第6話 梅酒の歴史
今日では広く飲まれるようになっている梅酒だが、それではいつ頃から作られていたのか。
具体的な始まりは明らかになっていないが、延宝3年(1675年)に京都の医者で歴史家の黒川道祐が記した「
それによると「梅酒方 梅二升(3.6L)、古酒五升(8L)、白砂糖七斤(4.2㎏)、又は青梅四〇個、酒一升(1.6L)、砂糖百六十目(600g)で作る。
ほぼ熟した梅を桶に入れ、灰を一升加えて一晩水に漬け置く。翌日梅を取り出して一個づつ布でよく拭いて、先に用意した梅、酒、砂糖を併せて壺に詰め、きっちりと蓋をして二十日ほど漬けておく。
その後に梅を取り出し、ふたたびきっちりと蓋をして、二十日程経ったら完成」とのこと。
灰を入れた水に一晩浸すのは、梅に含まれるアクを抜くためだ。この方法は、現代でもワラビやゼンマイの下処理で使われることもある。
古酒(製造後3年以上の酒)を使うは、古酒は作ってから長期間経っても飲める=腐らない安定した状態にある酒なので、梅と砂糖を入れて糖分と水分が増えても劣化しにくいのが理由だ。
焼酎使えばよかったんじゃない?とも思うが、記されていないということは使わないだけの理由があったのだろう。調べた限りではわからなかったが、薬酒に使う物ではないとみなされていた、(当時の焼酎は)美味しくないので使いたくないなどがあったのかもしれない。
こうした部分以外は、現代の物とほぼ同じなので、梅酒の作り方は江戸時代初期の時点ですでに完成されていたと見ていい。
元禄10年(1697年)刊行の本草書(博物学本。百科事典的な本)「本朝食鑑」でも、ほぼ同じ作り方が紹介されている。
こちらでは、梅は取り出さずに長い間漬けてもいいよ、とも書かれている。
この本では庶民の間で使われている食材や調理法が広く紹介されているので、刊行された元禄時代には梅酒が一般的な飲み物となっていたと見ていいだろう。
とはいっても砂糖、それも白砂糖は結構な貴重品で、江戸時代初期は輸入品しかなかった。
徳川吉宗の政策によってサトウキビの栽培と砂糖(和三盆)の製造が国産化されたのが18世紀前半、外国からの精糖技術が入ってきて庶民でも気軽に砂糖が味わえるようになったのは明治に入ってからだ。
作り方が知れ渡っていたと言えども、江戸時代にはまだ一般人が気軽に楽しめるような物では無かっただろう。
ちなみに本朝食鑑では梅酒の効能も書かれており、「痰を消し、渇きを癒し、食欲を増し、毒を消し、のどの痛みを止める」とある。毒を消すことはさすがにないと思うが、それ以外については現代でも知られている効能だ。
そうやって現代にいたるまで続けられてきた梅酒作り。一般人でも砂糖が手に入れられるようになってきてからはご家庭の味にもなっていたが、実は戦後から1962年になるまでは、家庭での梅酒づくりは酒税法違反の行為であった。
とはいっても誰も守ってなかったので、1962年の酒税法改定で蒸留酒を使えば個人で梅酒を作ってもOKになり、届け出をすれば飲食店でも自家製梅酒を提供できるようにもなったのである。
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