙することはできない。──そもそも、モモが知っているのは「薬草」という呼称のとおり、植物質ものだけだった。動物や鉱物が薬の原料になることを、モモは彼女に教わった。

 ドロシーは、天才的な薬師だったのだ。

 薬師になりたいからと──だけれど、女は学問ができないからと、町を飛びだし、『魔女』と呼ばれた薬の師の弟子となった。やがて師匠が死に、薬学の粋ともいえるこの庵を受けつぎ、彼女は日々研究に明け暮れていた──町からやってくる、レイプ魔たちに屈することもなく。

 そう、ここにも男たちはやって来たのだ。『魔女の秘術』──彼女の薬による治療を求めて来る者もいたが、彼女を強姦するために来る者の方が多い状態であったという。彼女は自分で作った避妊薬を飲んでいたが、止むことのないレイプで、ついに妊娠させられた。そして──また自ら作った薬で堕胎し、死に瀕するほどの重体に陥っている。

 それでも彼女は、薬を作りたがった。既に起きあがれないため、作業はモモが代行した。重体である彼女自身に用いる薬。それから、なんと彼女は、サワタリのけがも診て、その治療薬までも作ってくれたのだ。その薬の効果は絶大なもので、縫うほどの傷口がたった二日でぴったりとふさがり、快癒していた。失われた体力が戻った日数は更に短く、サワタリはもう何の制限もなく動ける。天才薬師。──もしもドロシーが女でなければ、町どころか世界でも名を馳せるほどの頭脳と技術であることは間違いない。女だから……ただ、女であるというだけで、こんな不遇に貶められ、あまつさえ死にかけている。

「ねえ、モモは看護師なの?」

 男って看護みたいなこと嫌がってしないじゃない。あんたは全然嫌がらないから、ふしぎに思っていたの。苦しい息の中、彼女が懸命に紡ぐ言葉に、モモはつとめて明るく返事をする。

「ご主人が、おれに薬草の管理をしろと云ってくれたんだ。おれの体に合うように、薬草袋をポーチにつくりかえることまでしてくれたんだぞ」

「返事になっていないよ」

「ドロシーがおれに、薬のことを教えてくれるの、うれしいってことだ。色んな道具と色んな材料で薬をつくるの、勉強になる」

「勉強か……私も、もっと勉強したかったな」

 ぎゅっと奥歯を噛む。もう勉強できないみたいに、ドロシーは云う。

「あのね、モモ。私の師匠は、秘薬パナケイアを求めていた」

「パナケイア?」

「万病に効くという、伝説の薬。ありとあらゆる病いを、けがを癒やす。猛毒を一瞬で消し、失われた手足や臓器でさえ再生させる。パナケイアは、薬師が誰しも精製を夢みる薬なんだ」

「ドロシーも、パナケイアを作りたくて、研究しているのか?」

 彼女は首を振る。

「万能薬なんて、ないんだ。四元素を理解し、何が不足し、何が超過しているのを見極める。不足分を補う、超過分を減ずる。バランスを整えるんだね。そのために効能を研究する。補う、減ずる、その効能をいかに純化できるか。薬をつくる楽しさはそこにある。万能薬を求めるんじゃなく、薬の大四元素理論を完成させることが、私の夢だった。時間だよ、モモ。生理的時間の概念を取り入れれば、必ず完成にたどり着ける筈なのに……」

「むずかしいはなしだ」

 弾む息で、彼女は笑う。薬の話しをする時の彼女は、楽しそうだった。泣きたくなるくらい、懸命に声を押しだす。モモは一生懸命に聞いた。難しい話しばかりだった。でも、彼女の言葉はぜんぶ、ぜんぶ、耳にのみこんだ。

 やがて、彼女の容態は末期をむかえた。清明だった意識も濁り、朦朧としながらも、彼女は痛みに身を捩る。暴れて傷つかぬよう、彼女の体を押さえつけ、毛布でくるむ。彼女に聞いて覚え、拙くも作った鎮静の薬を飲ませ、少しだけ落ち着いた時。ふわりと背中があたたかくなった。

「ご主人」

 背中から抱きしめられたのは、一瞬だった。振り向いた時には、サワタリはモッズコートを翻し、庵の戸を押し開けていた。

 モモは椅子を飛び降り、後を追った。

「町へ、行ってくる」

 橋のたもとの下町。そこに棲む男達は、この庵を『公衆便所』と呼び、誰しも一度は訪れ、レイプを愉しむアトラクションとして扱った。

「ご主人、ナイフは」

「使いきってしまうだろうな」

 残りのすべてのナイフを使って──サワタリは男を殺す。

「おまえはここで待っていろ、モモ」

「それは、命令か?」

「命令だ」

「……はい、ご主人」

 モモは顔をうつむけ、踵を返す。ご主人の体温が遠のく。振り向かない。庵に戻って、ドロシーの看護をつづけないと。彼女はもう……。

 とぼとぼと庵へと歩む。モモは瞬く。視線。見つめていた地面から、空へ。空へと消えてゆくように思えた情景は、だが屋根にとどまっていた。

 モモは音をたて、魔物のすがたになる。飛行していた──屋根の上へ。彼女は、振りかえらなかった。最初からモモを(おれたちを──)見ていたのだから。

「変げのスキル持ちか。その歳で、珍しいな」

 しかも魔物に化けるとは。そう云って微笑んだ──華やかに微笑んだのは、背の高い女性だった。

 艶やかな黒髪を結い上げた女は、豊満な体の線をあらわにしている。胸と腰を覆うのは宝石の粒を綴ったもので、彼女の動きに合わせしゃらしゃらと輝く。虹のように煌めく宝石の服──というには体を覆う面積が少なすぎるが──と対称的に、右の肩に近い位置に嵌められた腕輪は、白一色で装飾もなく、つるりとしていて、なぜかひときわ眼を惹いた。彼女はその腕──うつくしく筋肉のついた腕に、ドロシーを抱いていた。毛布にくるまれたドロシーが、ベッドに臥していた時よりもずっとらくに呼吸をしていることに気づき、モモは──やはり、どうしても警戒心を持てない。

「あんたは、誰だ。ドロシーをどうする気だ」

「おまえは、女がどれほど死んでいるか知っているか?」

 堂々として強い──女の声が糾弾する。

「強姦されては死ぬ。子を産まされては死ぬ。肉体的に精神的に陵辱された女は、自死することも多い。加えて、男は口実をつけては女を死なす。町でどれほど陰惨な処刑があったか。加害性のかたまりたる男のおかげで、この世から女が激減している」

 おれを──幼い男児を虐げたという口実で、おれのお姉ちゃんと妹たちは、罰として兵士たちに輪姦され、あげく磔の死刑にされた。六人ともみんな、死んだ──殺された。その時の気持ちが、ぶわっと噴きだして。モモは小さな腕を、自身の体に巻きつけた。

「この女も死にかけている。男のせいで」

 艶然と笑う女が、とびきりうつくしいことに、モモは今頃気づいた。美女はドロシーを大切そうに抱いて、眼を細める。

「わたしはわたしの姉妹を助けたい。だから、連れてゆく」

「どこに、と訊いても、教えてくれないんだろうな」

 自分自身に云い聞かせるよう、モモは云った。その時だった。

「……モモ。モモ、あんた、そこにいるの?」

「ドロシー!」

 女の腕の中で、ドロシーが顔をあげる。女はドロシーの顔がモモに向くよう、彼女を優しく抱きなおす。

「意識が戻ったのか! よかった……」

「でも、もう、眼が見えないの」

「ここにいる。おれ、ここにいるぞ、ドロシー」

「最後に、あんたに会えてよかった。私……この人と行くよ」

「……うん」

「あんたたちは男なのに、私に優しくしてくれた。ありがとう、ありがとう……っ」

 恩返しにもならないけれど、と彼女は云い募る。

「あの庵、モモにゆずる。薬の材料も、道具も設備も、全部あんたのもんにして」

「うん、ありがとう」

 ほんとうは、旅人であるおれに庵など必要ない。それはドロシーにも判っているのだろう。彼女は涙をこぼしながら云う。

「ごめんね、私が持っているものって、あれだけなんだ。でもね、宝物なんだよ。私の研究の全部が詰まった庵。宝物を、モモにあげる」

「どうか……どうか、健やかに、ドロシー」

 そこで、限界だったのだろう。彼女の首が折れた。力強い腕で、昏倒したドロシーを抱き支えた女は、愛しげに彼女の額にくちびるを押しあてる。

「強い姉妹おんなだ」

 ふわっと、水の匂いがした。同時に、白い霧が噴きだしてきて、モモは瞬く。

「姉妹のねがいは、叶えたくなる」

 彼女はなんと、片腕でドロシーを抱いていた。女にしては信じられないくらい力強い腕で、易々と抱き支えたまま、彼女は片手を腕にやる。

 そこに嵌められているのは、白一色の腕輪。その腕輪に触れ、ジャンヌは囁く。

「叶えてくれるか?」

 霧のなかに、おぼろにうかんだシルエットに戦慄する。輝く青い鱗──水竜アークアドラゴンだ。では、彼女はテイマーか。だが、竜のような強大な魔物が従魔になるなど、ありえない──それこそ、サクラ・パシェンスの賢聖クラスでもなければ調教できまい。しかも、彼女は女性だ。そも女性はこうして自由に外を闊歩することは禁じられている。当然冒険者になることも、テイマーになることもできない……。

「そこの、魔物に化けた男。モモといったか?」

 混乱のまま、モモはうなずく。おれの名前がモモというのは、ほんとうのことだ。

「彼女の庵は、おまえのものになった。おまえ以外の者は、入るどころか見ることも触れることもできない。おまえと、おまえにゆるされた者のみが、その庵に干渉することができる」

 瞬きを繰りかえすモモを、面白そうに眺めて。不意に、彼女は背を向ける。しゃらしゃらと宝石が鳴る。ドロシーを抱いたまま、水竜の背に跨がった。ふわりと、竜が飛びたつ。天を翔けゆくすがたは、ため息がでるほど優美だった。

「モモ、どこにいる」

「! ご主人!」

 そうして、ご主人に現実に引き戻してもらわなかったら、おれはいつまでも彼女たちが翔けていった情景を見つめていたのだろう。

「ドロシーもいないな」

 モモは屋根から降り、ご主人の肩にとまる。

「ドロシーは、連れていかれてしまった」

 そこで、僅かに表情を変えたサワタリに、モモは微笑んだ。

「夢へと」

「夢?」

「夢のような感じだった。だから──たぶん、ドロシーは、だいじょうぶなんだ」

「……」

 このままモモが看護をつづけても、ドロシーの命は失われていた。だから、水竜を伴った彼女が来てくれたことは、きっと奇跡の類いなのだ。あのうつくしく逞しい女は、ドロシーを抱き安息の地へと連れていった……。

「おまえを信じよう」

「うん……」

 ご主人の頬に、頬をすりよせる。血が臭って、眼を閉じる。サワタリはたもとの下町で、いったい何人の──何十人の男を殺害してきたのだろう。あの陰惨なやりかたで。

「ご主人、けがはしていないか?」

「していると思うか?」

 修道騎士相手ならばいざ知らず、サワタリがそこらの兵士や冒険者を相手に後れを取ることなどありえない。一方的な殺戮であったのだろう──いつもどおり。

「それなら、このまま旅だつのだろうか」

「おまえに、心残りがあるのならば──」

「命令してくれ」

「……、」

 サワタリが、ふっとわらう。

「行くぞ、モモ」

「はい、ご主人」

 モモはもう空を見ない。夢の、奇跡の情景に消えたドロシーを忘れて。サワタリの傍へ飛ぶ。かれの肩にとまって、かれの視線に、視線を重ねた。



 現場は、酸鼻を極めた。

 現場──といって、その範囲は広い。橋梁の寨から、下町の酒場や宿にいたるまで。方々で殺人が行われていた。

 被害者は、両腕と両足を付け根から切り落とされている。その切り口からは、薬の匂いがした。おそらく薬草をナイフに塗布しているのだ。であるから、被害者は出血やショックで一息に死ぬこともできず、長く苦しむ。

(口内を犯されて)

 犯されて、という表現は合っているのだと思う。太い杭のようなナイフを、口いっぱいに頬ばらされ、その先端に喉を苛まれる。嘔吐反射で吐こうとしても吐けず、苦しみに苦しんで死なされる。

 手口は、全く同一だ──プロスペルムの町で見たものと。

「……主の御心のままに」

 かれは手を胸にあて、一礼する。端麗な礼は、惨殺された死者への弔いでもなければ、喩えばかれが今向く、東のかの大神殿へ捧げるものでもなかった。

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