11th. 従魔契約、破棄

 モモは死にたかったのだ。

 おれは女を六人殺した、人殺しの魔物だった。人間に恨まれて。恨まれて。恨まれて。ねえ、おれ、産まれてこなければよかったの? あらあなた生まれてきたくなかったの? じゃあ死ねば? はやく死になさいよ。うん、わかった、わかったから、死ぬからどうかゆるしてください。人を食わなかったら魔物は死ぬ。その飢えは魔物にとって想像を絶する苦しみであったが、モモはちっとも苦しくなかった。苦しいことは、もう心いっぱいだったから。

 そうして人を食わず、何日が経ったろう。酷い震えは止まっていた。雪の積もった笹藪にうずくまっていたが、腹も顔もちっとも冷たくない。けれど心が、少しひんやりする。淋しかった。苦しくはないけれど、淋しかった。

 だから。

 かれの腕に抱きあげられた時、ひどく、あたたかく、融けだすよう涙が出てきたのだ。

「泣いちゃったねえ」

 お日様に包まれたような気持ちがした。かれの波打つ金色の髪が、カーテンのようモモの顔を覆った。かれは汚れ臭う魔物の頬に、頬を押しあててくれたのだ。まるで愛するものにするよう、頬ずりをして。

「けがはしていないみたいだけど、衰弱が激しい。おまえ、人を食っていないね?」

 かれはモモを抱いたまま、後ろを振りかえる。

「サニタ、この子を診てあげて。必要なら治癒をしてやりなさい」

「はい、ご主人様」

 無数の触手が伸びてきた。しっとりとしていて軽い。それがモモの体を診察し、治癒の魔法を使う間も、かれはずっとモモを抱きつづけてくれていた。

 だけど。

「ご主人様、回復が終わりました」

「ごくろう。さあ、これで大丈夫だね」

 治療が終わると、あっけなく雪の上に放された。そのまま、手を振りいってしまう黄金の人を、モモは見つめていた。かれの後ろには、無数の魔物が付き従っていた。誰もが誇らしげに、嬉しげに、愛しげにかれを見つめ、一心に背中を追う。モモはそれを、大きな瞳で、じっと見つめていた……。

「やあ、またおまえかい?」

 かれが、ソロモンという名まえの人間だということを、モモはもう知っていた。テイマーという、魔物を調教し使役する、希少なスキルを持つ者のなかでも、最高位に立つ才能の持ち主だということすら知っていた。それを知るくらいの時間、モモはかれにつきまとっていた。

「今日はフラーに火を吐かれなかった? こないだはしっぽが焦げてたもんねえ」

 従魔でもないのに、ソロモンの周りをうろちょろとするモモを、よく思わないものもいた。火竜の炎を浴びた時は死ぬかと思ったが、他の従魔からも多彩な攻撃を受けていた。だがモモはソロモンの傍にいくことを諦めなかった。

 かれの従魔のよう、膝によじのぼり侍ることなどできやしない。少し離れた樅の枝にとまり、じっと見つめていた。ソロモンはモモが来るとすぐに気づき、気軽に手を振ってくれた。おいでと呼んでくれることさえある──こんな風に。

「今日は天気がいいから、ディフィチェリスの森の深部まで潜ってみようと思うんだ。おまえもおいで」

 北辺では希有な、晴天の日だった。それでもしんしんと沁みる冷気を慮ってだろう、ソロモンの従魔たちは──とりわけ羽毛や毛皮のあるものたちは、こぞってかれの傍に寄り添う。かれらに睨まれずとも、モモは少し離れたところを浮遊していた。

「ご主人様、今日という今日は云わせていただきます」

「なぁに?」

 細長い巨人の従魔が、腰を折り曲げ顔を近づけている。

「あの役立たずを、いつまで傍にお置きになるのです。モモンガなど、ご主人様の従魔に相応しくありません」

 自分のことを云われている。びくんと体を竦めたモモを見もせず、ソロモンは、あははと笑った。

「僕がモモンガなんかを従魔にするわけないじゃん」

 あっさりと云われたことは、モモの胸をぐさりと貫いた。

 ──おれを、ソロモンさまの従魔にしてくれないか?

 それは何度も、モモが心のなかで繰りかえした科白だった。云いたい。でも云えない。だっておれは……。

「そうだなあ……ねえ、おまえ」

 モモの心中を──あなたの従魔になりたいと云いたくて、云えずにいた気持ちなど、とっくに見抜いていたのだろう。ソロモンは後ろ向きに歩きながら、モモを見た。

「聖都サクラ・パシェンスの話しを前にしたよね。僕はよくこうして『外』に冒険に来ているけれど、本来の住まいはその都の聖城なんだ」

 紫の眼を細め、ソロモンは笑った。

「おまえ、聖城まで僕のあとをついてきてみなよ?」

 そこで、どっと従魔たちが笑った。

 笑われた理由は──すぐに判った。ソロモンに云われたとおり、かれのあとを追いかけたモモだったが、執拗にソロモンの従魔たちが妨害してきた。おまけに昼間の天候はどこにいったのか、猛吹雪となっていた。視界の悪い中を、必死に追いかけたが、妨害は更に苛烈になってゆき──ついに見失ってしまった。

 それでも、モモは諦めなかった。動物並と云われているが、モモンガには嗅覚がある。ソロモンの匂いはよく憶えていた。凍てつく風になぶられ、腫れあがった鼻で、微かな匂いを追いかけ──モモは、なんとサクラ・パシェンスに辿り着いたのだ。

 聖城には、庭園があった。モモが棲んでいる樅林に似ていた。そこをふらふらと飛び、森を抜けた先の噴水で、従魔たちと戯れているソロモンを見つけた時は、やっぱり涙が流れた。

 ソロモンは驚いていた。そして──。

「よく頑張ったご褒美に、従魔にしてあげる──なんてことはないけど」

 裏切られつづけた期待は、すでにぺしゃんこになっていた。嘲り笑う従魔たちも気にならない。寒くない。ただ、心がひんやりする。淋しい──淋しい……。

「ご褒美に、おまえに名まえをつけてあげる」

 かれは頬に垂れた金髪を、くるくると指に巻いて。煌めく紫の瞳をモモに向けた。

「モモ。おまえの名は、今日からモモだ」

「モモ……」

 ソロモンさまが、おれにくれた名まえ。モモは小さな三つ指の両手を、胸にあてた。

 モモンガだからモモ──そんな安直な名付けでさえ、モモにとっては嬉しくて、嬉しくて、涙がとまらなかった。

「それにしても、なんでおまえ、聖都ここに入れたのかな。うちの結界は、他の町の結界とは比べものにならないくらい排他的なのにさ。従魔でもない魔物が、入れるわけないんだけどなあ」

 首を傾けつつ、まあいいか眠いし、とソロモンは仰向けになる。途端に従魔たちが我先にと主人の体に寄り添いだした。

「ねえ、モモ。せっかくサクラ・パシェンスに来たんだから、おまえのご主人をさがしてみたらどう? おまえ、従魔になりたいんだろう? テイマーはすっごく数が少ないんだよ。そのテイマーが集まってるとこなんて、ここしかないからね。この機会を逃したら、おまえを従魔にしてくれるようなテイマーに出会える確率なんて、天文学的数字になっちゃうよ」

「おれの、ご主人」

 そう呼びたかった黄金の人は、最後に笑いを一つ投げて。午睡に眼を閉じてしまったかれを守るように、じゃまをするモモを威嚇するように、優秀で優美な従魔たちが囲っている。

 モモは聖城を出た。その時には、決意をしていた。だから、城を出て最初に見つけた人間のもとへ真っ直ぐに飛んだ。凄いスピードで飛んできたモモに驚き、男は紙袋を抱えなおしている。

「なんだ、モモンガか。びっくりしたなあ」

「おれをあんたの従魔にしてくれないか?」

 男の足もとに飛び降り、その足の指に頬をすりよせる。

「え?」

「おれ、従魔になりたいんだ。お願いだ、おれと契約をしてくれ」

 男は片手で紙袋を持ち、もう片方の手を口にあてた。笑っている。

「ないない、モモンガはないよ」

「……?」

「やっぱり憧れは竜だなあ。最強の火竜もいいけど、一番綺麗だって云われている風竜が本命なんだ。いやあ、ぼく程度のテイマーじゃ、竜なんて手に負えないって判ってはいるんだけど」

「……あんたは、モモンガじゃなくて、ドラゴンを従魔にしたいのか?」

 笑い声が大きくなる。

「そういうことだけど、そういうことじゃないっていうか。あのね、モモンガを従魔にするテイマーなんて、いるわけないって云わなきゃだめ?」

「おれを、従魔にするご主人は、いない?」

「モモンガって、スライムの次に弱い魔物でしょ。冒険者でなくとも斃せるくらい弱い魔物を、従魔にしてどうするの。戦闘に使えないのはもちろん、他に特殊能力もないんだから」

 モモが頬ずりをした足を、男は引いた。その足を拭きながら、かれは云う。

「従魔にするなら、スライムの方がまだましだよ。スライムって可愛いし、インクジートル賢聖の研究で、調教によってはドラゴンを凌ぐスキルを持つことがあるって判明したばかりだしね。育ての楽しみがある」

「モモンガは、いちばん従魔にしたくない魔物なのか?」

「したくないって積極的な気持ちでもないかな。それほどの興味もないっていうか」

 ──思えば、この男は親切だったのだ。

「テイマーのなかには、弱い魔物を調教するところからはじめていく──俗にいうレベリングだね、それをする人もいる。そういう人はレベルが上がると、それに見合う魔物へと契約をどんどん変更していくわけだけど。それでも最初の調教にモモンガは選ばないなあ。弱すぎるから、もう三つ四つ、レベルが高い魔物から始めるよね」

 こうして一般的なテイマーの気持ちを、モモに教えてくれたのだから。

「モモンガは、スルーする魔物なの。テイマーにとって、調教どころか立ち止まる価値も、見る価値もない。ぼくだって、きみが超特急で飛んでくるでもしなかったら、こうして話したりなんかしなかったよ」

 そう云って、男はもう一度大笑いをすると、両手で紙袋を持ち行ってしまった。

 モモは──。

 モモは、飛んだ。次に見つけた男のもとにびゅっと飛んで。驚いた男の足に頬をつけ、願った。

「おれを、あんたの従魔にしてくれないか?」

 一日中、モモはそうして行きがかった男のもとへ飛び、足に頬をつけ、願った。夜も昼も、来る日も来る日も願った。

 笑うものが殆どだった。断りの言葉は、あからさまなものもあれば、婉曲のものもあった。断られても、断られても、モモは諦めなかった。心にはずっと、ソロモンとかれの従魔たちが暮らす、優しい情景があった。だが、聖都にモモを従魔にむかえてくれるテイマーはいなかった。ただの一人も、いなかった……。

 モモは聖都を出た。頼りない飛行で吹雪のなかを進み、人を探した。そして、びゅっと飛んだ。驚く人間の足に頬をつけ、願った。そうして──サクラ・パシェンスの『外』で従魔の押し売りをはじめて、聖都のテイマーが特別であったことを知る。

 外の人間は、モモが頬を寄せた足をぶんと振った。蹴り、捨てて。あとは見向きもしない人間が殆どだった。蹴られた後、踏み潰されそうになったこともあった。剣や魔法で殺そうとしてくる人間もいた。魔物は人を食う。だから人は魔物を殺す。魔物を殺し、その耳を集める冒険者たちのことを知った。かれらのパーティには、ごく稀にテイマーがいることがあった。ソロモンさまは、よく聖都の外に冒険に出ていた。かれの従魔たちを鮮やかに使役し、ダンジョンを次々と攻略してゆく。ずっと後ろの方で、モモはそれを見ていた。あんな風に役に立つものになれたら、おれも生きていていいのだろうか。そう思うと、幾度殺されそうになっても、モモはびゅっと飛んだ。足に頬をつけ、願った。おれを、あんたの従魔にしてくれないか。

 十年、モモは主人をさがし世界をさすらった。十年もの歳月を費やしてさえ、やっぱり、どうせ、ただの一人も、モモの主人になってくれる人はいなかった。だが、粗末な飛行での気の遠くなるような旅は、むだではなかった。モモは『従魔の珠』というアイテムの存在を知ることとなる。そしてかれは、その秘宝の眠るダンジョンへと挑み、命を極限まで削り取られながらも生還を果たし──そして、そして。


「俺に、出会った」


 自分の声で、眼が覚めた。

「ご主人、起きた!」

 そして、自分のものではない声がした。

「うなされていたんだ。起こしても起きないし……ご主人、具合が悪いのか? 足が痛むのか?」

 ああ、俺はずっと一人だった。一人で男を殺し、殺しつづけ。あの日これに出会い、契約を交わし──そして、それからは、ふたりになった。

 俺のような人殺しを──嫌いながらもついてきたのは、従魔の性質に抗えなかったのだとしても。痛めつけられた女に寄り添うモモを見て、これの本性はやさしいのだと思った。戦闘のたびに命令をねだっては、殺されかけても、サワタリの役に立ちたいと、そればかりで。欲しくてたまらなかった命令とは違う、最初に命じたことを、固く守りつづけてくれた。兎に化け火に飛びこみ、サワタリの胃を満たそうとしたこともあった。町に入ると人に化け、せっせと洗濯をする。いつからだろう俺の肩に居場所を決め、腹ばいになったモモの毛皮が首にあたった。雪降る土地で、何度これの体温を感じたか……。

 聞き慣れてしまった声に向かって、顔を動かす。従魔は魔物のすがたでなく、人に化けていた。濡らした布を手に握っている。

「汗がひどい。ちゃんと拭こうな、ご主人」

「いらん」

 宿ではないが──聖城に宛がわれた部屋に入ると、モモは人に変げするようになっていた。いつもどおりサワタリの世話を焼こうとするのは、ソロモンと再会し、不安定になっているのを、ごまかそうとしているのではないだろうか。証拠に、ソロモンと会見する庭園では、モモは必ず魔物のすがたに戻る。

 サワタリは身を起こす。布を盥に放り、ぱたぱたと走っていったモモが、クロゼットから替えの衣服を持ってくる。着替えの介添えまでしようとするものだから、それを断って。サワタリは汗で濡れた服を脱いだ。

「おまえの体で人に蹴られると、ああも痛いのだな」

「うん?」

 うなされていた、とモモは云った。モモの夢をみている間、なるほど俺はうなされていたらしい。確かに、痛かった。主人になってくれと、ねがい足に頬を寄せたら、その足で蹴りとばされるのだ。痛かった……。

「モモ、来い」

「はい、ご主人」

 とと、と足音がする。空を飛ぶ魔物のすがたの時はしない音だ。ミルキーベージュの髪、大きな黒い瞳。細い手足を従順に動かし、ベッドの傍に来たものを。

「……ご主人?」

 サワタリは抱きしめた。

「あの、えっと」

 モモはサワタリの腕のなかで硬直し、狼狽している。

「どうしたんだ、ご主人」

「魔物のすがたのおまえを抱いたことはあるが、人に化けたおまえを抱いたことはなかったな」

「おれを抱きたかったのか?」

「そうらしい」

「おれ、ご主人に抱かれるの、好きだ」

 強ばっていた体が、ゆるむ。モモは、微笑んでいるようだった。

「幸福になるんだ」

「従魔の本能か」

 哀れだな、とは声に出さず。サワタリはモモを、静かに手離てばなした。

 ノックの音に、慌ててモモが変げを解く。モモンガのすがたに戻ると、わざとらしくベッドにもぐっている。サワタリのベッドではない、モモの体のサイズの──従魔専用のベッドに。普段モモはサワタリと同じベッドに寝ている。だから、わざとらしく、なのである。

「失礼いたします、朝食をお持ちいたしました」

 細長い巨人──ソロモンの従魔であるラムスジャイアントは、居室のテーブルに朝食を並べはじめた。相変わらず、朝からとんでもない品数である。

「お食事がお済みになりましたら、呼び鈴を鳴らしてくださいませ」

 調教の行き届いた従魔は、朝食の席が整うと退室する。下膳の時でなくとも、呼び鈴を鳴らせばすぐにやってきて、懇切丁寧に客人をもてなす。まったく──調子が狂うとサワタリは思う。食事は朝昼夜と全て部屋まで運びこまれ、そのどれもが豪勢なものだった。しかも、けがをし体力を損なっているサワタリを思いやってだろう、消化によく栄養価も計算された料理の数々である。

 豪勢といえば、この宛がわれた部屋である。寝室と居室の二間続きの部屋だが──それぞれ普通の宿の部屋ならば、五つ六つ分くらいの広さはあるだろう。寝室の中央には、体格のよいサワタリが二人並んで寝られるほど巨大なベッドが、二台設えられていた(つまりサワタリが四人並んで悠々と寝られる)。それでいて、従魔であるモモのベッドは別にあるのだ。こちらもふかふかですべすべで──シーツも毛布もサワタリが見たこともないほどの高級な素材で造られている。それだけでも床面積をとるだろうに、窓辺にはテーブルとソファのセットが置かれており、壁にはこれまた重厚な書棚が曇り一つないガラス窓を煌めかせている。

 そして、続きの居室である。こちらには、なんと三組ものテーブルセットが設えてあった。一つはバルコニーのそばに置かれたソファセット。もう一つは食事を摂るためのダイニングテーブル。果ては、書斎にするらしい背の高いデスクと椅子がセットされている。どのテーブルにも、用途に合ったランプが配され、姿見からクロゼットまで調度は全て一級品。間接照明に照らされたピアノまであるのだ。

 着替えたサワタリは、食事のまえに少し体を動かそうと、杖をつきバルコニーに出た。バルコニーからは、庭園が一望できた。遠望すると、文様をつくりだすために、樹木が刈りこまれていたのがよく判る。中央の池をぐるりと回る小道から、放射線状にまた道が伸びている。白い砂利で敷き詰められた道は、さながら美しい白線だ。白線は幾何学模様を創りだし、それは左右対象となっている。白と緑のコントラストに、花壇の鮮やかな色がアクセントをつける。庭園の両端は長いアーチが覆い、それよりも外側は鬱蒼とした森が広がり──更に先はさすがに視界におさまらない。

 壮大にしてこのうえなく美麗な庭園を眼下にしては、やりにくくないこともないが。サワタリは杖を置く。それから、部屋の方を顧みた。

「……、」

 モモは、ぼんやりと部屋の隅に座っている。ソファもベッドもあるのに、床に尻をつけ、両膝を抱き、縮こまるように座るのだ。伏せられた瞳は暗い。人に化けていると、魔物の時よりも表情がよく判る。かたく結ばれた唇。今にも泣きだしそうな大きな瞳。

「モモ、手伝え」

「!」

 ぱっと顔をあげ、慌てて立ちあがる。バルコニーへと走りでてくるモモは、癒えぬ左足を庇い立つサワタリの、脇の下にもぐりこむ。

「ご主人、朝ご飯は? ご主人の好きな──ええと、くるみ! くるみのパンがあったぞ」

「そうか。後で食べる」

「ちょっと悔しいんだ。ご主人にくるみを食べさせるの、先を越された」

「待つさ。おまえはいつか、俺に胡桃を取ってくる」

 モモは笑っていた。暗い顔と、明るい笑顔がくるくると回転する。部屋の隅の床に小さくなって座っているかと思えば、熱心にサワタリの世話を焼こうとする。聖城に来てからのモモは、明らかに不安定になっていた。──おそらく、昨夜見た夢は、モモの過去そのものなのだろう。

「左側を支えてくれ」

「はい、ご主人」

 モモの肩に手をかけ、左足の体重を逃がす。いわば杖の代わりをやってもらうのだが、モモはなかなか飲みこみがよかった。左足に負荷がかからぬよう、更にサワタリの動きに制限がかからぬよう、上手に受けとめる。おかげで、杖を持ったままでは難しい箇所の筋肉も動かせる。左足の固定をモモにまかせ、サワタリはナイフを操る動作を意識しながら、体を丁寧に動かしていく。

 モモが柔軟な杖代わりをしてくれるおかげで、毎日行っているトレーニングの、七割ぐらいまではできるようになっていた。

 ふっとかれの表情をよこぎった、優しい微笑みを。サワタリは知らない。



 聖城は五つの区画に分かれているのだという。

 集合住宅アパートメントといつかソロモンが云っていたところである。聖都サクラ・パシェンスでも最高位の五人のテイマーに送られる称号があり、それが『賢聖』。聖城はその賢聖の住まいなのである。五人の賢聖のため、城は五つの区画に分かたれ、賢聖一人につき一つずつ区画を有し暮らしている──というのが、通常のことらしいのだが。

「まあね、僕はあの人苦手だったから、出ていってくれてあーよかったって感じだったけどさ」

 今日もサワタリを庭園に呼びつけ、一方的に喋りつづけているソロモンである。

「典型的な学者肌なんだよね。賢聖として崇められると、研究がやりづらいってさ。なーんか、それも鼻につくよねえ」

 とはいえ、無駄話ばかりとは云えない。世の中のことに関心のないサワタリだが、従魔についてのことは聞きながせずにいた。今ソロモンが話しているのは、従魔についての研究で、従来の学説をひっくりかえすこと幾たびか、天才のなかの天才、世界一の頭脳を持つと云われる学者についてだった。種々の研究の功績が認められ、賢聖の称号を得たものの、聖城での生活が肌に合わず、どころか聖都さえも飛び出してしまった変わり者らしい。

「でもさ、『外』の人にはあの人の名の方が知られてるっていうね。サワタリも聞いたことない? ガリレオ教授。スライムの進化の研究とか、ふつうの冒険者の間でも有名でしょ」

「知らん」

「えー、サワタリってほんと無知だよね」

 モモンガよりスライムの方がまだましだとかいうあれか。そう思いついたが、サワタリは黙って胸を押さえた。相変わらず、モッズコートのなかにはモモが入っている。常春のサクラ・パシェンスに、モッズコートは暑いのだが。サワタリは部屋に用意されたゴージャスなローブなどとても着る気になれず、インナーを薄くすることで対応していた。

 それに──。

「……、」

 サワタリは、常に手の届くところに置いている杖を握る。次の瞬間、跳ねるように立ちあがっていた。モッズコートの内側に手を入れる。ナイフのグリップ。害意は──上空、二時の方角から。

 サワタリはいついかなる時も戦闘態勢がとれる。ナイフを各所に配置したモッズコートを脱がないのはそのためでもある。ここが聖都であり、聖城であり、襲撃などあるわけがないと判じられても、尚お、サワタリはこの時、斜め上から襲ってきた魔物を感知し、斬り捨てた。だが──。

「!?」

 左が、がくんと下がった。

「僕のアビスを命ごと使っても、一瞬の隙をつくるのが精一杯かあ」

 左手に握っていた杖だ。ソロモンがそれを砕いたのだ。正確にはソロモンの従魔──つるぎの魔物を使役し、それで破壊したらしい。粉々に砕けた杖は、勿論サワタリの体重を支えることはできない。そのまま左に傾ぐ体は、庭園の砂利に打ちつけられる──はずだった。

「ご主人!」

 綺麗な音がした。ミルキーベージュの髪が眼の前をながれる。サワタリの左の脇の下にもぐりこみ、倒れかけた体を支える。トレーニングをする時、サワタリの体を支えるのと同じ要領で。負荷をやわらかく受けとめ、モモはサワタリの転倒を阻止したのだ。

「すまん、けがはないか?」

「ご主人、おれを庇ったから、変な動きになったんだろう!」

「そんなことはない。久しぶりで、なまっていた」

「左足を使っちゃだめだ、おれが支えるから、ゆっくり座ってくれ」

「座れんな」

 モモの肩に手をまわす。それで──察したらしい。賢明な従魔は、サワタリの杖代わりを全うしようと、主人の体に両手をまわす。

「これは、どういうことだ、ソロモン?」

「──それは、何だ?」

「訊いているのは俺だ。あの鳥もおまえの従魔だな? おまえは従魔を使い俺を襲い、かつ俺の杖を破壊した」

「そんなのちょっとした遊びじゃん。そんなのより! それは何だ!?」

 サワタリは無表情にソロモンを見る。ソロモンは──いつもの陽気な笑顔を消し、眼を見開いて──凝視している。細い手足でサワタリを支えるモモを。

「それは、あなたの従魔であるモモンガか?」

「そうだが」

「嘘を云え!!」

「……」

 サワタリは一つ瞬く。ソロモンは唾を飛ばし熱弁する。

「人に化けるモモンガだと!? そんなものは見たことも聞いたこともない。奇種か!? 否、奇種であれ、変げというスキルを持つ魔物など、あるものか! しかも、その完成度は何だ!? 完璧に──誰がどう見ても、僕でさえ見破れぬほど、人に化けきっている!」

「……モモンガは、変げの魔法を使わないものなのか?」

「当たり前だ! 下位も下位、最下位の魔物だぞ。そもそも、変げのスキルを持つ魔物などいる筈がない──」

 ソロモンは顎に手をあて、睨むように──頭から爪先までモモを見おろす。

「モモンガ──もん……?」

 しがみついてくるモモを、サワタリは左腕で抱き寄せる。

「おまえは、まさか、伝説の──?」

 更に眼を瞠ると、ソロモンはモモによろめくよう近づく。

「世のありとあらゆる紋を模す……よろずに化けるという伝説の魔物……模紋蛾」

 欲しい、とソロモンは譫言のように云う。

「おまえ、僕の従魔になれ」

 そうして、鉤爪のかたちで伸びてきた手が、モモの頬にかかる。

「賢聖たる僕が直々に従えてあげる。僕がおまえを使役することで、人には攻略不可と云われるダンジョンを踏破できるぞ。冒険のあとは、聖城ここに帰り癒やしの時間を与えよう。冒険でも、聖城でも、ずっと僕の傍においで。僕の調教で、おまえは強くなる。最強の従魔として、ともに大冒険をしよう。そして、ともに当世の伝説になろうじゃないか」

 モモの頬を撫でながら、ソロモンは熱にうかされたような眼で迫る。

 サワタリは──。

「……、」

 しがみついてくるモモを、一度やわらかく抱きしめて。それから、背を伸ばした。

「ご主人……? なにを……するんだ?」

 右耳にくるりまわる。左耳にくるりまわる。珠玉ラピスの契約によって生まれたピアスは、春の花々の色さえ滲まず青い。自分の耳を穿ついくつものピアスの中から、特別なそれを、サワタリは指と指で挟んだ。

「──っ」

 モモが悲鳴にならない声をあげる。サワタリは耳を引きちぎり外したピアスを、地面に放る。からん、からんと音が鳴った。耳たぶが裂け、思うよりも血が出ているのか、肩の辺りがなまぬるい。

 笑い声がした。ソロモンだった。眼の異常な熱はいくらかおさまっていたが、高らかに笑いつづけている。

「あなたは本当に物事を知らないね。そんなことをしなくても、従魔の契約は上書きができるんだよ。僕はあなたなんかより遙かに高位のテイマーなんだから、あなたと模紋蛾の契約を破棄し、上書きすることができるのに──ああでも、悪くないな」

 ソロモンは頬に落ちかかった金髪を、指にまきつける。

「つまりあなたは、おのれが模紋蛾の主人としてふさわしくないと自覚し──僕にその模紋蛾を献上するため、自ら契約を破棄してみせた」

「そういうことだな。こいつは、おまえの従魔となるほうが、幸福だ」

 指にまいた髪を解き、かれは身を乗りだす。頬が喜色に染まっていた。

「そうかい!? そうだよね!? 世界三大古書の一つ、清明の書リバ・チングミングに唯一記述があるだけの、真に伝説の魔物だからね。あなたが従えていたってしょうがないもの。うん、あなたより僕の方が、ずっとこの子の主人にふさわしい!」

「こいつはたしかに変げの魔法を使えるが、へたくそなんだ。人のかたちは、それにしか化けられない──つまり老人や子どもに化けようとしてもむりらしい。そうだ、兎に化けた時は酷いものだった。耳が長くなければ、とても兎に見えないような不細工なすがたでな」

「うんうん、まだ未熟なんだね。大丈夫だよ、僕が育てるからね。完璧な変げができる模紋蛾に育ててみせる──やりがいがあるなあ、こんな興奮はいつぶりかな!」

 ソロモンは両腕をひろげ、煌めくような笑顔をうかべた。

「モモ、という名だったかな?」

 さあ、僕のもとへおいで、モモ、と。うながすソロモンを見つめて──モモがぽつりと呟いた。

「……やっぱり、ソロモンさまは、おれのことなんか憶えてないんだな」

「うん? 何だって?」

 黄金の人。あなたの従魔にしてくれと、切なく願っていた魔物の夢を、俺は見た。

 サワタリは、右手でモモの頭を撫でる。魔物の毛の感触とは違う、人の髪の感触は、ふわふわとして優しい。

「ご主人」

 大きな、黒い瞳が、サワタリを見あげた。

「それは俺でなく、この男を呼ぶ言葉だ」

「……っ」

「おまえは、最初から──最後まで、ずっと、この男の従魔になりたかった」

「なんで……ご主人が、それを知っている?」

 サワタリは、もう一度モモの髪を撫でて。それから──いまだ健気に支えてくれている、モモの体を、右手で、左手で、そっと自分の体から離す。離してやる。

「ご主人、足、痛いだろう」

「立てなくもないな。どうやら、杖に頼りすぎていたらしい」

「ご主人、ご主人……っ」

「夢叶う時というものなど、一生見ることがないと思っていた」

 片手をあげる。幸福、とおまえが云った。幸福に、とサワタリはねがう。

 俺がねがわなくとも、きっとおまえは、ここで、幸福を極めるのだろう。

「俺は行く、おまえはここに、な、モモ」

 歩こうと思えば、歩けるものだった。左足を引き摺る、不格好な歩きかたではあったが、サワタリは淡々と歩んだ。やがて聖城を出て、聖都を通りぬけ──サワタリはサクラ・パシェンスを、去った。

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