14th. ただいま
サワタリは、一歩、一歩、進む。
牛の歩みよりも
いつしか──否、はじめから、そちらへ足が向いていた。夜になり、性加害の現場へとオートマティックに向かう時とは、違う。モモに会いにいく。その思いが、サワタリの道しるべとなっていた。聖城の豪奢な客室ではない。美しく刈りこまれた木々の植わる庭園ではない。その外側に広がる、原生林。そこもまた聖城の一部ではあるのだろう。建物と庭園を囲う、広大な森があった。自然のままに生える樅の木々の下には、笹が繁茂している。歩きにくい。特に俺の足は弱っていた。ふらつき、転びそうになりながら、一歩、また一歩、進む。
そして、サワタリは思いの終着へと立つ。
「……」
「……」
針状の葉に、淡灰色の幹。樅は北のどこにでも植わる、ありふれた木だった。こんもりと枝を伸ばす、その一つにとまっている。ミルキーベージュの背中。白い腹。長い尾。ぎょろぎょろとした、大きな、黒い瞳。
「……」
「……」
かれのとまる枝は、サワタリの顎あたりの高さだった。顔がよく見える。俺の顔もよく、見えているだろう。
眼と眼を合わせて、サワタリとモモは、向かいあっていた。
「……おまえに」
嗄れて、罅割れた声だった。それでも、モモの耳がぴくんと動いた。聞こえている。……聞いてくれるか。
「おまえに、会いたい、会いたいと、そればかりで来たから……実際に会ってしまうと、言葉が出てこんな」
「言葉、出ているぞ」
モモの声は嗄れていない。禿げの一つもない、ふっくらとした毛なみを見て、ここで大切に扱われていることを知る。
「でも、嘘みたいな言葉だから、おれの聞き間違いかもしれない」
「嘘か」
「会いたかったのはおれだ」
少年のような声。子供だと云ったら、十八歳だと怒っていた。甘みのある声が、小さく、かすれる。
「会いたかった、会いたかった、会いたかった……っ、から」
大きな瞳にもりあがる、涙のふちが。
「おればっかり、会いたい、で、だから、ご主人も、会いたいって、云ってるように、そんな聞き間違いを、おれ、するんだ」
限界を越え、ぼろりと溢れおちる。堰を切った涙は、ぼろぼろ、ぼろぼろと落ち。小さな鼻を、口を、頬を濡らしても足りず。
「聞き間違いじゃない」
枝を葉を幹を、モモのとまる樅の木をぜんぶ濡らしてしまうほどに、かれは泣く。
「俺はおまえに会いにきたんだ、モモ」
「遠くから、来たのか?」
「そうだな、俺はこの都を出て、人の町をめぐる旅に戻った。──聖都は、とても遠くなっていた」
「ご主人はどんな遠い旅でも、そんな風にならなかった。いつでも強くて、けがしたときだって、そんな、病人みたいにならなかった」
「今の俺は弱くて、病人みたいか?」
「ボロボロだ。痩せて、窶れて、汚れて、少し臭いぞ」
「過去の傷なんぞに引き戻され、眠れんし、食っても吐く。戦闘中にもパニックを起こして、ここに辿りつくまで、何度死にそうになったかしれん」
「なんで、ご主人が、そんなことになっているんだ」
笹藪を渫う葉風に。雪が散り、サワタリの足を濡らす。
「おまえを
モモの瞳を見つめ、サワタリは云う。
「おまえがいなくなったら、俺はこうなるんだ。弱い病人になる。俺はおまえに依存していたと、云ったらおまえは、飛んで逃げていってしまうだろうか」
「依存……だって」
「俺が最初におまえにした命令を、覚えているか?」
「忘れるわけない。おれの──おれがずっとずっと欲しかったご主人が、最初におれにくれた命令だ」
「おまえは命令に従って、被害者の傍に寄り添ってくれた──そうして、俺に寄り添ってくれた」
「……? よく、わからない」
モモは素直に、首をかたむける。
「おまえが俺に寄り添ってくれると、俺の傷はふさがれる。それが当たり前になってしまって──おまえを失ってから、ようやく、おまえが俺にしてくれていることに気づくことができた」
「おれが、ご主人に……なにか、していたのか? だって、おれは、弱くて、役たたずの従魔で、ご主人に迷惑ばっかりかけて……っ」
「傍にいてくれた。ずっと、絶対に、味方でいてくれた」
「それは、従魔だから。従魔とは、裏切りものなんだ。魔物を敵とし、人に、主人に味方する」
「……俺のことを、嫌っていても」
「っ……」
大きな瞳を、よりいっそう大きく瞠る。
「おまえが、俺のことを嫌っているのは、知っている」
それでも、従魔だから。契約に則り、サワタリに従っていただけだ。サワタリの命令を遵守しつづけたことも、傍に寄り添ってくれたことも、味方であることなんて、つまりそれが主従という定義そのものにすぎない。
そこに好悪はない。どれほど嫌っていても従わねばならない……哀れなものだと、いつか思った。
「俺はおまえの大好きな人間を、惨く殺す。しかも、こんな風に弱い。汚れて臭い。ナイフしか使えない、人殺しのごろつきだ。俺なんかが、おまえを求めるなど、ゆるされない。おまえは、伝説の魔物だ。このテイマーの聖都で、賢聖と讃えられる者でもなければ、手の届くはずもない。事実、おまえが憧れた、あの賢聖の従魔として生きるのが、おまえの幸福だと、俺は、俺でも、思う。嫌っている俺などではなく、おまえを救った、おまえが大好きなあの賢聖の従魔として──憧れた、冒険の日々を生きるといい」
瞳を伏せ、こうべを垂れる。
「そう、思っているのにな、どうしようもなく、俺はおまえが欲しい」
騎士のよう跪いたら、もう少しましだったろうか。なんとも中途半端な礼だ。礼儀を知らない自分を恥じながら、サワタリは言葉を、嗄れた声で紡ぐ。
「俺の従魔になってくれないか、モモ」
云って──苦く微笑む。
「……こんなことなら、もっと人と関わるべきだったな」
一人で生きることに何の不自由もなかった。男を殺すマシンだった俺は、ろくに人付き合いをしたことがなければ、一つ所に長く滞在することもない、流れものだった。
「人を口説いたことなどないから、口説きかたが判らん」
「おれは人じゃない」
ひく、としゃくりあげて。涙で潰れそうになる声を、しぼりだす。
「おれは人じゃないから、だいじょうぶなんだ、ご主人」
泣きながら、モモは、そして。
「どうか、おれを、サワタリの従魔にしてくれないか」
枝を飛び降りた。モモを、サワタリは抱きとめる。モモが体を伸ばす。小さな三つ指で必死に、モッズコートを握って。顔をサワタリの首に押しつける。サワタリはその体を両腕で抱きしめる。ミルキーベージュの背中が、眼のすぐ下にあって、喉の奥がぐっと痛んだ。胸の真ん中がぐっと痛んだ。
「ご主人……っ、ご主人っ……」
背中が上下している。嗚咽を堪え泣くモモの背を撫でる。
「ただいま、と云ってもいいだろうか」
「ただいま、って、云ってくれるのか」
「ただいま、モモ」
「おれはご主人から、捨てられた、って、ちゃんと、判っていた。も、ご主人、帰ってこないって。でも、待つの、やめられなかった。おれ、おれ、は……。おれの、ご主人は、あんただけなんだ」
サワタリにしがみつき泣いていたモモが、顔をあげる。少しだけ身を離したところで──見えた。その隙間に光る、青い。
「おまえ……それは」
「ご主人が捨てたの、拾った。おれ、それからずっと、持ってた」
モモが小さな両手で胸に抱いていたのは、一組の、青い色のピアス。サワタリがモモとの契約を解除しようと、むりやり耳から引きちぎった……。
捨てられたそれを、地面から拾いあげて。ずっと握り、待っていたという。煌びやかな聖都の中で、見捨てられた原生林の樅の木にとまり。幾日も、幾日も、モモはここでサワタリのピアスを抱いていた。
サワタリはモモの手から、ピアスを受けとった──刹那に。
「……!」
ピアスに塗りこめられた青い色が、空気に融けだすよう。仄かに青く光ったそれは、一息の間に。サワタリの右耳にくるり。左耳にくるり、まわり。モモの耳についたそれと、揃って青く輝いていた。
「どういう……ことだ?」
「そういうことだよ」
サワタリは咄嗟に、モモをモッズコートの中に入れる。その手でシースからナイフをひき抜き、構えるまでが一瞬。
「武器をおさめたまえ。闘ってもいいけど──あなた、そこまで弱っていても、ギリ僕が負けそうでいやなんだよね」
「ソロモン……」
樅と笹の殺風景が、いきなり華やぐ。波打つ金髪に、輝く紫の瞳。銀糸の刺繍の煌めくローブを纏った、うつくしい賢聖。テイマーの聖都で最高位に立つ──伝説の魔物の主人としてこのうえなく相応しいのは、今も変わらず。
「その模紋蛾に、僕の
「おまえは、この聖都でも五指に入るテイマーではなかったか?」
「うん。僕が力ずくにすれば、よほどのことがない限り、契約は結べる。けれど、その子にはいくらテイムをしかけても無駄だった。──よほどのことが起こったってわけ」
サワタリは自身の耳に穿たれたピアスをつまむ。そういえば──モモとの契約は、サワタリ自身の調教のスキルでなく、『従魔の珠』というアイテムを用いてのことだった。
「その模紋蛾が伝説の魔物だからなのか、それともサワタリが僕をしのぐほどのテイマーなのか」
ソロモンは頬に落ちた金髪を、指に巻きつける。
「──それとも、他に理由があるのか」
サワタリは無表情にナイフを仕舞う。その顔をじっと見つめていたソロモンは──噴きだして笑った。
「なんて、意味深に云ってみたけど。基本的にテイムって、魔物の方が納得していないと成功しないものなんだよね」
モモがそうっと、モッズコートのなかから顔をだす。
「つまり、その子はあなた以外を主人と認めないんだ。それでもその心を折るくらい、僕の力ってば強いはずなんだけど……やっぱり、模紋蛾が伝説の魔物だからなのかなあ」
黒い瞳が、ソロモンを見つめている。サワタリは黙って、モモがずり落ちないようモッズコートの上から背を抱いた。
「ソロモンさま。おれ、ソロモンさまに云ってないことがある」
「へえ。何?」
「おれ、むかし、ソロモンさまに会ったことがあるんだ」
ソロモンが瞬く。長い睫毛が上下し、それさえも美しい。
「モモっていう名前をくれたのも、ソロモンさまなんだ」
「……、」
「おれは、ソロモンさまの従魔になりたかった。ずっと憧れだった。その憧れがあったから──おれは、ご主人に、サワタリに出会えたんだ」
モモはちょこんと頭をさげる。
「だから、おれは、ソロモンさまの従魔にはならない」
「覚えていないね」
つんと横を向いて。ソロモンは云う。
「モモンガなんて何十匹も見たし、覚えてなどいるものか」
そんなことより、とかれは指に絡めていた髪を解く。その指で額の石を押さえて。
「ソロモン・メリウス・クア・マリクイッドの名に於いて召喚する。我が調教せし魔よ、我が使役に耐えよ。──マス、この人間を病院に運びなさい」
「仰せつかりました、ご主人様」
ソロモンが召喚したのは、マスファーだった。毛玉の魔物は、だが野で見るベーシックなブラウンではなく、艶やかな紫の毛色をしている。マスファーは球形から平たい形になり、毛を伸ばしサワタリを巻きとった。
「おい、ソロモン」
「それでもギリ僕に勝てそうなところが悔しいんだけどさ、あなたのその衰弱は酷い。瀕死も瀕死、それでよく生きているものだよ。というわけで、都の病院に行くよ」
かつてここを訪れた時と同じである。つまり、マスファーをベッド代わりにして、サワタリを──今度こそ病院に搬送しようとしている。
降りようとしたところで──またしても、毛が巻きついてきた。ベルトで体を固定されるようなものだが、締めつけは苦しくない。魔物が原生林を走りだす。クッション性に優れているのか、それとも魔法を使っているのか、乗り心地は馬車などより快適だった。
サワタリは巻きついてくる毛から自身の両腕を捥ぐ。その手で、モッズコートの胸を押さえた。ふくらんだそこから、布越しに体温が伝わってくる。いる。ここに、傍に、モモがいる。じわり、痛い。喉と胸を痛いままにして、サワタリはモモを抱きしめた。
都立病院に着くと、おそらく事前にソロモンが手配していたのだろう、速やかに医師とその従魔による治療が開始された。だが、数週間にわたり弱りきった──それこそ瀕死であったサワタリの身体は、一朝一夕には回復しなかった。
入院、と医師に告げられた瞬間、逃げようとしたが──さすが聖都の都立病院である。更に弱りきっていたサワタリである。脱出は為らず、病室に押しこまれることとなった。
それでも、ある程度回復すれば出てゆくつもりだった。サワタリが
「俺は弱いな」
「うん? ご主人は強いぞ」
食事の準備をしていたモモが、きょとんと瞬く。
「おまえがいればな。つまり、おまえなしではもうだめらしい」
「……」
サワタリの原罪の傷。深くおぞましいそれに、ふんわりとかぶさりふさいでくれる。やわらかな存在を知ってしまった。知らなかった時の自分の方が強かったのだろうか。だが、知り、それを離すまいとあがく自分のほうが──好ましいと、なんとなく思う。
「どうした? 顔が赤い」
「それをご主人が云うのか」
なぜか真っ赤になって怒っている。モモはだが、ベッドサイドの椅子に座り、サワタリの食事の介助を始める。
「おまえ、看護師になれるな」
怒っているらしいが、粥をスプーンで掬い、サワタリの口にせっせと運んでくれる。汚れることに構わず──病人の清潔の方を優先し、甲斐甲斐しく食事から清拭から様々な世話をする。性被害を受けた女に極めて適切に寄り添えるのも、同じところにつながっている気がする。優しい、と一言で云えばそれまでだが、優しさというものを適切に行使することは難しい。これはモモの天賦の才能なのだろう。
「看護師? なんで? おれはご主人のお世話しかしないぞ」
「おまえ、レイプされた女性の傍にいて、癒やすことも上手い」
「ご主人がおれに命令したことだから、一生懸命やる」
「俺が命令したから……」
ふわ、とまた、心の破けたところをやわらかいものが覆う。
「だったら、これからもおまえは、彼女たちの傍に寄り添ってくれるのだろうか」
「命令してくれ」
「……傷ついた女性たちの傍に寄り添ってくれ、モモ」
「はい、ご主人」
うれしそうに微笑み、うなずくモモを見て──喉の奥が痛くなる。サワタリの食事の介助を終え、食器を返しにゆくモモを見送る。あれはすぐにここに戻ってくるだろう。サワタリがうとうとと眠りだしていたら、ベッドにもぐりこんでくるのだろう。もう、離れることはない……。
サワタリにしてみれば、破格の時間を費やした入院生活を終え、いよいよ聖都を出立する日。楼門に立ったサワタリは、ふと気づいた。
ここを再訪した時も、俺は確かにこの楼門を通ったのだろう。パステルカラーの聖都を、よろよろと進んだ記憶もある。だが、そのさい門番の審査を受けることもなければ──誰に阻まれることもなく、モモのいる森まで侵入が叶った。
(……最初から、見ていたのか)
モモがソロモンのものになっていたら、殺してでも奪いかえすつもりだった──ぼんやりと、だが紛れもなく殺意を持って、サワタリはここに来たのだ。
ところがソロモンの方は──。
「複雑だな」
「うん?」
楼門を出たところで、モモは魔物のすがたに戻り、サワタリの肩に乗っている。
「おまえは俺のものだと、ゆずる気はないが。やはり、おまえの主人として相応しいのはソロモンなのだと思い知った」
「おれのご主人はサワタリだ」
「そういえばおまえ、俺の名を覚えていたんだな」
「忘れない。従魔はそういうものだ」
モモは瞳をほそめ、降りしきる雪を見ていた。
「ご主人のことを、忘れたりしないんだ。大嫌いでも、大好きでも……」
やわらかく、痛切な声だった。そう聞こえただけかもしれない。
この聖都で、たくさんの主従を見た。町中で、病院で、そしてあの聖城で。主人に従う魔物たちは、どれも誇らしそうに、嬉しそうにしていた。主を嫌っていても、尽くせることが誇らしい。嬉しい、感情のシステムが主従なのだ。それでも、とりわけ、ソロモンの従魔たちは、主人のことを慕ってやまない様子だった……。
「聖都サクラ・パシェンスか」
一度だけ振りかえり、天で結ばれた金色の鳥かごを見つめてから。サワタリは前を向く。二度めの、聖都からの旅だちだった。
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