5.どうしてこうなった②
ヤグルマギクの話によると、夜会の支度をしていたメイドが、最後の仕上げに香水の瓶を手にすると近くにいたヴァイオレットが突如大泣きし、香水を指差し「それイヤ」と訴えた。夫人がそれならとヴァイオレットに選ばせようと幾つかの香水が入った箱を見せると、今度は鼻を抑え、部屋の隅に隠れてしまう。子供特有のイヤイヤ期もしくは遊びたいだけなのかと対して気にも止めず、支度を終えぐずるヴァイオレットを連れ夜会へ出席したが、挨拶回りをしている最中も終始鼻を抑え自身の母の背に隠れながら挨拶だけはきっちりするので、周りも単に照れているだけだと思っていた。
「妹が母の前に出て、挨拶出来たのは1人の婦人のみで、その方が「顔色が悪いようですが何かありましたか?」と妹に聞いて初めて両親が事態に気づいたというわけだ」
「貴族は香水を使いますものね……それが夜会ともなれば香りに酔ったのでしょう」
カルミーユは、ヤグルマギクの話を聞きながら母が生前聞かせてくれた夜会での苦労話の中に、香水の香りで悪い意味で酔ってしまった話があった事を思い出す。成人して初めての夜会での出来事だったらしいのだが、大人で酔うのなら子供の――ましてや幼児の鼻にはその数倍キツいものだっだろう。とても可哀想だ。
「母のスカート部分には香水がかかって無かったから手とそれで香りを抑えてたみたいなんだ」
「出席なさっていただけでもヴァイオレット様はとても頑張っていらっしゃったのでしょうね」
「帰ってきた時に、私と弟に褒めろと威張るくらいにはね」
妹が可愛くて仕方が無いのだろう。ヤグルマギクの表情は優しいものだった。
「両親と一緒に妹に色々聞いたんだけど、声を掛けてくれたご婦人以外は「鼻が変になる」と言ってた」
「そのご婦人の香りは平気だったんですね?」
「あぁレラ婦人の事は知っているよね?」
名を聞いてカルミーユは納得する。レラ婦人ことレラ・ラシーヌは同じく香りに敏感な方で、店の常連と言って良いくらい贔屓にして下さっている。
「レラ様からお聞きになったのですね?」
「あぁそうだ。調べたらカルミーユ嬢に行き着いたので、声を掛けたんだ。店に行っても君に会えるかは分からないし、
「あら嬉しい事を言って下さるのですね。ですが、私には何の面白みもありませんよ?」
カルミーユは、自身をほぼ平民寄りの商人だと思っているので、謙遜ではなく真面目に答えたのだが、ヤグルマギクは若干呆れたような眼差しで見てくる。
「カルミーユ嬢、
「本音を言えばそうですわね。私は特筆すべき物があまりありませんし……」
「聞き方を変えよう。君からは僕がどんな人物に見える?本音で答えてくれ」
カルミーユは、どう答えるべきなのか返事に詰まる。下手な発言をすれば身分にうるさい貴族社会では不敬に当たる可能性もある。だがヤグルマギクは真っ直ぐにカルミーユを見ていた。
(この方にはお世辞を並べる方が失礼なのかも)
「そうですわね。第一印象は勉学に優れ、人当たりも良く、落ち着かれている方だと思っておりました」
「今は違うと?」
「先程申したものに加えて、警戒心が強く、常に周りを観察してから動き、たまに自身の動き易いように誘導なさったりと本音が見えにくいお貴族様だなぁと」
カルミーユは冷や汗をかきつつもなるべくオブラートに包んで答えた。「つい先程から猫を被った腹黒い方なのではと思っています」とはっきり言わなかっただけ自分を褒めたい。ヤグルマギクと話していると、下手すれば警戒心をポロッと取り払われてしまう。それでは、貴族社会や商売人としても生きて行けなくなる。
「でも君は僕の良いように転がされてくれないよね?」
首を傾げにっこりと笑うヤグルマギクに、この人侮れないとカルミーユは、引き攣りそうになる顔を何とか抑え込む。
「これでも商人ですから……」
「僕たちと同年代で、同じ商家の子でも君みたいな子はいないの分かるかい?僕が君と話してみたいと思ったのはね」
ヤグルマギクは1つ1つ指を立てていく
「1つ試験の成績が僕とほぼ同じだった事。1つ君は入学当初から僕と一定の距離を保っている事。1つこの歳で商人として切り盛りしているところ。そして同じ歳で既に当主としての責務を果たせている事。そもそも君みたいに既に家業も全て取り仕切っている同世代を他に知らない」
「私1人の力では全て取り仕切るのは無理ですわ。支えてくれている皆の力添えがなければこうして立っている事も出来ませんもの」
「支えたいと思える人柄が君にあるという事だよ。僕自身は君から色々学びたいと思う程にね」
ヤグルマギクはお世辞でも無く本気で言っているのが分かり、カルミーユは驚くと同時に嬉しかった。母が亡くなってからは扱いやすい駒使いとして見られていたので、母を含めた
「有難うございます。私もヤグルマギク様から色々学ばなければいけない立場ですけどね」
カルミーユは、ふわりと微笑み礼を言ったのだが、何故かヤグルマギクは目を見開き口元を押さえている。
「ヤグルマギク様?」
「その笑顔は厄介だ。非常によくない……」
「ヤグルマギク様?どうかされました?気分が悪いのですか?」
小声で何を言っているのか分から無いので、仕方なくヤグルマギクの名を何度か呼ぶ
「すまない。少し打ちのめされていた」
何に?とは聞かない事にする。聞けば後戻り出来そうに無いそんな予感がしたからではない多分……
「えっとご依頼はどの様に?」
本題からかなり逸れてしまったが、気を取りなをして問えば、ヤグルマギクは少し考える様に押し黙る。
「妹の体質は治るのだろうか」
「完全に治るかは私にも分かりませんわ。ただ改善出来るようにお力添えはさせて頂きます。ですが3歳ですので妹君への負担が大きくて……」
3歳の子供に苦手な物はどれか調べる為に、様々な香りを嗅がせるわけにもいかず、かと言って何もしなければ、将来困るのも目に見えている。
夜会はまだ先だとしても学園に通うとなれば、少なくて3年の間に少しでも耐性をつけておかなければ、せっかくの学園生活が辛いものになってしまう。古くからある伯爵家の令嬢だ。目の前に座る兄ヤグルマギクみたいに良くも悪くも目立つのだ。
「大人だったらどう言ったことをするんだい?」
カルミーユは少し考え、戸棚から小さな入れ物を1つ取り出し、温めていたお湯をカップに注いでゆく、入れ物の中身をポットにいれ蒸らしつつ先程まで座っていた席に戻る。
「それは?」
「もう少しだけお待ち下さいな」
時間を確認してカップに注ぎ、ヤグルマギクの前に置いた。
「まずは香りを嗅いでみて下さい」
「これは……ラベンダー?」
「そうです。ラベンダーにはリラックスや鎮静効果があるんです」
「確か鎮痛剤としてや消毒面でも使われていたね。それとラベンダーは妊婦や幼児には良くないと聞いた。確かに妹はまだ幼過ぎるな」
「ヤグルマギク様、流石ですわ」
「うっ……」
ヤグルマギクはまた口元を手で覆いつつ何故か深呼吸している。カルミーユは、同世代との少々専門的な話が出来ないので、心からヤグルマギクとの会話を楽しんでいた。だから自身の表情が、生き生きとした愛らしい笑顔をヤグルマギクに向けているのに気づくはずもなく会話を続ける。
「妊婦や幼児は色々な物に注意が必要ですので、ラベンダーですと通経作用があったりするので、妊婦や新婚の方にはお勧め出来ません。先程言った方法なのですが……私が読んだ書物の中に、種類の違う精油を嗅ぎながら訓練するという内容が記されていました。店でもお客様の話を聞きながら実際に香りを嗅いでもらいつつ商品を作っていますが、ヴァイオレット様はまだ幼いので、これらの方法はあまりおすすめ出来ません」
「むしろ鼻を抑えて逃げそうだ」
匂いに敏感でまだ自身の気持ちもうまく伝えられない子にそんな苦行させるわけにはいかない。
「なので、まずは逆です」
「逆?」
「はい。アルブル家にいらっしゃる皆様の協力が必要な大規模な事になりますが……」
「構わないよ。少しでもあの子が生活しやすくなるのなら」
カルミーユは手短にあった紙を引き寄せ、必要事項を書いていく。
「まずアルブル家にいる皆様の持っている香水など香りがするのを日別でいいので少しつけ、ヴァイオレット様の反応を見てその様子を記録して下さい」
「近づいたり軽く会話する程度で良いのかい?」
「はい。ヴァイオレット様は嗅覚がとても優れているようなので、少量でも分かると思います。後それに加えてその香水が何処で買った物なのかなど、香水の内容を書いておいて下さい。それから記録の際に自身の香水で好きな香りの順位と出来れば体質なども記して頂けたら嬉しいです」
カルミーユが書いているのは、今しがた説明した内容を分かりやすく記したものと実際記録してもらう時の大まかな書き方を記した。
「家の者に早急に用意させるよ。何故自身の好きな香りや体質まで必要なんだい?」
「使用人にも休暇はありますしその時くらい自身の好きな香りをまといたいと思いませんか?香りによっては、ヴァイオレット様に合わせつつお好きな物を使えるようにする事は可能です」
ヤグルマギクは納得したように頷いた後、カルミーユを見てにっこり微笑み言った。
「カルミーユ嬢は何か望む物はあるかい?」
「正式なご依頼ですし……料金に関しては頂くつもりですが……」
「それはきっちり払うよ。そうでは無くて、店で本来すること以上の事をしてくれるでしょ?その分の対価は何がいいか聞いてるんだけど……」
カルミーユは、それを聞いて少し笑う
「ヤグルマギク様、今回のご依頼は妹君の件ですが、それに先立ちまして、皆様のお使いになられている物も私どもの方で制作するのですよ?多くの人の資料も集まるのでから店と致しましては十分過ぎるほど利益がありますわ」
「じゃあこうしよう。僕が君に礼をしたいんだ。何か無いかい?」
ここまで言われたら受け取らない方が失礼だ。カルミーユはどうしようかと少し悩む
「でしたら貴族の作法などについて教えて頂けませんか?」
「既に十分振る舞えてるけど……」
「これはほぼ商人の振る舞いですわ」
「貴族も似通ったものだよ。僕も商人の事について君に色々聞きたいからこれでは、礼にならないなぁ」
これもダメかとカルミーユは内心困り果てていた。
望みを聞かれても何も思い浮かばない……もしこの場にトマやリリアナが居たなら確実に「これだからお嬢様は!欲を持って下さい」と言ったであろう。カルミーユは考えた末言った。
「……保留にして頂いて宜しいですか?」
「いいよ。思いついたら教えてね。ところで、僕も時々ここに来て調べ物して良いかい?司書に許可は貰いに行くよ」
カルミーユはメアリー1人だが、ヤグルマギクはその他大勢から毎日囲まれ追い回されているのだ。落ち着いて勉学に励みたい気持ちはとても共感できる。
「私もお借りしてる身ですし、構いませんよ」
カルミーユが笑顔で答えれば、ヤグルマギクはふっと嬉しそうに微笑んだ。
(貴公子の笑顔は威力が凄いわ)
「後ね。僕と友人になって」
「え?」
「僕がここまでリラックスして話せる人はあまりいないんだよ。君は信用たる人だから
ずっと気を張っているのは確かに大変だし、カルミーユ自身も不思議と落ち着いて話が出来ているのだ。
「私で良ければ……」
「有難う。だから2人の時はもっと砕けて話してね」
茶目っ気たっぷりに言ったヤグルマギクにカルミーユは即座に返せない。
(不敬になったらどうしよう。いやここは腹を括るのよ。貴族としての振る舞いをこの人から聞けば変わるかしら)
「……努力致しますわ」
ヤグルマギクは可笑しそうに笑う。
「寮に戻って早速家に連絡するよ。放課後は大抵ここに居るのかい?」
「ええ」
「次は何かお茶菓子持ってくるよ」
「では、私はお茶を用意しますね」
扉に向かうヤグルマギクを見送ろうと近くに寄れば、唐突に彼が振り返りカルミーユの手を取った。
「言い忘れてた。僕の事はヤグルって呼んでね!じゃあまたねルミー」
甘い笑みを浮かべカルミーユの手の甲に軽くキスをして颯爽と部屋を後にする。扉が静かに閉まると同時に、カルミーユは力が抜けたように床に座り込んだ。その顔は真っ赤で、呆然と先程取られた手を見つめている。
学力はさて置き、極力目立たないように過ごして来たのに、まさかの学園内で1番注目されている伯爵家の方と友人になるという知られれば確実に平穏から程遠い生活を送る事になる――
「どうしてこうなった」
カルミーユの自身への問いは虚しく部屋に響くのであった。
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