16th. 隠遁する賢聖

 魔物のすがたに戻れない。では他のものに化けることはできないのか。

 結論としては、できない、だった。つまり、人のすがたに固定されてしまったと云うべきか。モモは人のすがたから、元の魔物のすがたどころか、他の何ものにも化けることができなくなってしまっていた。

 幸い、背中の打撲は快癒した。腎臓が傷ついていたらしく、血尿がしばらく続いたが、血管の断裂など重篤なものでなく、安静にし、血止めの薬草を飲ませたら、ショックの症状はすぐに治まり、軈て歩行をはじめとする動作も問題なくできるようになった。だが──。

「すまない、ご主人」

「聞き飽きた」

「おれ、ご主人に迷惑しかかけない」

「それも聞き飽きたな」

 悄然とし、口をひらけば謝りの言葉がとめどない。モモの背中に軽く触れ、サワタリはコンパスを見る。

 サワタリの旅は、漂流だった。流れるよう漫ろ歩く旅をしかしてこなかったため、このコンパスというものを持ったのは初めてだった。これを使った位置の計測法をギルドで学び──今、サワタリは生まれて初めて、目的のある旅をしている。

 モモをなんとかしてやりたかった。

 魔物のすがたに戻ろうと、何度も何度も試しては失敗し、そのたびに疲労と落胆でしょんぼりと膝を抱えている。モモを見兼ねて、サワタリは思いついたことを実行することにした。

 真実、思いつきだった。『教授』と呼ばれた賢聖の棲まいを訪ねることにしたのだ。

 モモの容態を診てもらう場所として、サクラ・パシェンスが先ず挙がる。むしろそこ以外にないのではないか。なにしろテイマーの都であり、実際医師は人間であるサワタリだけでなく、魔物であるモモの治療も請け負ってくれた。聖都の医師に診せてみる──その選択肢は、だがすぐに消えた。

 モモはモモンガではなく、模紋蛾──伝説の魔物であるという。古書にも殆ど記述がないほどの──モモが変げのスキルを使うことで、はじめてその存在が確認された。つまり原則として、この世に変げのスキルを持つ魔物はいないのである。例外中の例外である変げのスキル、況してその消失について相談したところで、サクラ・パシェンスの医師の手にも余るのは明白だった。

 そこで、サワタリは思いだす。モモが伝説の魔物であることは、賢聖ソロモンに指摘された。賢聖──聖地が誇る、最高位の五人のテイマー。そのうちの一人は、己れの研究の邪魔だと、聖城での暮らしを捨て、聖都さえ出奔し、隠遁したという。魔物の研究について比肩する者はない──世界一の頭脳の持ち主と、一般の冒険者にさえ名の知られた。ガリレオ教授、とソロモンは呼んでいた。そのガリレオ教授であれば、もしやモモの症状について知恵をかしてはくれまいか。

 教授の隠遁先を知っていたのは、幸運だった。ソロモンの雑談のなかに、何度か出てきたのだ。こうなれば、毎日庭園に付き合わされ、怒濤のごとく喋りつづけたソロモンを、鬱陶しがったことを省みる──ことはしないが(あれはやはり鬱陶しかった)。サワタリはギルドの講座を受け、星の位置から現在地と目的地を算出し、コンパスを用いて移動する技術を習得した。なにしろ、ガリレオ教授の棲まいは地図にも載らぬ、僻陬の地にあったので。

「ご主人、これは海か?」

「どう思う?」

「海の匂いがする。でも、雪原みたいだ」

「流氷という」

 海を漂う、凍結した海水の塊。それが海面を覆い、一帯は独特の情景を見せている。雪原とモモは云ったが、それにしては地面のおうとつが激しい。大きさも形も不揃いなブロックが、てんでんに散らばっているとでも云うか。そのくせどのブロックも白一色で、見たこともない景色を描きだしている。

「北天では、海水が氷点下まで冷却される。そうしてできた海氷は、風によって流され──この海をも覆っている」

 サクラ・パシェンスよりも、いくらか南下した場所だった。季節によっては流氷は融け、ただの海となっているため、渡渉が叶う期間は限られている。

「この上を歩くのか?」

「ああ。海に滑り落ちないように気をつけろ。氷の海は一気に体の自由を奪う。沈めば、六分で死ぬぞ」

 物資を詰めたザックは、すべてサワタリが持ち、モモは身軽だった。身軽とはいっても、厳寒に耐えるだけの衣服を着せている。重く動きにくい衣服で、おそるおそる流氷に足を乗せているモモを見守りながら、サワタリも歩きだす。

 流氷は、一つ一つが大きい。最大径が十キロメートル以上あるものもあるという。さすがにこの辺りにはそこまで巨大なものはないが、歩行するのは勿論、食事や睡眠をとるための野宿をする土台としては充分だった。装備を充分に整えていたため、氷の上での火熾しも、寝床づくりも、問題はなかった。

 そうして、流氷の上の移動をつづけて、二日めに。

「着いたな」

「あれは……島か?」

 モモはサワタリの手に掴まり、大きな瞳で見つめている。それは、流氷に負けぬくらい真白だった。氷の山といったところだが、上部は尖らず平たい。すっぱりと切り取られたよう平らな上部に対し、側面はごつごつとして険しい。麓を一周するのに何日かかるかというほどに巨大な山には、横穴が開いていた。穴は、緑をしていた。白で塗りたくられた景色に、ぽつんとついた緑は、鮮やかに眼に飛びこんでくる。

「あれが、ガリレオ教授の住まいらしい」

 流氷を伝い歩いてゆくことしか経路がない。氷山の内部。それが都を捨てた賢聖──偉大なる頭脳を持つガリレオ教授の隠棲先だった。

 サワタリとモモは、流氷から飛び降りる。氷山に穿たれた洞窟の底は、海面よりも下だった。

「すごいぞ、花がたくさん咲いている」

「その白いの──中心が黄色くなっている花には触るな。皮膚につくとかぶれる」

 肉厚の大きな五枚の花弁をつけた野草は──寒さに弱く、その自生地の北限はずっと南だ。ほかにも、温暖な地域でしか見られない草花が繁茂し、洞窟の床を彩っている。

 サワタリはモッズコートの内側に手を入れ、慎重に周囲を見渡す。洞窟の床は草花で溢れているが、壁や天井は剥きだしの氷である。ここは、間違いなく氷山の内部なのだ。

「……、」

 天井と壁の境目──洞窟なのだから、そうはっきり云えるほどの境界などはないが──に視線を留める。何かが動いた。眼を凝らす。透明でゼリー状をしたものが、ぷるぷると動き──サワタリの視線から逃れるよう、洞窟の奥へと這いずっている。

「おぬしほどの腕の持ち主が、スライムなどに全霊の殺気を向けなくとも良いじゃろう」

 サワタリははっと構える。上に向けていた視線を、素早くおろす。

「こんな老いぼれなどにも……以下略じゃぞ」

 頭も髭も真白な、老人が立っていた。ふさふさの眉毛と深い皺のせいで、眼が殆ど見えない。老人は片手をあげ、「ウドンや、おいで」と云った。とたんに、氷を這っていた魔物がびたんと飛び降り、老人の片手にまとわりついている。

「それは、あなたの従魔か」

「ウドンはのう、来客を教えてくれる。もっとも、来訪者がみな客であれば、こんなスキルを持つこともなかったろうに」

 ゼリー状の魔物は、猫の耳のようなそれを立て、老人の手にこすりつけている。いつかソロモンが両手に抱いていたスライムとは、だが似ても似つかない。ソロモンのスライムは抱えるほどの大きさがあり、醇美なコバルトブルーをしていた。旅中で遭遇する、野良のスライムも色こそくすんでいるが、大きさはそれくらいだ。だが、老人のスライムは人の拳ほどの大きさしかなく、無色だった。もちろん──訪問者を探知し、伝達するというようなスキルも持っていない。

 そんな特殊なスライムを従魔としている──つまり。

「あなたが、ガリレオ教授か。……いや、インクジートル賢聖と呼ぶのだったか」

「おっほっほ。どちらの呼び名も久しいな。おぬし、サクラ・パシェンスから来たか」

「俺はサクラ・パシェンスの者ではない。あの都でこちらの住まいを教えられたが」

「ソロモン坊やじゃな。あやつめ、人がこっそりと住んでいる場所を、ぺらぺらとお喋りしおって」

 恨み言を云う風ではない。若い頃は美声をもてはやされただろう、煌めくような声の持ち主だった。

「なれば、おぬしもガリレオの名で呼びなさい」

 否、年老いてもなお、心が躍るような声で、かれはそう云った。

「ガリレオ教授」

 サワタリは両手を膝にあてる。腰を折り、頭を下げた。

「静かな暮らしを乱してすまない。頼みがあって、訪ねさせてもらった」

「さて、人の言葉を忘れているやもしれぬ、老いぼれに頼みとな」

「せめて、話しを聞いてもらえないだろうか」

「聞きましょうぞ。じゃが、まずは──」

 スライムを懐かせた手とは逆の手を、ガリレオは額にあてる。白髪にまぎれ見えなかったが、そこには青い石があった。──賢聖は、その膨大な力であまたの従魔と契約する。だからピアスではなく、この額の石を媒介とするのだ。

「ガリレオ・ポテ・ストスデレ・インクジートルの名に於いて召喚する。我が調教せし魔よ、我が使役に耐えよ──皆の衆、客人をもてなそうぞ」

 洞窟がさざめいた。咄嗟にサワタリは、モモを抱き寄せる。害意はない。だが凄まじい力が洞窟の隅々までみたしてゆくのは判った。

 洞窟のありとあらゆる場所に、ガリレオの従魔がいるのだ。

「何百……何千という数の」

「なに、今のわしの従魔は、ほぼほぼスライムじゃからな。知ってのとおり、最弱の魔物であるから、ほぼほぼ無限に契約ができるのだよ」

 飄々と笑っているが、そう容易いことでないことは、サワタリでも判る。

「さあ、来なさい。あたたかい暖炉とお茶を用意しておる。そこでゆっくりと、話しを聞きましょうぞ」

 歩きだしたガリレオの後に続き、サワタリも踏みだす。だが──。

「モモ?」

 ぽつんと立ち止まったままの従魔に気づき、振りかえる。モモは大きな瞳を伏せ、俯いている。

「すまない、ご主人。おれのために、こんなところまで来させて、迷惑ばかりかけて……ごめんなさい」

「聞き飽きたと云うのも、いいかげん飽きたぞ」

「それでも……っ。それでも、ご主人はこんなところまで来ることはなかったんだ」

「俺はおまえのためなら何でもする」

 ぎゅっと唇を噛み、もっと俯く。サワタリは数歩戻り、モモの頭を撫でる。

「ご主人は、やさしすぎる」

「おまえを失すのは、二度とごめんだからな」

「おれが、模紋蛾だから? 伝説の魔物……魔物だからか?」

「人を口説くのは苦手だと、おまえ知っているだろう」

 片手を差しだす。モモは躊躇い、けれどこらえきれぬよう、サワタリの手を握る。

 モモの手を引き歩きだす。ふとその眼を下に向ける。洞窟の床に蔓延った草花は、サワタリの靴のかたちにへこんでいたが──間もなくすくりすくりと立ちあがる。

 違う。立てているのだ。先刻の、ガリレオのスライム──拳大のものよりも更に小さい。極小のスライムたちは、緑色をしていた。それらは草花の緑に紛れ走りまわり、せっせと土をやり、水をやっていた。すると折れた茎はぴんと立ちあがり、鮮やかな花を天井に向けるのだ。

 健気な従魔の働く花野を、サワタリは歩く。握ったモモの手は、冷たかった。



 ガリレオの後ろを歩いていく時、幾つもの枝道があった。ひょいと振り向いたガリレオが云うには「むやみに歩きまわるまいぞ。迷子になるからの」。つまり、洞窟内部は無数に枝分かれし、複雑な迷路となっているのだ。そして、枝道の先のスペースは、教授の実験室や観察室として使用されているらしい。自然にできた無数の部屋を、従魔のスキルで快適な研究所にしてしまったというところか。その中でも、居住スペースらしき場所に、サワタリたちは案内されていた。

 そこは、暖炉のある部屋だった。最奥にある赤々と燃える暖炉の前に、安楽椅子がある。その下に敷かれた毛足の長い絨毯は、抜群の手触りをしていて。いつまでも座っていたいと思うほど、心地よかった。ふわふわのじゅうたんに並んで座ったサワタリとモモのまえに、スライムが茶器を運んでくる。

「リクエストはあるかの?」

「こいつには、甘いものをくれ」

「おぬしは?」

 酒、と云いかけて飲みこむ。──どうしてか、ガリレオにはそれが伝わってしまったらしい。スライムが給仕したのは紅茶だった。だが、注がれたのはカップに半分だけである。スライムはぽてぽてとじゅうたんを走ると、棚に飛び乗る。そこから器用に運んできたのは、二つの瓶だった。

 モモのカップには、たっぷりの水飴を。そして、サワタリのカップには酒を注ぎ足す。それで、カップの残り半分を埋めてくれたのだ。

「ありがたい」

 サワタリが思わずつぶやくと、ガリレオが笑った。華やかな声が洞窟に反響し、きらきらと光る。光っているのは氷の壁か、天井か──それとも無数にいるスライムたちか。

「そなたも、飲みなさい」

 両手で膝を抱き、うつむき座っているモモに、ガリレオが声をかける。やはり、心が躍るような声だ。モモも同じように感じたらしい。石のように動かない様子だったものが、カップを両手で持つと、水飴の紅茶をこくんと飲んだ。

 サワタリもカップを傾ける。紅茶で割った酒など初めて飲んだが、意外に美味い。冷えた体の中心がぽっと熱くなり、ため息が漏れた。サワタリとモモから、力が抜けたことを見て。ガリレオは安楽椅子に腰をおろすと、ふたりに顔を向ける。

「あたたかいお茶を飲みながら、ゆっくり話しなさい。なに、うたたねを始めたら、わしのスライムが、この頬をつねって起こしてくれるでな」

 頭をさげて──深く、頭をさげて。それから、サワタリは話しだす。

 自分の名と、モモの名を伝えることから始めた。そして、『従魔の珠』というアイテムを介し、主従契約を結んでいることを。モモは人に見えるが、正体は魔物であるということ。変げへんげという魔物が持ち得ぬ筈のスキルを持つ、伝説の魔物『もん』であると見抜いたのは、サクラ・パシェンスの賢聖ソロモン。一度は、モモとの従魔契約を解除し、賢聖の従魔になるべきだと離れたが、そのことにより不安定になり、心身を弱らせたサワタリは、聖都を再訪し、モモを奪い取りにいったことも、包み隠さず話した。再びサワタリの従魔となったモモと、ふたりの旅路に戻り、リベンジに向かった先で起こったこと。その直後に、モモは魔物のすがたに戻れなくなった。それどころか、人以外の何ものにも化けることができなくなった──変げのスキルを使えなくなってしまったというところまで、丁寧に──言葉の下手な自覚のあるサワタリなりに、丁寧に話した。

 頷き、相づちは打っていたものの──質問などは一切挟まず、サワタリの話しに耳をかたむけていたガリレオは。サワタリが話し終わった時、瞳を閉じていた。うたたね、と軽口を叩いていたが、眠っているわけではないということは、サワタリには判った。思考している。世界一と謳われる頭脳で、思考をしている……。

「模紋蛾が実存する魔物とはの……ソロモン坊やの見たてでもなければ、信じられぬところじゃが」

 やがて、呟くように云って。ガリレオは眼を開いた。

「否や。わしは、わしの眼で見ようぞ」

 ガリレオの眼は、緑色をしていた。眉毛と皺で隠されていた眼が、いっぱいに開かれて。安楽椅子の上から、モモを凝視している。

 モモは、再び小さくなっている。両腕で膝を抱え、背をまるめ、ただでも小さな体を、さらに小さくして。じゅうたんの上にぎゅっとなって座っている。サワタリはその背に手をあてる。ご主人、とかすかな声が聞こえた。サワタリが背を撫でても、モモの強ばりはとけない。かれの前に置かれたカップには、紅茶がたっぷりと残っていた。大好きな甘い飲み物なのに。煌めくようなガリレオの声に誘われてさえ、たった一口しか飲めなかったのだ。

「人に、見える」

 ガリレオの声に、モモの背がびくりと震える。

「わしの眼からは、そなたは、人にしか見えなんだ」

「さっきも云ったが、こいつは模紋蛾なんだ。変げのスキルは、魔物は持たぬというのが定説で、ありえないことのように思われるらしいが。こいつは確かに、人に化けている魔物だ。俺が出会ったのは、魔物のモモンガだった。新生児くらいの大きさで、腕に飛膜のある……。そういうすがたの魔物と、俺はずっと旅をしてきた」

「どこからどうみても、人だの。髪のひとすじから、爪のさきまで、綺麗な人間じゃ」

「兎やナイフに化けた時は不細工なものだったが、人のすがたは完璧に模す。いや──人のすがたというか、このすがたならば、だったか」

「なんと?」

「こいつは、人に化けるとき、このすがた──この顔、この体にしか化けられないんだ。子供や老人に化けようとしてもむりだと云っていた。人のすがたに化けると、必ずこの青年のすがたになるらしい」

 ガリレオが、瞬く。かれの口は噤まれ、しんと沈黙が落ちた。

 不意に、氷の壁と、氷の天井がサワタリの眼に入る。暖炉が燃え、紅茶が湯気をあげる部屋は、しかし洞窟の他の部分と同じく、壁も天井も剥きだしの氷だった。やはり従魔がなにがしかのスキルを使っているのだろう、氷は融けだすどころか、冷たさも感じないが──視覚的な刺激で、白い氷が沈黙を齎しているように思えた。

 冷たい氷のような沈黙。いつまでも固く融けないと思われた沈黙を破る、声は。

「そなたは、魔物のすがたに戻りたいのか?」

 ガリレオの声は、やはり心が躍るよう、美しい。

「戻りたいっ……!」

 一方で、答えるモモの声は、濁っていた。

「戻りたい、戻りたい! おれは人じゃない、モモンガだ!」

 泣き声だった。大きな瞳から、ぼろぼろと涙をこぼして。モモはじゅうたんの上を這いずり、安楽椅子のガリレオの足に、縋る。

「ガリレオ教授は、なおしてくれるか? なおしてくれ! おれがまた、モモンガになれるようにしてくれ! なんでもする、おれ、なんでもするから、おれっ、おれ……っ」

「なぜ、そなたは魔物のすがたに戻りたいのか?」

「おれは従魔だ! ご主人の、サワタリの、従魔だから……っ、だからっ……!」

「──そう思っているかぎり。その思いが強ければ強いほど」

 縋ってくるモモの肩を撫で、ガリレオはつぶやく。

「そなたは、魔物のすがたに帰れまい。人の肉のかたちを、一ミリも変えることはできまい」

「──」

 モモの眼は大きい。だからこそ、よく見えた。

 その眼が、絶望の色にそまってゆくところが、よく、見えた。

「わしはそう思う」

「どうして」

「そなたに、それを答えていいのかね?」

「……っ」

 モモが、安楽椅子から滑り落ちる。じゅうたんの上に、くずれおちる。

「そなたは」

 サワタリは立ちあがり、ぐしゃぐしゃにくずれたモモの傍に膝を折る。

「なぜ魔物に戻れなくなったか──なぜ人のすがたをしかとれなくなったか、そなたこそが判っておるのではないかね」

 そのまま抱きしめようとした手を、サワタリは止める。思わず、ガリレオ教授を振り向いていた。

「モモは、判っている?」

「なに、これもわしがそう思う、というだけのことじゃ」

 ガリレオからモモへと視線を戻す。モモは、震えていた。唇は色をなくし、大きな黒い眼からは、音もなく涙が溢れつづけている。

「……また、冷たくなっているな」

 サワタリは、モモを抱きしめる。なぜ一瞬でもそれを先送りにしたのか。抱きしめた体の、両腕と両足が冷たい。モッズコートをひろげ、中にくるむように。魔物のすがたの時にかれを、ここにしまうように。サワタリはモモを抱きこみ、体温をおしつける。

「あれは、おれなんだ」

 ぼんやりとした声だった。泣き声ではない、かすれてもいない。けれど、ぼんやりとして弱い。

「父親に犯され、女の子のお腹のなかにできた赤ちゃん……あれは、おれなんだ」

「……どういうことか、話せるか?」

 モモが、微笑んだ。サワタリの顔をみあげて、泣きながら、微笑んだ。

「ご主人は、聞いてくれるだろうか」

「聞く」

「どんなことになっても?」

「聞く。どんなことになっても」

 儚く消えてしまいそうな。モモの体を、痛くしないよう気をつけ抱き、とめる。

「どんなことになっても、俺はおまえを二度と、離さない」

「……ご主人」

 そして、モモは云った。

「おれは、人なんだ」

 ふんわりした声だった。甘くて、優しくて、すぐに泣くくせ、こんな風にふんわりとしている。

「モモンガでも、模紋蛾でもない──魔物じゃない。ご主人と同じ、人間なんだ」

 とっくに聞き慣れている、とサワタリは思った。

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