13th. 原罪

 彼女は、笑った。

 サワタリが殺しにゆくまえに見た、最後に見た顔は、笑っていた。ぐしゃぐしゃの髪で、涙に濡れた顔で、絶望的に笑っていた。

 その笑顔が、心に焼きついて消えない。雪の降る街道を行く、サワタリは絶えず、あの笑顔を見ていた。

 なぜだろう、とぼんやり思う。これまでも、性被害者が自死することはあった。むしろ、自死してしまう被害者の方が多かった。レイプは、魂の殺人と云われている。殺された心は、鬱や解離といった心の病いを蔓延らせる。死んでしまいたい、と泣く女の声は、気をひくための虚言ではないのだ。彼女たちは、真実死んでしまったほうがらくなのだ。脳の瑕疵は、彼女らを被害の現場に巻き戻し、彼女らは幾度も幾度もレイプされる──幾度も幾度も、魂を殺される。それはどれほどの苦しみなのだろう。俺にはとても理解できない、苦しみにのたうちまわり、死に憧れる女たちは、だが、モモが傍に寄り添うと、ふしぎと生の方向へと顔を向けるのだ。傍で手を撫でてくれるだけでいい。話しを聞いてくれるだけでいい。味方がいる、と思えることが、どれほど救いになるか──そんな風に云う女もいた。そうだ、あれは、女の味方になれるのだ。

 やわらかなミルキーベージュの背中。大きな瞳は真っ黒で。女の拳を撫でる三つ指の手は、あまりに小さい。だが、モモが彼女の拳を撫でていたら。彼女に寄り添っていたら、彼女は死ななかったのだろう。──あんな風に、絶望的に笑って、死ななかったのだろう。

「……っ、」

 サワタリは、口を押さえる。ノンカネムの町を出てから、目眩がつづいている。軽い吐き気もする。雪を踏んだ足が滑りかけ、咄嗟にバランスをとり踏みとどまった。

 強く瞬く。胸に浮かびつづける女の笑顔から、むりやり視界を切り替える。彼女の住んでいた町を出たのは、もう数日も前のことだ。既に次の町に辿り着き──サワタリはいつものよう、夜を歩いていた。

「……男を、殺さなければ」

 目眩などにかかずらっているものじゃない。俺は、男を殺すもの。女に加害する男たちを、殺して、殺して、絶滅させる……。

「やだ! お父さんとお風呂に入るの、やだ!」

 泣き叫ぶ少女の声が聞こえたのは、その時だった。

「お父さんはエナちゃんに嫌われちゃったんだね。悲しいなあ」

 大仰に嘆く男の声。宥める女の声は妻のものだろう。疲れきった声だけでも、この家でなにが起きているのかは知れる。

(父親から娘への性虐待)

 珍しくもない。実父から性的な虐待を受ける娘など、数えるのもばかばかしいほど見てきた。

 母親は疲労をにじませながら、父親の腕の中で暴れる娘を抱きとり、風呂へと連れてゆく。娘に拒まれ、肩を落とした父親が──その俯いた顔が、怒気で赤くなっているのを見た。サワタリは家に忍びこんだ足で、男のあとをつける。男は、風呂場の灯りがつくと同時に、廊下を引き返してきた。階段を上る。二階に二つある部屋のうち、西側の方。そのドアをノックもせず、男は押し開けた。

(もう一人、娘がいたのか)

 ベッドに寝ていたのは、先ほどの女の子より年長の──それでもまだ十歳くらいの少女だった。寝ているところに突然のしかかられ、少女は眼を覚ました。

「エマちゃんは、お父さんのことを愛しているもんなあ。ええ? そうだろう?」

 顔を真っ赤にし、魔物のような形相で自分を組み敷く父親に、少女は怯え、震えた。だが──すぐに、全身の力を抜いた。

「いいぞ、いいぞ。エマちゃんはかわいいねえ」

 父親は少女の寝間着をめくる。腹までたくしあげた服の中に手を入れ、まだ女になっていない胸をもみしだく。少女の腹に、男の涎が落ちた。たまんねえ、幼女の体たまんねえ、と涎を振り撒きながら、男はズボンを脱いでいる。男性器は勃起していた。

 されるがままに揺さぶられる、少女の眼には光りがない。うろのような瞳は、どこも見ていないのに──。

「……!」

 サワタリは息をのむ。幼い顔に穿たれた、二つの黒い空洞。もはや人の眼とも思えぬそれと──眼が合ったのだ。

 住居に侵入した不審者に、実父との性行為を見られながら、娘は虚の眼をサワタリに向けている。ずき、とこめかみが痛んだ。次の瞬間、どうっと心臓が鳴った。凄まじい動悸と頭痛で眼が翳む。ナイフのグリップにかけていた手が、ぬるりと滑った。手のひらと足の裏から、汗が噴きだしていた。強烈な吐き気がして──サワタリは廊下を後ずさると、窓を破り外へと飛び降りた。

 よろけるよう走る。猫が飛びだしてきた路地に、サワタリはもぐりこむ。突き当たった壁に、少し吐いた。動悸も頭痛も酷くなる一方で、汗でぬめる手で地面を掻きむしる。

(まずい、意識が──)

 混濁に引き摺りこまれる。血が出るほどに地面を掻いても、意識が保てない。サワタリは──猫の尿の臭いのする路地でなく、汗が滴り落ちる床に爪をたてていた。

 汗が。一粒、二粒、すぐに滝のように流れ、頬を濡らし床を濡らした。

 暑い。真夏の部屋は、窓を開けはなっていても茹だるように暑かった。

 戸も開けられていた。サワタリは、廊下に四つん這いになり、そこから見ていた。

 部屋の中に浮かび上がる、白い二本の足。それはゆさゆさと揺れていた。姉の足だ。姉の足を抱えあげているのは、父だった。父は男性器を姉の股に入れ、腰を振っていた。ぱんぱんと、肉を打つ音がする。父はサワタリに、男は女をこうするものだと、何度もこれを見せた。涎を垂らし、呻き声をあげ、へこへこと尻を振る父に、かれの陳ずる男の優位性など微塵も感じることなどできなかった。ただただ醜く無様だった。

 姉は──。

 姉は、揺さぶられるまま、無抵抗だった。毎日──或いは一日に何度も実父に犯されるのが、彼女の『当たり前』だった。姉は幼い頃から、父親にレイプされていた。最初は意味が判らなかった。なぜお父さんは、わたしのおしっこをするところに指を入れるの? 指はいつからか──彼女の月経が始まる頃に、膨れた男性器に変わった。その頃、ようやく姉は、父に何をされているのか理解しはじめる。だが、抵抗することを思いつかなかった。抵抗をするよりも前に、彼女は諦めていた。諦め、揺さぶられるまま、うつろな瞳をして──終わるのを待っている。

 姉の瞳は、サワタリと同じ赤をしていたが、どうしてかこの時はいつも、真黒に見えた。顔にあいた二つの穴。暗いうろ。それは自分を犯す父を見ることもなければ、それを見学させられる弟を見ることもなかったのに。

「……っ」

 サワタリは──子どもの姿の俺は、犯される姉を廊下から見ていた。廊下は、サワタリの爪がつけたひっかき傷だらけだった。

「……サワタリ」

 姉の声を、初めて聞いた。サワタリは廊下を掻く。爪と指の間から、血が出ていた。

「サワタリ、助けて……」

 姉の声を聞いたのは、それが最初で、最後だった。姉の虚の眼から、ひとすじ、こぼれおちた涙を見たのも、最初で最後だった。

 サワタリは、心臓が脈打つのを感じていた。頭が痛い。足の裏がぬるぬるする。滑り転びそうになりながら、かれは台所へ行く。洗い場に、今朝母が果物を切った時に使ったナイフがあった。それを握った。やはり汗でぬるついた。胸がむかついたから、床に吐いた。心臓のどくどくは止まらない。心臓は血を全身に送りだすポンプだと学校で習っていた。ならば、今俺の体のすみずみまで、真っ赤な血が氾濫している。

 サワタリは廊下を歩いた。戸の開けられた部屋。姉はもうこちらを見ていなかった。諦め、揺さぶられていた。姉の白い太ももを掴む父の指に、毛が生えていた。おうっ、おうっと呻く、男の大きく開けられた口の中に、サワタリはナイフを突っこんだ。

 手のひらの汗がすごくて、ナイフを今にも取り落としそうで、だから力いっぱい握った。あんまり上手くできていないと思ったから、何度もやりなおした。

 いつの間にか、父親が倒れていた。血だまりの中の顔は、原型をとどめていなかった。

 姉は。

 虚の眼で、天井を見ていた。

 ぐちゃぐちゃに絡まった髪。寄生虫セイシの混じった体液で汚れた腹。ばらばらと力なく床に落ちた手足。ぶくぶくと白い泡を吐きだしている姉の股。サワタリはそれを見ていた。

 軈て。

 猫の尿の臭いがした。掻きむしっているのは、実家の茹だる廊下ではなく、雪の混じった冷たい路地だった。

「そこに誰かいるのか?」

 誰何の声に、サワタリは構えようとした。ナイフを使うか──最低限、この壁を乗りこえ姿を消すか。だが、どちらもできず──路地に倒れた格好で、震えていた。

「うえ、臭え。なんだよ、酔っ払いかよ」

 眼だけがかろうじて動いた。制服が見える。兵士のようだ。喘ぐ呼吸をするサワタリを、ただの酔っ払いだと思いこんでくれたのは有り難い。なにしろ──。

「この先の家に、強盗が入ったらしい。つっても、未遂だがな。しょぼい事件だが、屯所は犯人を捨て置くことはできん。おまえさんも、危ない目に遭う前に家に帰れよ」

 先刻サワタリが忍びこんだ家だ。二階の窓を割り逃げたサワタリは、あの家の誰かに──恐らく娘の上に跨がっていた父親だろう──見られていたらしい。強盗が入ったと屯所に通報があり、こうして兵士たちが犯人を捜索している……。

 兵士の去った後、サワタリは腹と胸に手を当てる。口から息を吐き、鼻から息を吸いこむ。腹で呼吸をするやり方だ。荒れていた息が、少しずつ落ち着いてくる。同時に、頭痛と動悸、発汗もおさまってくる。

 立てる、と思った。実際は、何度か失敗した。だが、何度目か歩くことにも成功する。まさしく酔っ払いのような足どりだったが、宿に帰ることができた。ベッドにもぐりこみ、眠って──。

 そして、サワタリは夢をみた。

 暑い実家の、真夏の部屋で。父親に強姦されている姉の、白い足。虚の眼と眼が合い──ねえちゃんは云った。タスケテ……。タスケテ……。

 否、夢ではなかった。サワタリは起きていた。ベッドで寝ていなくとも──喩えば道を歩いている時、喩えば飯を食っている時、喩えば風呂を使っている時──なんでもない瞬間に、不意にこの場面に突き落とされるのだ。

再体験症状フラッシュバック……か」

 こんなもの、ただの記憶にすぎない。幼い頃の記憶を、頭の中で再現しているにすぎない。それなのに、今この時、眼の前で、それが起こっているかのような感覚に陥る。同時に呼吸が苦しくなる。動悸がし、頭痛に呻く。手のひらと足の裏から汗が噴きだす。嘔吐することもしばしばだった。

 忽ち飯が食えなくなった。外に出ることがなくなり、サワタリは一日中、ベッドに横になっている。眠れず、ぼんやりと眼を開けていた。胸のあたりが、ひんやりする。ぺしゃんこのモッズコートの胸を、サワタリは押さえていた。

 理由は、判っているのだ。

 今まで数えきれないほど男を殺した。女に加害をする男を殺す、それが俺だから。殺してきた男の中には、今回のよう実の娘をなぶった男も、何人もいた。それこそ、サワタリが幼少の頃見た、姉が父に犯される場面に酷似した情景など、腐るほど見てきた。けれど、こんな風になったのは初めてだった。フラッシュバックに喘ぎ、パニックを繰りかえす体は弱り、食えず、眠れず……苦しい。なぜ今頃、子どもの頃のことを思いだし、その記憶に痛めつけられているのか──判っているのだ。

「モモ」

 あれは最初、サワタリから体一つ分、二つ分離れたところで、まるくなって眠っていた。厳寒の土地を旅しなくとも、俺はあれを、ああして、胸に抱き眠るようになったのだろう。そうだ、ここに、あれが……。

「モモが、いない」

 ぺしゃんこのモッズコートを押さえ、サワタリは眼を閉じる。ひんやりする。あのぬくもりを覚えてしまった理由など、判っているのだ。

 モモに寄り添われ立ちなおる性被害者を見て、ふしぎな気分がしていた。それを、はっきりと安堵だと捉えたのはいつからか。そうだ、俺は安堵していた。──モモがいなくなったせいで、自死をした女の顔が心に焼きつくくらい、安堵を、していたのだ。

 男を殺せればいいと思っていた。女に加害する男たちを殺すのが、自分だと思っていた。それだけだった。──それだけじゃ、なかったのだと。あの従魔と出会わなければ、一生知らぬままだったろう。一生気づかず男を殺すマシンのままでも、かまいはしなかった。

 だが、知ってしまった。

 痛めつけられた女が、わずかでも癒やされること。それがどれほど、サワタリをも癒やしていたか。だって、レイプされた女たちは、姉だった。モモは、サワタリの原罪たる姉を、救いつづけてくれたのだ。

 そして、それを命じたのは俺なのだ。

 ご主人からもらった、最初の命令だ。そう云って、あれはうれしそうにわらった。従魔とは主人あるじの命令に従うもの。喩え主人のことを嫌っていたとしても、逆らわずにおれない──否、従うことに無上のよろこびを感じる。モモはサワタリを嫌っていた。人を愛するあれは、人を殺す俺を見ては嘔吐するくらいに、俺を嫌っていた。それでも、あれは俺の傍にいた。傍にいる、というのは、ともに旅路を行く、という意味だけでない。あれは、モモは、性被害者に寄り添うというサワタリの命令に従うことで、サワタリの傍に寄り添ってくれたのだ。云うなれば、原罪で瀕死の傷を負ったまま凍りついた、サワタリの心の、傍に。レイプされた姉を癒やしつづけることで、モモはサワタリの心に寄り添い──味方でありつづけてくれた。

 女たちではない。

 モモは、サワタリの、傍に、寄り添ってくれていたのだ。

 白い雪に凍てつく土地を旅する間、いつしかそれがあたりまえの日常になって。サワタリの心を十字に切り裂いた傷を──それは姉を見捨てた原罪の傷であり、女を見捨てる度にまたえぐられる傷である──優しくふさいでくれていた。だから──モモが寄り添ってくれている状態が、常態になってしまっていたからこそ、その喪失によってサワタリは、脆く、割れた。

「おまえがいなくなったら、このざまだ」

 モモの喪失は、サワタリの一部を──大切な部分を、捥ぎ取った。それほどに、モモの存在はサワタリのものになっていた。あまりにあれが優しく傷をおおってくれていたから──サワタリは僅かなきっかけで過去の傷を思いだした。更にその傷は広がり、膿み、サワタリを苦しめる。判っているのだ、モモを失したから俺は苦しんでいる。

「……、」

 サワタリは、微笑んでいた。いつかかれが知らずうかべた微笑みと、似ていて違う。

 ひんやりと淋しい、モッズコートの胸を押さえたまま。サワタリは身を起こす。目眩がした。だが、立つ。吐き気をこらえ、荷造りに着手する。足にけがをした時でさえ、毎日体を動かすことを欠かさなかったのに、今回は数日もベッドに寝たきりだった。まともに力の入らない体で、それでも辛抱強く旅支度を調え、宿を引き払う。

 この町の名を忘れないだろうと、ぼんやり思う。傷がひらくきっかけとなった町──そのおかげで、色んな思いを知った名の町は、フリジディ。サワタリは背負った荷物にさえふらつきながら、出立した。

 その旅は、サワタリが今まで経験した、どんな旅よりも苦しいものになった。

 弱った体は街道を歩くだけで息が切れた。物を食っても吐いてしまうので、いっこうに体力は戻らない。そのうえ、魔物との戦闘の最中に、フラッシュバックを起こしさえする。いつもなら難なく斃すせる魔物に、幾度殺されかけたか。疲れ果て、道に頭から倒れこみ、立てないでいると、頭痛と動悸に襲われた。苦しかった。でも、それよりも淋しかった。サワタリはモッズコートの胸に手をあてる。ぺしゃんこだった。淋しかった。無造作に、モッズコートの前を開いた。

「入れ」

「はい、ご主人!」

 嬉しそうにもぐりこんでくるのを、モッズコートのなかにしまって。上からケープをかける。インナーにモモがしがみついてくる。体重を殆ど感じないのは、これが魔力で浮遊しているからだ。手と足の間に飛膜があるが、モモンガはそれで飛行しているのではない。いちおうこれも魔物の端くれらしく、魔力で飛ぶのだ。

 右手をモッズコートのなかに入れた。ミルキーベージュの背中に手のひらを当てると、じんわりと暖かい。懐炉かいろくらいにはなるのか。そんなことを思いながら、サワタリは両手を代わる代わるモモの背中に当てた。モモはじっとしている。戦闘の時以外は、モッズコートのなかでおとなしい。

「……ふ」

 サワタリは、わらう。いつのまにか、夢をみていた。否、眼は開けていたから、夢ではないのだろう。北の旅のいつかの場面を、脳が心に映していて──それにぼんやりと浸かっていた。フラッシュバックで巻き戻されるのは、姉が父に犯されている場面ばかりで、こんな──優しい情景に包まれたのは、はじめてだった。

「俺が限界であるから、みかねて回復薬をくれたのか」

 街道にうつ伏せで倒れている自分を見とめ、優しい──モモが傍にいる夢から覚める。右手をつき、左手をつき、膝を地面でこすった。立ちあがると、開いたモッズコートから、なにかがこぼれおちた。

「……温石、といったな」

 凍死しかけていたサワタリを救ってくれた女がいた。もう死んでしまった彼女が、その時使ってくれたのが、火の中に入れ暖めた石だった。蝋石という保温に優れた石を、寒さ対策のため買ったのは、その後に訪れた町だった。

 サワタリは、こぼれおちた蝋石を拾う。火で暖めていない石は、当然ながら冷たい。だが、石はミルキーベージュをしていた。蝋石はほとんどが白い色をしているが、稀にこの茶色みがかったものがあるという。他のものより少し値がはったが、サワタリはそれを買い求めた。

「おまえは、アッシュの石がいいと云っていたな」

 抱きしめても、あのぬくもりにはほど遠い。だけれど、ミルキーベージュの背中を思いださせてくれるには、充分だった。サワタリは胸に冷たい石を抱き、再び歩きだす。

 北への旅だった。寒さはどんどん厳しくなる。眼も開けていられないほどの猛吹雪。傷み、弱るばかりの体。苦しかった。……苦しかった。父の次に、知らない男を殺した時よりも。盗賊団の奴隷にされ酷使された時よりも。ダンジョンの深部で薬草が尽きた時よりも。兵士に捕まり拷問を受けた時よりも。北鎮部隊の寨で全身に傷を受け、犬ぞりにしがみつき逃げた時よりも。今、この旅で、汗でぬめる足を一歩、踏みだすことが苦しかった。

 果てしなく苦しい一歩を、気の遠くなるほど積みかさねた、かれの業は。

 奇跡、というよりも。

 それは真実、かれの思い一つで。

 かれがモモを思う思い一つで。

 非力なモモンガの体当たりでも命がつきそうなほど、瀕死の、ぼろぼろの、体で。極寒の雪原に隠れる常春の都に辿りつくことなど、誰も、神でさえ不可能と断じても。

 サワタリは、聖都サクラ・パシェンスの再訪を遂げたのだった。

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