15th. 幼女の妊娠
リベンジ、と云ったサワタリに、モモは首をかしげた。
「りべんじ?」
「俺が殺し損ねた男がいる。その男の殺害から、やりなおしたい」
サワタリの過去の傷をひらいたきっかけ。フラッシュバックやパニックは治まったが、あの男を殺しておかなければ、禍根が残る。
「ご主人が、失敗したのか?」
「云ったろう。おまえがいないと、俺はだめなんだ」
モモは黒い眼をぎょろぎょろと動かし、三つ指でサワタリの肩を掴む。
「おれがいれば、『りべんじ』できるのか」
「できる」
サワタリは綺麗な音を聞いた。同時に、肩がすっと冷えた。隣りを見おろすと、ミルキーベージュの髪がハーフアップに結ばれている。人のすがたに化けたモモは、大きな瞳でサワタリを見あげている。
「ご主人は、人たらしになった」
「は?」
「違った。人たらしじゃない、魔物たらしだ」
「何だと」
モモは頬をごしごしとこすっている。こすると赤くなるぞ、と云うと、とっくに赤い、と云いかえされた。言葉に、言葉がかえってくる。それだけで、心がなにか、やわらかいもので包まれたような気分になる。──ずっと一人で生きてきた俺が、この為体とはと少し笑う。モモが威勢良く歩きだした。フリジディの町の門を兼ねるギルドの建物へと向けて。
モモが人に化けてくれるおかげで、従魔の確認、登録の手続きをスルーできる。ゲートをつつがなく通り抜け、町へ出たサワタリとモモは、いつもどおり物資の補給から始める。荷物を持ちたがるモモに、持たせすぎないように気をつけ(好きに持たせたら、重さに耐えられず転ぶ)、商店街をまわって。それから町の端へと向かう。食堂も、相変わらずスムーズだ。モモが人に見える店主は、ギルドに走ることもなく。二人分の料理をすぐに持ってきてくれた。久しぶりの酒が美味い。モモは魔物のすがたの時も蜜を好んでいたが、人に化けても味覚はそのままらしい。つまり甘い物が好物であり、蜂蜜をたっぷりかけたパンケーキを、美味そうに食べている。意外なことにこの魔物、食べ方はきれいなのだ。魔物のすがたの時は皿に頭を突っこんでいるから、人に化けてもそうなのかと思いきや。当たり前のよう、人らしくスプーンやフォークを使う。
「ご主人も食べたいのか?」
サワタリの視線に気づいたらしい、モモがフォークに突き刺したパンケーキを、サワタリに向ける。口を開けると、甘いものが入ってきた。咀嚼する。やはり、甘い。
酒をついだコップを掴み、喉にながしこむ。それをじっと見つめているモモと眼が合った。
「なんだ?」
「……なんでもない」
「パンケーキをもうひとつ頼もう」
「ちがう」
ぶんぶんと首を振って。モモは、意を決したようサワタリを見あげる。
「ご主人が飲んでいるお酒、飲んでみたい」
「なるほど、そう云いたかったのか。勉強になる」
「ご主人はにぶい」
「おまえもな」
「おれはそうでもない」
「そうか」
モモの方に、コップを向ける。縁に口をつけるモモに合わせ、サワタリはコップを傾ける。こくん、と一口だけ飲んで、モモは微妙な顔をしている。
「毎回そんな顔をするくせに、飲みたがるよな、おまえ」
「それはご主人もだろう」
腹を満たしたところで、あくびが出るほど緩んではいないが(モモは隣りで盛大にあくびをしていた)。食堂の店主に聞いた宿へと向かった。場末の安宿の部屋は、相変わらずの狭さと汚さだったが、モモはベッドに飛びこんでいる。
「ベッド、狭いだろうか」
モモの声は眠たげだった。サワタリは補給した物資をザックに詰めながら、返事をする。
「寝れんほど狭いか」
「寝れないかも。ご主人大きいから……おれ、魔物のすがたに戻った方がいいか……」
どうやらふたりで寝るには──それは人のすがたの方がかさばるので──ベッドが狭いらしい。一瞥し──モモの瞼が完全に閉じているのを見て、サワタリは荷物の整理に戻る。
「そのままで構わない」
「んん……」
荷物の整理が完了したところで、サワタリはモッズコートを脱ぐ。肩と腰に巻いたベルトは外さない。ベルトに固定したシースにナイフがきちんと収納されているのを確認して。ベッドですやすやと寝息をたてているモモを、転がす。ベッドは壁にぴったりとくっつけるかたちで置かれていたから、壁際に寝ているモモが落ちることはない。空けたスペースに、サワタリは横たわる。北辺の野宿は、着こんだ衣服とツェルトでぎちぎちの状態で寝るのだから、狭いどころか開放感さえある。自分とモモの上に毛布をかけていると、壁を向いていたモモが寝返りをうつ。サワタリの胸に顔を押しつけてくるのは、魔物のすがたで寝る時についた癖だ。野宿の時も、サワタリは胸にこれを抱いて寝る。
眠った。そして、夜にサワタリは起きる。
モッズコートを着て、ケープを羽織る。モモはハーフアップの髪を結びなおしている。
「いつも通りだ」
「うん。ご主人の命令で、おれはいつでも魔物のすがたに戻る」
殺人をする時、モモを人のすがたのままにしておくか、魔物のすがたに戻らせるか。一度考えたが、人のすがたのままが良いと判断した。魔物というのはなにしろ、町の中では目立つのだ。テイマーは僅少であるため、「従魔を連れた男」という手配が回れば、ギルドはサワタリの情報を屯所に渡すだろう。それならば、人に化けさせておいたほうがリスクは少ない。モモはサワタリが人を殺している間は、邪魔になるようなことはしない。ただ、逃走する段になると、身軽な魔物のすがたの方が都合がいい場合もある。その時々で、サワタリはモモがどちらのすがたをとるかを決め、命じるようになっていた。
夜陰に紛れふたりは宿を出る。
道順は覚えていた。サワタリは真っ直ぐ、殺し損ねた男の家に向かう。
「やだ! やだ!」
泣き叫ぶ少女の声が聞こえる。リベンジである。あの時も、幼い少女の悲鳴が聞こえていた。お父さんとお風呂に入るの、やだ──。
「あたしが赤ちゃんを産むなんて、やだよう!」
窓の下で、サワタリは立ち止まる。──赤ちゃん。
「お母さん、見て。お腹がこんなに大きくなったの。このお腹が破裂して、赤ちゃんが出てくるの? こわいよ、やだよう、やだよう!」
「お腹は破裂したりしないわよ。赤ちゃんは、おまたの間から出てくるのよ」
「おまたの間? お父さんがおちんちんを入れるところ? そうなんでしょ? あたしのおまたにお父さんがおちんちんを入れて、白い汁を出すから、お腹の中に赤ちゃんができたんでしょ!?」
「エマ、声が大きいわ。──静かにしてちょうだい」
サワタリは窓から、見た。十歳くらいに見える少女は、金髪をしていた。母親の半分ほどの背丈に、短い手足。どこをどう見ても幼い少女であるのに──腹が、膨れている。胸の辺りからなだらかに、そして下腹がつきだした──妊婦の腹。
咄嗟に数える。俺がこの町を発ち、サクラ・パシェンスへと旅し、帰ってきた期間。入院していたこともあり──それは半年を優に越える。或いは、かつてサワタリが見た時、既に少女は妊娠していたのかもしれない。サワタリがこの町を訪れる前から、父親が娘を日常的に犯していたのは明白だった。
「赤ちゃんができるというのは、おめでたいことなんだぞ、エマ」
この、男──。
「……やだ。お父さん、嫌い。こわい。こないで」
夜な夜な娘をレイプし、ついに妊娠までさせた鬼畜が──嫌がる娘に覆い被さっている。
「やめて……取って、おなかの赤ちゃんを取って!」
「エマちゃんは、どうしてそんなに赤ちゃんを殺したいんだい?」
「女の人が赤ちゃんを産むところ、見たもん。血がいっぱい出てた。お布団もタオルも真っ赤だったよ。おとななのに、痛い痛いって叫んで、泣いてたよ。こわいよ、赤ちゃん産むの、やだよう」
「痛い思いをして産むからこそ、女は赤ちゃんが愛しくなるんだよ」
「痛いのなんかいやにきまっているでしょ! 赤ちゃんなんか大嫌い。出てくる前に取ってよう。このお腹、気持ち悪いよう」
「酷いことを云うなあ。お腹の中の赤ちゃんには、もう命があるんだよ。大切な人間の命だ。そんなに簡単に殺しちゃだめだろう」
父親は、妊婦になった娘の、その腹を撫でながら──笑っている。
「女のせいで、人間は絶滅しかけるほどに数が減った。男がこうやって、頑張って子をつくったおかげで、今はずいぶん増えたんだ。男が女のお腹に赤ちゃんをつくってあげるのは、とっても正しいことなんだよ──ああ、俺は正しいんだ!」
涙にまみれた少女は、自分の膨れた腹を押しつぶそうとして、呻いて、泣きじゃくる。
「何をしてるんだい? エマちゃんも、赤ちゃんに会いたいよね。赤ちゃんもエマちゃんに会いたくて産まれてくるんだよ」
「赤ちゃん嫌い! 会いたくなんかない!」
「それはエマちゃんの気持ちで、赤ちゃんの気持ちじゃない。そうだ! 産まれきた赤ちゃんに、この世に命を授かって嬉しいねって、訊いてみよう! 産まれてこないと、赤ちゃん、嬉しいって云うこともできないんだよ」
「うれしくない」
サワタリは──あやうく、握ったナイフを取り落とすところだった。
隣りを見る。窓の下にじっと身を潜めていたはずの──サワタリが殺人をする時は、終わるまでじっと眼を見開いているだけのモモが、いない。
モモは。
「おれは、うれしくない。おれは産まれたくなかった。おれが産まれてきて、ごめんなさいって叫んだ時、なんでこの世に産んだんだって、思わないと思うのか。うれしいわけない。娘と実父の間に産まれた子は、自分が気持ち悪くて嫌いで嫌いで、死にたいくらい、産まれてきたことがいやだった」
うれしいわけない、とモモは繰りかえす。
かれは部屋の中にいた。どこから入りこんだのか──説教を垂れる父親と、泣きじゃくる娘と、うなだれているだけの母親のいる台所に立ち、淡々と呟いて。それから、娘に纏わり付く父親を押しどけると、ひざまずき、少女の泣き顔に手をのばす。
「まだ、こんなに小さな子供だ」
涙をぬぐってくれる、ミルキーベージュの髪色の青年を。少女は眼を瞠り見つめている。
「おれのお姉ちゃんは、おれを産んだ時、十二歳だった。子供の小さな体だったから、出産の時、大腸が破裂した。ずっと血が止まらなくて、おれが七歳になっても、おむつをしていた」
モモは振り向く。娘を孕ませた父親を睨む。
「子供が赤ちゃんを産むって、そういうこと。おとなの女の人でも、死んでしまうことがしょっちゅうある。死ななくたって、いっぱい血が出て、縫わなきゃいけないような穴があく。おれのお姉ちゃんは死ななかったけど、死んでもおかしくなかった。歩けなくなって、おむつが外せなくなって、皮と骨だけみたいになったお姉ちゃんは、死んだようなものだった。あんたは、この子にそういう大けがを負わせても、赤ちゃんを産ませたいのか?」
「当然じゃないか! 女の命より、産まれてくる子の命の方が大切に決まっている! 女のせいで人口が激減したんだ。子を産み、人を殖やすことは人類への何よりの貢献だ。堕胎は道徳に反する! 産め! 産め! おまえは赤ちゃんを産むんだよ!」
男がモモを突きとばし、少女の両肩を掴む。産め、産め、と口から泡を垂らしながら繰りかえす父親に、娘が顔を歪ませる。泣いても、誰も助けてくれない。産みたくない、気持ちを判ってくれたのは──。
「たすけて」
少女は手をのばす。突きとばされ、竈に激突し倒れていたモモが、起きあがる。
「たすけて……」
子供が必死に伸ばす手を、モモは握ろうとした。だが、鬼の形相をした父親が、モモの手を踏みつける。
次の瞬間、サワタリは窓を割り台所に飛び降りていた。
モモの手を踏み潰していた男が、ぎょっとして振り向く。一瞬、モッズコートの内側に手を入れたが、サワタリはナイフを抜かなかった。竈に激突したとき、悪いところを打ったのか、モモの唇の色が失われている。サワタリはすばやくモモを担ぐ。四肢が冷たい。一刻も早く手当をしなければと、立ちあがった時だった。
「おまえは──前に、家に押し入った強盗か! 今度こそ兵士に逮捕させてやる!」
父親が叫ぶ。母親は怯え、カーテンにしがみついている。娘の様子までは判らない。兵士の屯所に駆けこむつもりだろう、ドアを開けた父親は、だが蹈鞴を踏む。
「お母さん、エナ、ねむれないよう」
ドアは向こう側から開いたのだ。顔を覗かせたのは、幼い。あの娘の妹だったか。この家には二人の娘がいるのだ。
「どけ!」
その幼い娘をも突きとばし、男は走りでてゆく。同時に、サワタリも身を翻した。ぎざぎざに割れた窓ガラスでモモを傷つけぬよう抱きこみ、外へ飛びだす。音もたてず着地し、走る。
「モモ」
「……」
「モモ、モモ」
「……」
モモの四肢は冷たいままだ。応答もない。サワタリは風のよう夜の町を疾走する。宿に駆けこむと、寝ぼけ眼で出てきた亭主に代金を払い、部屋に置いていた荷を装備する。兵士の眼をかいくぐり、サワタリは町の外へと脱出した。
その足でしばらく駆けた。サワタリの足の速さである。見る間にフリジディの町はかなたに消え去った。雪が方々で固まる街道を、逸れる。雪原に踏みこみ、小さな林に辿りつく。あの、サクラ・パシェンスの聖城を思いだしたのは、樅の木の生い茂るなか、笹が蔓延っていたからだ。北辺のどこにでもある林だが、なんとなくほっとするものを感じて。サワタリは雪をどけ、担いでいたモモをおろした。
「ご主人」
ぽつ、とモモが喋る。──声が、出ている。だが、唇は色を失ったままだった。
「おとなしくしていろ。火を熾す。それからおまえのけがを看る。──痛むか? 気持ち悪いか?」
モモを樅の幹にもたれるよう座らせ、サワタリは焚き火の準備をする。枯れ木を集めたのは、街道から離れたとはいえ、煙りを捕捉されることさえ避けたかったからだ。
「ご主人、あとでたくさん謝る。でも、さきに」
かすれた声に、耳を澄ませる。痛むようならば、先に薬草を煎じ飲ませるか。そんなことを思案していたサワタリは。
「さきに、はやく、云っておかないと」
モモが云ったことに、脳を揺さぶられる。
「
変げを解けない。
「おれ、人間のすがたから、元に戻れない。魔物のすがたに戻れなくなってる……」
モモは、細い両腕を体に巻きつけていた。自分で、自分の体を抱きしめている。本来のかれのものでない、にせものの、人の体を、抱きしめている。
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