[まさか◯県]

「食欲ない?」


 事務所に戻り、ぼんやりとソファーに座る私を見ながら佐久田華子が言った。

 

「何だかお腹が空いてるのかいないのか分からない感じで・・・・」

「まあ、ショック状態だものね。私もまだ頭の中の混乱が収まってないし。それに、これよね」


 言いながら床を指さす。

 ベージュのカーペットに目立ちすぎる赤いシミ。

 明日香が転がりのたうち回った壮絶な跡。


「カーペットクリーニングに出すより取り替えた方がいいかしらね・・・・」

「あの・・・・」

「ん?」

「明日香ちゃん、腕は大丈夫でしょうか、その・・・・切断なんてことには・・・・」

「え、まさかそこまでは大丈夫でしょ。神経はちょっと傷めたみたいだけど。それだってもちろん大変なことだけど・・・・でも、片手で自分の腕を握り締めてあんなことになる? 普通。裂傷で大量出血して手術だなんて。まして明日香ちゃん華奢きゃしゃだし。どうやったらあんな・・・・。トラウマのフラッシュバックでいわゆる火事場の馬鹿力みたいなのが出たのかしら・・・・」


 つくづく不可解という怪訝な表情で佐久田華子は大きく首をかしげた。

 確かに普通なら有り得ないと思う。

 だから、それだけにその有り得なさが私に起因しているのでは、と、していたならどうしたらいいのだろう、と、まとまらない思考が辛い。


 そして何よりも、ストレッチャーに横たわる明日香が一瞬、確かに私に向けたあの殺意を放つような目。

 あの意味は、一体──


「そういえば笙子さん、◯県から出て来たんだったわよね?」

「え・・・・はい」


 ◯県──その県名を聞くだけでビクッとなる。

 心に墨のような黒い闇が広がり不安感が一気に押し寄せて来る。

 そして佐久田華子の次の言葉がその不安感をさらに増大させた。


「奇遇ね、明日香ちゃんも◯県から来たのよ」

「えっ」

「驚いた? 私たちも、また◯県? て思ったけど。かなりギリギリの状態から逃げ出して来てね、少し落ち着いたと思ったらとんだことになっちゃって──」

「あのっ」

「え?」

「何市・・・・ですか?」

「ああ◯県の? Y市」

「Y市・・・・」

「近いの?」

「隣接・・・・してます」

「あら、そうなの? ほんと奇遇ね」


 ◯県Y市。

 私がいたJ市は北部、Y市は西部。 

 

 訳ありの環境から決死の覚悟で逃げ出した2人の女。

 救いを求めて駆け込んだ先の一致。

 2ヶ月間違いなだけの時期。


 これは、本当に偶然なのだろうか?

 黒い胸騒ぎが押し寄せてくる。

 単なる偶然・・・・偶然・・・・じゃなかったら?


 その時、佐久田華子のスマホが鳴った。


「あ、どう? 様子は──えっ!?」


 驚愕の声を出し、息を一瞬止めたような様子でこちらを見た。

 間違いなくバッドニュース。

 胸騒ぎがさらに大きくなる。


「うん、うん、分かった。じゃ、とにかく連絡を──」


 病院に残っている多嘉良恭子からだったであろう電話が終わり、蒼白な顔面と化した佐久田華子が私に言った。


「明日香ちゃん、腕・・・・切断だって・・・・」


 眼前がんぜんの景色が揺れ、私はその場にくず折れた。

 



 

 

 


 

 

 

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