#3「伊波冬璃の本性」


「――歌恋かれん、アナタは私だけのモノよ……」


 俺はそのとき、見てはいけないものを見てしまった……と思った。


 さっきまでの大人しい印象の伊波さんとはまるで別人。


 白のキャンパスに黒いインクを落としたかのごとく、伊波さんの端正で綺麗な顔が憎悪の色に染まりきっていたのだ。


 な、なんだよこれ……。


 これが、伊波いなみ 冬璃ふゆりの本性だと言うのか。


 俺は扉の隙間から目の当たりにしてしまったモノをにわかには信じられなかった。


 そのあまりの衝撃に体の力が抜けてしまったためか、不意に抱えていた缶コーヒーがスルッと腕からこぼれ落ちる。


 あ、やべっ……‼


 静寂が張り詰めていた廊下に、カンコロンッ――という軽快な音が鳴り響いた。


「――誰ッ⁉ だ、誰かいるの……?」


 部室の中から投げかけられた声。


 扉越しにも、こちらに注意が注がれているのが分かった。


 ドクンドクン、と自分の心臓の音が耳朶に響く。


 咄嗟に、隠れなければ……と思ったものの、体が思うように動かない。


 あたかも足に根っこが張ったかのようだった。


 そして、中から部室の戸が開け放たれる。


「そこでなにをしているんですか?」


 背筋が凍るような冷たい声音。


 一切の感情がない能面のような表情。


 大きな猫目に闇が渦巻き、ただひたすら俺の顔を見据えている。


 俺は無意識のうちに少しでもストレスを緩和しようと、視線をそらした。


「あ、いや……なにも見て」

「嘘。聞いていたのでしょう? 見ていたのでしょう? 知ってしまったのでしょう?」


 息継ぎもせず、矢継ぎ早に、責め立てるように、問い詰めてきた。


 俺は冷や汗が頬を伝うのを感じながら、虚空に視線を彷徨わせる。


「な、なにを……?」

「――私が歌恋を愛していること、を」


 あまりに恥ずかしげもなく言うものだから、一瞬なにを言ったのか分からなかった。


「ど、どういう意味だよ……」

「そのままの意味よ。私は歌恋を愛しているの。あの子は私だけのモノ……他の誰にも譲ってあげないんだから。歌恋は、私だけの歌恋なのよ」


 まるで、子供が玩具を独り占めするみたいに伊波さんは言った。


 俺は、目の前の少女に恐怖すら覚える。


「なに言ってんだ、お前……」

「アナタには分からなくて結構よ」


 分かりたくもねぇよ……。


 そう思いながら、床に転がった缶コーヒーを拾い上げる。


 部室に入り、買ってきた飲み物を長机の上に置いた。


 その間、伊波さんが警戒するように俺の様子を窺っているのが分かった。


「……別に、誰にも話すつもりはねぇよ。面倒事に巻き込まれるのはごめんだ」

「いいえ、知られたからには放っておけないわ」

「はぁ……。まぁ、そうだよな」


 思わず盛大なため息を漏らしてしまう。


 ここで変に反抗して、かえって面倒なことになるのは避けたい。


 相手の要求に素直に応じて、最小限の労力で済ませられればいいが……。


 さっきの様子からして、「知られたからには生かしておけない」とか言い出しそうなものだが、さすがに命までは取られないと信じたい。


 まぁ、適当な弱みでもなんでも握らせれば満足してくれるだろ。


「で、一体なにをすればいいんだ? 初恋の相手か? それとも全裸ダブルピースで――」

「そんなもの微塵も興味がないわ」

「じゃあどうすれば……」

「たしかアナタ、歌恋の幼馴染だったかしら?」

「ああ、そうだけど」

「そう、アナタには利用価値がありそうね」

「利用価値……?」


 一体なにをするつもりなんだ……?


 そんな問いを投げかける前に、伊波さんは肩にかかった長い髪を払って、不敵に笑う。



「――私のに協力しなさい」

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