17th. きみは聞いてくれるだろうか

 北の寒冷な土地にある。短い夏の季節以外は、朝の仕事が雪かきからはじまる、ありふれた町。そこでモモは産まれ、育った。

「わしは、席を外そう」

 モモが話しはじめた時、ガリレオはそう云い、安楽椅子を立ちかけた。

「教授にも聞いてほしい。だめか?」

 だが、モモにそう云われ、かれは再び腰をおろした。安楽椅子ごと、置物になったよう気配を消したガリレオが、羨ましかった。俺はとても気配を消せそうにない。思いが溢れて、だめで、苦しそうに話すモモを抱きしめていたくて──見ていたくて。

 そんなサワタリの胸に頬をよせて。瞳を伏せ、モモは言葉を、記憶を、声にする。それはどこまでも、サワタリに向けられていた。サワタリに聞いてほしくて、モモは喉を、胸を使う。

「おれには、三人の姉と三人の妹がいた。きょうだいのなかで、男はおれだけだった。だから──ご飯は、お姉ちゃんや妹たちの、何倍も食べさせられた」

 俺と父の器に盛られた飯も、母と姉の器に盛られた飯の、三倍はあったな、と遠い記憶が頭をかすめる。

「ご飯だけじゃない。着るものも、持ちものも、おれには何でも与えられた。お姉ちゃんと妹たちは、おれより先に風呂に入っただけで、棒で叩かれていた。おれは学校から帰ってきたら、外で自由に遊べた。けれどお姉ちゃんたちは、学校どころか外にも出られず、家の中に閉じこめられて、休む間もなく働かされていた。雪かきをして、ご飯をつくって、洗濯をして、掃除をして、縫い物をして、まだ赤ちゃんの妹や、歩けないお姉ちゃんのお世話をしていた。どうしてってお父さんに訊いたら、おれは男で、お姉ちゃんたちは女だからって云われた。判らなかった。お姉ちゃんたちは痩せこけて、疲れて、黄色い顔をしていた。おれが判ったのは、お姉ちゃんたちがつらそうだって、くるしそうだってことだった。七歳の時だった。おれはご飯のあと、台所に行った。お姉ちゃんに、おれが使った分のお皿を洗うって云った。そしたら──叩かれた」

 モモは両手で、腹を押さえる。──腹を、殴られたのか。

「次の日も台所に行った。お皿を洗うって云ったら、叩かれて、蹴られた。次の日も、次の日も台所に行った。叩かれて、蹴られて、つねられて、引っ掻かれて、物を投げつけられて……お姉ちゃんも妹も、みんなでおれの腹を叩いた。蹴るのも、つねるのも、引っ掻くのも、物を投げつけるのも、全部お腹だった。だから、いくらけがをしてもお父さんにはばれなかった。時々吐いたけど、便所までがまんできたから、やっぱりばれなかった」

 サワタリは、腹を押さえるモモの手に、手を重ねる。モモの手は冷えきっていた。

「歩けないお姉ちゃんが、いちばん叩いた。妹たちが、お父さんが使う棒を持ってきた。それを握って、這いずって、お姉ちゃんはおれの腹を潰した。鬼のような顔をして、叫んでいた。あんたが学校に行っている間、あたしはお父さんに強姦された。妊娠させられて、あんたを産まされて、育てさせられた。痛かった気持ち悪かった死にたかった死んでよ気持ち悪いあんたなんかあんたなんかあんたなんか」

 モモの手が、躊躇いがちに動く。手のひらが上になり、かぶさるサワタリの手を受けとめる。

「歩けないお姉ちゃんは、おれのせいで歩けなくなったんだ。おれを産んだ時、まだ十二歳だった。小さな子どもの体だったから、赤ちゃんが出てくるとき、押しつぶされた大腸が、破裂した。産後も、血が止まらなかった。それからずっと──十九歳になっても、おむつをしていた。おむつの中を血で真っ赤にしながら、おれの腹を叩いた。お父さんが、お姉ちゃんを強姦して、産まされた赤ちゃんが、おれだった」

 手指が絡まる。サワタリからとも、モモからとも、どちらからともなく。合わせた手の、指を絡め合う。

「お姉ちゃんと妹たちがおれを叩くのは、台所でだけだった。台所に、お父さんは入らないから。おれが台所に行けば、ばれることはないって思っていたけど……。妹がお父さんに無断で外出した日、お父さんは妹を叩くため、棒を捜した。捜したんだ。棒は、台所にあった。お父さんはその時は、何も云わなかった。けれど──翌日。お父さんは台所の窓の外に立って、見張っていた。のこのこと台所に行ったおれが、お姉ちゃんと妹たちに叩かれるのを、お父さんは見ていた。お父さんは激怒した。お姉ちゃんたちを叩いて、髪を掴んで、壁に打ちつけて……男のふるう暴力に、お姉ちゃんたちは泣きながら、毎日おれを台所で叩いていたことを、云ってしまったんだ」

 指をからめても、体温が混じらない。モモの手は冷たいまま。

「お父さんは屯所に通報した。兵士がやってきて、お姉ちゃんたちをつれていった。処刑は三日後だった。男児を虐待した罪で、女が六人、死刑になった。お姉ちゃんたちも、妹たちも、はりつけにされていた。裸だった。歩けないお姉ちゃんだけじゃなく、赤ちゃんの妹も、みんな、股から血が出ていた。男の人たちが、大勢見に来ていた。笑っていた。おれの学校の友達も来ていた。笑っていた。おれは吐いた。お姉ちゃんたちにお腹を叩かれた時より、たくさん吐いた」

 もういい、と云いたくなった。もう話さなくていい。だが、モモの眼はサワタリを見つめていた。黒い、大きな瞳。少しぼんやりしているが、泣いてはいない。

「家に帰って、台所に行った。お母さんが一人で座っていた。お母さんは、おれを見てにこにこ笑った。ご飯をお茶碗に盛ってくれるときと同じ笑顔をうかべて、云った。人殺し、って」

 男の子はたくさん食べないとね。男の子はお手伝いなんかしないでいいの。男の子はやんちゃなくらいがいいのよって、にこにこ笑う時と、同じ笑顔で。

「女は殺されても数えてもらえないのよ。人ってね、男のことを云うの。男が殺されたら、兵士たちは大騒ぎ。だけれど、女が殺されても笑って囃される。あなたのお姉ちゃんたちも、妹たちも、あんなに無残な殺されかたをしたのに、笑って囃されたでしょう。だからね、お母さんが数えるの。あたしの可愛い娘が六人殺された。──おまえは女を六人殺した、人殺しの魔物だよ」

 神さえも女を人と数えない。なれど魔物は、男も女も平等に食い殺す。女を人として扱うのが、世界で魔物だけだというのならば──おまえは。

「おまえは女を六人殺した、人殺しの魔物だよ。お母さんは、毎日おれにそう云った。おまえは女を六人殺した、人殺しの魔物だよ。にこにこ笑いながら繰りかえした。おまえは女を六人殺した、人殺しの魔物だよ。何百回か、何千回か判らない。おまえは女を六人殺した、人殺しの魔物だよ。何百回目か、何千回目か、云われた瞬間、おれは音をたてていた。お母さんが悲鳴をあげた。お父さんが棒を持って走ってきた。おれを見て、驚いていた。なんで家に魔物がいるんだって喚いて、棒をおれに突き刺した。痛かった。毛だらけの腕に、皮が生えていて、そこに棒が突き刺さっていた。鏡を見た。小さな醜い魔物が映っていた。おれは本当の魔物になっていたんだ。お父さんは棒におれを突き刺したまま、外に飛びだした。お父さんの叫び声で、町の男たちが走ってきた。兵士や冒険者を呼ぶまでもない、俺たちが退治してやるって、男たちはおれを、棒で滅多打ちにした。それを──お母さんが見ていた。玄関から顔だけ覗かせて、見ていた。にこにこ笑っていた。殺されるおれを見て、にこにこ、笑っていた」

 モモは、そこで。ふんわりと微笑んだ。

「それで、……それで、やっと云えた。おれ、産まれてきて、ごめんなさいって」

 産まれてきたくて産まれたわけじゃない。どうしておれをこの世に産んだの。おれはおれが気持ち悪い。おれはおれを嫌う。産まれたくなかった。お姉ちゃんを妹をお母さんを苦しめるために産まれさせられて、うれしいわけない、いやだった、いやだったいやだったいやだった死にたいくらい。

「男たちはおれの死骸を町の外に捨てた。それで終わりのはずだった。けれど、おれ、生きてた。雪の中で眼を覚ましたんだ。それで、叩かれて気絶していた間に、人であった時の記憶を、全部失っていた。でも、自分は産まれたくなかった、死にたい、死ぬからどうかゆるしてください、っていうことだけ、それだけ、覚えていた。だから絶食した。人であった時の記憶がない──自分は魔物だって思いこんでいたから、人を食わなかったら魔物は死ぬって、死ねるって思って。それで、実際死にかけて──寸前で、あの人に出会ったんだ」

 賢聖ソロモンとの──運命的な出会い。

「ソロモンさまと従魔たちを見ていて、おれ、胸がぎゅうってなった。従魔たちは、いつもソロモンさまの傍にいて、ソロモンさまのお役に立てるよう、頑張っていた。ソロモンさまから、ごくろうって、仕事をねぎらわれると、しあわせになっていた。魔物でも生きていていいんだって。存在、を、ゆるされていて。泣きそうになった。うらやましかった。おれもそうなりたいって思った。魔物だけど、魔物のくせに、ソロモンさまに……人に求められたいって、思った……」

 そして、モモは人の従魔になりたいと決意する。

 ソロモンに憧れ、だがその従魔になることは叶わず、モモの従魔になりたいという気持ちは、圧倒的なものになった。それは、死にたいというかれの原初の思いを上回ったのだ。モモの行動原理はそこにあり──幾度幾度拒まれても、或いは暴力に遭ってさえ、かれは人の従魔になることを諦めなかった。ついに『従魔の珠』を手に入れ、契約を果たすほどに。

「ソロモンさま……」

 ぽつりとモモが呟く。雪の都の、黄金の人。

「ソロモンさまと再会して……ソロモンさまはおれのことなんか覚えてなかったけど、でも、おれは覚えてて。だから……あの頃から、おれはちょっとずつ、思いだしていたんだ」

 首をかたむけ、モモは瞬く。

「思いだす、ということも意識していなかった。ソロモンさまに初めて会った時、おれは雪の中で死にかけていた。なんで死のうとしていたんだろう、って考えると、心にぱらぱらと──記憶の破片みたいなものが舞った。ご飯を大盛りにしたお茶碗。お姉ちゃんや妹の黄色い顔。叩かれたお腹の痛み……そういう、人であった時の記憶が頭の中をぱらぱらして。それで、あのフリジディの町で、父親に犯されて妊娠した女の子を見た瞬間、一気に思いだしたんだ」

 おれは魔物ではなく、人間だった。魔物が人間に化けていたのではなく、人間が魔物に化けていた……。

「ガリレオ教授の云うとおりなんだ。おれ、判っていた。サクラ・パシェンスでソロモンさまに再会した時から、判ってた……」

 云わずに、いられなかった。

「なぜそれを、俺に云わなかった」

 モモの眼は、ひたすらにサワタリだけを見つめている。

「云えない」

 抱きしめたモモの体温が、胸にしみる。しみて──痛い。

「ご主人は、おれにりんごの飴を買ってくれた」

 胸が、痛い。これほど痛い。

「ご主人のこと、嫌いだと云った。役立たずのくせに、酷いことをたくさん云った。それなのに、ご主人はおれに……優しくしてくれた。けがをしたら手当てをしてくれた。寒い時は服のなかに入れてくれた。一緒に玉を探した。流氷の上を歩いた。ご主人に優しくされながら、知らない景色の中を旅した。たまらなく楽しかった。おれ、おれは、ご主人の従魔になれて、幸福、だった。一度捨てられた時、死にたくなった。でも、ご主人はおれのところに戻ってきてくれた。ただいまって云ってくれた。幸福だった。もう一回捨てられたら──もう、だめなんだ。もともと死にたかった。産まれてきちゃだめな赤ちゃんだった。でも、ご主人はおれを従魔にしてくれた。ご主人に抱かれるたび、おれはちょっと泣くんだ。おれはご主人と離れたら生きられない、生きたくない」

 俺はナイフが使える。人の体のどこをどう切れば痛むのかをよく知っている。それでも、一番痛いところを、一番痛むやりかたで切っても、これほど、痛くなるものか。

「ご主人と一緒に旅ができたのは、おれが従魔だったからだ。おれが、魔物だったからだ。おれは本当は魔物じゃなくて、魔物に化けているだけの人間だって、云えないよ」

「もしも」

 噛んだ奥歯の隙間から、息を吸う。

「もしも、おまえが人だったとしても、魔物でなかったとしても、俺の傍にいてほしいと云ったら、どうする?」

「そんな夢はみない」

 モモは言下に云った。

「ご主人は、人間の男を殺すものだ。おれは父が娘を強姦し、妊娠させ、産ませた子だ。お姉ちゃんや妹たちよりもたくさんご飯をもらって、お姉ちゃんや妹たちが行けなかった学校に行っていた。おれを産んだお姉ちゃんは、大腸を潰されて、歩けなくなった。おれのせいで、お姉ちゃんと妹たちは、兵士たちにレイプされ、磔にされ殺された。……ほら、おれは、こんなにも女に加害している。ご主人が憎み殺す、女に加害する男の、結晶のようなものだ」

 サワタリは、モモを抱きしめていた。いまだ四肢の冷たいかれを覆うよう、モッズコートのなかに。──モッズコート。その内側には、いたるところにナイフが装備されている。モモの手が、そのなかの一つを抜いた。モモはまるでそうして、ナイフを握るためにサワタリに抱擁されていたとでもいうように。ふわりと身を離すと、ナイフの刃を白い顔に向けた。

「男は、女を加害しても悔いない。おれはふしぎだ。おれは悔いる。お姉ちゃんを、妹を、お母さんを、女たちを加害したことを悔いて、死ぬ。──そしたら、ご主人は一つだけ殺人をしないで済む。それで、ご主人をだまして、たくさんたくさん迷惑をかけたおれに、つぐなわせてください」

 ふわりと微笑んで、モモは。小さな口をめいっぱい開けると、サワタリのナイフをのみこみ、喉を突き破る──。

「やめろ」

 モモが、大きな瞳をサワタリに向ける。

「やめろ、モモ。俺の云うことが聞けないのか?」

 自分の喉をナイフで突き自死をする──その動作が凍りつく。ただ、眼だけが、黒い眼が、サワタリを見ている。

「云うことを聞け。おまえは俺の従魔だろう」

 サワタリは細い手首を掴む。吐きださせた刃を握り、モッズコートのシースに仕舞う。凍りついていたモモが、顔色を変え服を脱ぐ。刃を直に握ったせいで──しかも酷い力で握りこんだせいで、サワタリの手のひらはざっくりと切れていた。モモは脱いだ服で、溢れる血を拭う。血は止まらない。ついにサワタリの手に抱きつき、体ごとで血を止めようとする。……相変わらずだな。止血法は何度か教えただろう。聖都の入院生活では、上手く看護をこなせるものだと思っていたが。慌てると、全部忘れて、ただ必死になる。必死に、体を心をぜんぶささげて、俺に尽くそうとする。

「云い方を、間違えた」

 もしも、と俺は云った。

「おまえ、俺の傍にいろ」

 どうする、と訊き、おまえの決意を強請った。そんな自分が、ゆるせない。

「おまえが人間だろうと、魔物だろうと、おまえは俺の従魔だ」

 即断するのは不誠実なのだろう。おれというものを知り尽くし、おまえというものを知り尽くし、気持ちを、思いを、考えぬいて、そうしてようやく云える言葉なのだろう。だが、十年考えても、百年考えても、俺の考えは変わりそうにない。

「おまえは、俺の従魔だ、モモ」

 綺麗な音がした。何度聞いても、喩えが判らない。どんな楽器のしらべにも、水の音も風の音もかなわぬ、綺麗な音。

「モモ、おまえ」

「ご主人、おれ」

 ミルキーベージュの背中も、白い腹も、ごわごわとした毛皮に覆われている。腕と脚の間に垂れる飛膜。新生児くらいの大きさで、尻尾も体と同じくらい長い。小さな鼻と口は押しつぶされたようぎゅっとしていて。黒い眼ばかりが大きく、ぎょろぎょろと飛びだしている。

「モモ」

「ご主人……っ」

 両腕をひろげると、飛びこんできた。弱くて醜い魔物を、サワタリは抱きしめる。モモはモッズコートのなかにもぐりこんできた。もうナイフに触るなよ、と云うと、うんと答える。胸にしがみついてくるモモを、なかにしまったモッズコートは、不格好に膨らんで。その膨らみを、サワタリは撫でる。なつかしかった。なつかしかった……。

「ご主人は、聞いてくれるだろうか」

「聞いている、ずっと」

「ずっとか」

「ずっとだ」

 モモはモッズコートのなかから、顔だけだす。大きな黒い眼が、サワタリを見あげる。

「おれは、ほんとうは、お父さんとお姉ちゃんの子供だったっていうことより、魔物でなかったことのほうが、苦しかった」

 一つ瞬く。

「ご主人が憎み殺す男であることよりも、ご主人の従魔じゃなくなることのほうが、いやで、だから、ご主人のナイフで死のうと思った」

「……すごいことを云われているような気がする」

「おれは、ご主人よりも、人を口説くのが上手いのかもしれない」

「そうだな、俺よりもおまえのほうが、口説くのが上手いらしい」

 モモの眼から、涙が溢れる。声をあげて、モモは泣きだした。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、しゃくりあげ、声が嗄れてもわんわんと泣きつづける。

 サワタリは片手でかれの背を抱き、もう片方の手で顔を拭く。指にモモの涙がついた。鼻水がついた。サワタリは微笑んでいた。いつかかれが知らず微笑んだ時のよう、今もまた、かれはそれを知らない。



 モモは泣き疲れて眠っていた。

 小さな魔物を、サワタリは膝に抱く。あぐらを掻いた足の上に、モモはまるくなりすやすやと寝息をたてていた。

「……助かる」

 茜色のスライムが、毛布を持ってきてくれた。人の身長ほどもあるスライムは、照れたようにぶるぶると体を揺らす。サワタリは毛布をモモにかけ、その上からあやすよう背を叩く。

 そうしてふたりが寄り添い合うじゅうたんを、じっと見つめている瞳があった。ふさふさの白い眉毛と、深い皺の奥に隠され、細く消えた緑の瞳。

「どこからどうみても、魔物にしか見えぬ」

 サワタリは顔をあげる。ガリレオ教授は、安楽椅子に身をあずけ、静かにモモを──魔物のすがたに戻ったモモを見つめている。

「先刻までは、どこをどう見ても、人にしか見えなんだ」

 給仕のスライムが、ガリレオの膝に乗り、マグカップを差しだしている。ガリレオは受けとらなかった。代わりに、サワタリにもう一杯どうかとすすめる。サワタリも断った。

「変げのスキルは、魔物は持てぬが、人間は持てる。だが、ここまで精度の高い──完璧な変げを為すなど、研鑽を積んだ大魔道士マニャ・ウィザードでも不可能だろう」

「さっきも云ったが。人と魔物以外の、こいつの変げは酷いものだぞ」

「人なのだから、人に化けているわけではない。魔物の方だの。その子は魔物に化けた。その変げは──ソロモン坊やでさえ見抜くことができず、従魔の珠というアイテムの効力をさえ発揮させしめた」

 ソロモンは──たしかに、人に化けたモモを見て、模紋蛾だと断定した。あれほどの賢者が、魔物に化けた人間だと見抜くことはできなかったのだ。従魔の珠も──そうだ。珠玉はモモを魔物と認識したからこそ、サワタリの従魔とする契約を発動させた。

 サクラ・パシェンスの賢聖どころか、アイテムということわりでしか作動しないものさえ欺いた、モモの変げのスキルは……。

「おそろしいの。数多の事理を見てきたわしでさえ、おそろしい。その子のスキルは、そういうものじゃ。人の身には、あまりに酷な力じゃ。帝都の持つ権力。軍部の持つ暴力。否、権力も暴力も、冒険者から市井の人まで、誰もが手に心に持つ。それらが、小さなその子をめぐって、跛行するやもしれぬ」

 人の──男の欲。それがどれほどまであさましくなれるか、サワタリは知っている。

「強すぎる力は、わざわいじゃ。おぬしは、その禍いを引き受ける覚悟があるのかね」

「俺の考えは変わらない」

 サワタリは無表情に答える。

「百年考えても、千年考えても、変わらない」

 ガリレオが、微笑む。

「その子は、おぬしの従魔か」

「俺の母も、母でなく姉だった」

 膝で眠るモモの背を撫でながら、サワタリはつぶやく。

「俺の父が、娘を強姦し、妊娠させ、産ませた子が俺だ。俺は娘と実父の間に産まれた、男の女への性加害のかたまりなんだ──こいつと、同じ」

 モモと俺は、同じ傷を負っていて、だから──フリジディの町で、あの父に犯され、妊娠させられた少女を見て、同じように傷がひらいた。

「こいつには云っていないし、云うつもりもないが」

 ミカンや、とガリレオが呼ぶ。給仕のスライムがぴょんと跳ねた。ミルクティーをおくれ、と命じる主人に、嬉しそうに飛び跳ね、スライムは教授ご所望の飲み物を、安楽椅子の上に運んでいる。

 教授が、もう一度お茶をすすめてくれる。サワタリは今度も頭を下げ断った。

 それではわしだけ、失礼するよ。そう云って、ガリレオは美味そうに紅茶を啜った。

 暖炉の火がぱちぱちとはぜ、安楽椅子でゆったりと紅茶を飲む人がいる。その足もとの、ふかふかのじゅうたんに座り、大切な従魔を膝に抱いている。サワタリは眼を閉じる。なにかが、溢れそうだった。心が水になって、頬を溢れてゆきそうだった。

「おぬしは、その子の話しをすべて聞いた。すべてを知ってなお、傍におぬしがいるかぎり、その子は生きられる」

 サワタリの膝のうえで、モモがもぞと動いた。

「なにを知ることがなくとも、その子はおぬしの傍にいる。そうであるかぎり、おぬしが生きられるように」

 モモは、サワタリの腹に頬をこすりつけている。無意識らしい。眠ったまますり寄ってくるのは、こいつのくせだった。冬の野宿で、町の襤褸宿で、これを抱いて眠ると、サワタリはいつも起こされた。モモは、起きない。安心しきった寝顔を見るたび、眼が覚めるのもわるくないと思う。

 サワタリは、眠っているモモの小さな手に触れる。ほかほかとあたたかい。思わず両手で抱きしめる。また、なにかが溢れそうになった。

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