竜の檻
鍵崎佐吉
竜の檻
その日の餌は酷い味だった。ほとんど腐りかけの肉と、人間どもの食い残しを混ぜて作られたそれは生臭い泥のようだ。戦が激しくなるにつれて餌の質は落ちていくばかりで、人間どもにあまり余裕がないことが伝わってくる。しかし不味いからといって食わなければいずれ餓死するだけだ。もう少し腹が減れば食欲も湧いてくるかもしれない。そう考えて俺は目を閉じ、時が過ぎるのを待つ。
しばらくして、誰かが近くにやって来た気配がした。しかし外は静かで戦が始まったような様子はない。かといって餌はまだそこにあるのだから給餌というわけでもないだろう。俺はうっすらと目を開け、目の前の光景を確かめる。すると人間の女が一人、檻の隙間から俺の餌にゆっくりと手をのばそうとしていた。
「おい」
そう呼びかけると女は跳び上がり、後ずさって背後の壁にぶつかった。黒い革服は着ていないので、どうやら軍人ではないようだ。しかし軍人でないなら、いったい何の用でここに来たのだろう。怯えているらしい女に向かって俺は問いかける。
「ここで何をしている」
「……えっと、その、餌をちょっと、分けてもらおうかな、なんて」
「なぜ人間が俺の餌を欲しがる」
「お腹空いてて……」
その女は他の人間に比べればずいぶんと小さい。食料の奪い合いに負けたのか、それとも何か別の理由があるのか。なんにせよ食欲が湧かないことに変わりはなかった。
「欲しいならやる。勝手に食え」
「え、いいの……? その、ありがとう」
そう言うと女は餌を手でつかんでそれを頬張り始める。人間にとってもこれは不味いのかと思っていたが、案外そうでもないのだろうか。しばらくして女は何かに気づいたようにこちらに向き直る。
「……あなたは食べないの?」
「不味くて食う気が起きない」
「へぇ、私よりいいもの食べてるんだね」
女は自分の指を舐めながら笑った。こんな風に話しかけてくる人間は滅多にいない。随分変わった奴だと思った。
「竜って、もっと怖いのかと思ってた」
「怖くないのか、俺が」
「だって優しいし」
すると餌を貪っていた女の手がぴたりと止まった。
「……ここの人間は最悪だよ。人をこき使う癖にパン屑すら分けてくれない。あいつら、私が死んだってかまわないと思ってるんだ」
人間は人間を殺す。そういう生き物だ。俺には女が何に怒っているのかわからなかった。
「それは俺も同じだ。お前が生きようが死のうがどうでもいい」
「……それもそっか。まあ、でも、ありがとう。おかげで今日は生きられそう」
そう言って女は去っていった。
次の日も餌の味は酷かった。俺はうんざりしながらもそれを食うほかない。これを平然と食えるあの女は、いったいどんな生き方をしてきたのか。そんなことを考えているとまた人間の近づいてくる気配がした。現れたのはあの女だった。
「……食べていい?」
「好きにしろ」
「えへへ、ありがとう」
そう言って女は檻の側に腰を下ろす。その気になれば腕の一本くらいは食い千切れるかもしれないが、あまりにも細いその腕を見ても食欲は湧かなかった。
「そういえば名前とかあるの?」
「人間たちはグレイスと呼ぶ」
「ってことは親にもらった名前は別にあるの?」
「さあな。俺は人間に育てられた。それ以上のことはわからん」
「そっか……」
俺が知っているのはこの檻の中と戦場だけだ。人間に飼われていない竜がどんな生き方をしているかなんてわからない。俺の知っている竜は、人間のために生き、人間のために死に、そして人間を殺す生き物だ。いつか人間に殺されるその日まで、俺は人間を殺し続ける。そういう風に教えられてきた。
「私はネア。まあ、自分で勝手にそう名乗ってるだけだけど」
「……そうか」
「誰も私のことなんか名前で呼ぼうとしないの。竜にだってちゃんと名前があるのに。ほんと酷い扱いだよ」
「……そうだな」
「ところでグレイスって飛竜ってやつだよね? 翼が生えてるし。ねえほんとに飛べるの? 飛ぶのってどんな感じ? やっぱり気持ちいいのかなぁ」
「……ああ」
結局ネアは餌がなくなるまで延々と話し続け、やがて気が済んだのか「またね」と言って去っていった。どうやらネアにとっては人間よりも竜の方が話しやすいらしい。つくづく変わった奴だと思ったが、まあ退屈しのぎにはちょうどいい。
言葉通りネアは次の日もやって来て、その次の日もまたやって来た。俺の餌を食いながら色々な事を話して、満足すると去っていく。餌の味は相変わらず酷いものだったが、ネアがいる時はあまり気にならなかった。
また人間のやってくる気配がする。しかし現れたのはネアではなく軍人たちだった。その中の一人が俺に声をかける。
「グレイス、戦だ。準備はいいな?」
「問題ない」
檻が開け放たれ、代わりに首輪がかけられる。そういえば、とふと思う。俺はこいつらの名前を知らない。軍人は俺に名乗ろうとはしないからだ。しかしあえて尋ねる気にもならなかった。こいつらが生きようが死のうがどうでもいい。俺はただ人間を殺す、そのためだけに生きているのだから。
血と火薬と何かの焦げる匂い。慣れ親しんだ戦場の空気だ。眼下に捉えた人間の群れは、俺の姿を見ると大声で喚きながら走り出す。俺は翼をたたんで急降下し、背を向けて逃げようとした男を踏み潰す。逃げ惑う人間を尾で薙ぎ払い、地面に倒れてうめいているそいつらの腕や頭を噛み千切る。じわりと口の中に広がる血の味が煩わしい。これも肉には違いないが、やはり人間は血も肉も不味い。散発的な抵抗はあったが人間が携行できる大きさの火器では竜の鱗を貫くことはできない。俺は手当たり次第に暴れまわり人間どもを蹂躙する。
辺りの敵はだいたい片付けた。次はどうしようかと考えていた時、どこからか人間の低いうめき声が聞こえた。どうやらまだ生き残りがいるようだ。声のした方を見ると若い男が一人、泥の上を這いながらゆっくりと進んでいるのが見えた。その両足は砕けて骨がむき出しになっている。俺がとどめを刺そうと近づいていくと、気配を察知した男は声を上げる。
「くそが……! くそがっ……! こんなところで、死んでたまるか……! 俺はまだ……くそっ!」
なぜ人間はこんなになってまで生にしがみつくのか。俺には到底理解できない。だがその男を見ていると、なぜだかネアのことを思い出した。俺は男に問いかける。
「なぜ足掻く。その傷ではどうせ助からない」
男は目を見開いて俺を見つめ返す。しばしの沈黙の後、男は吐き捨てるように言った。
「それが……人間だからだよ。地獄に落ちろ、トカゲ野郎……!」
不意に前方から爆発音が響き目の前の地面が吹き飛んだ。おそらく敵軍の砲撃だろう。直撃はしなかったが男の体は既に跡形もない。
敵は歩兵を下がらせて遠距離からの砲撃でこちらを牽制する。その時後方から甲高い笛の音が聞こえた。後退の合図だ。俺は折り重なった屍を踏み越えて、再び空へと羽ばたく。風の音に紛れて男の声がいつまでも響いていた。
昨日負った傷が痛む。死にはしないだろうが、いつにも増して食欲はない。治療を終えた軍医が去っていくと、それを見計らったようにネアが姿を見せた。
「……怪我したの?」
「大したことはない」
「そっか」
そう言っていつかと同じように檻の側に腰を下ろす。だが今日はなぜか餌に手を付けようとはしなかった。
「……グレイスは、人を殺してるの?」
「そうだ」
知らぬわけではなかっただろう。ただ、忘れていただけだ。俺は竜であり、竜とは人間を殺すものだ。ネアは黙ったまま動こうとはしない。
「俺が怖いか」
「怖くはないよ。……でも、少し悲しい」
恐怖は俺にも理解できる。だが悲しみはわからない。人間を殺すのに、それは必要ないからだ。言葉も、感情も、名前も、この不味い餌も、全て人間を殺すために人間から与えられたものだ。ただネアだけは、俺に人間を殺させようとしなかった。
「一緒に逃げられたらいいのにね。どこか遠くに」
「お前はどこへでも行けるだろう」
「無理だよ。私はグレイスみたいに強くないから、一人じゃ生きていけない。どんなに辛くてもここでしか生きていけないんだ」
ネアはその小さな手で檻に触れる。頑強な鉄の檻は竜の力でも壊すことはできない。壊そうとしたことがあるわけではないが、軍人たちは皆そう言っていた。
「ねえ、グレイス」
「なんだ」
「もし私がこの檻を開けたら、その時は私を連れていってくれる?」
「どこへ」
「そうだなぁ。とりあえずは、空に。その先のことは、その時考えよう」
ネアの目はここではない遠い場所を見つめていた。俺は人間を殺すために生きている。人間を殺さなくなった時、俺はどうなるのだろうか。そんなことは今まで考えた事もなかった。俺はしばらくしてからその問いに答える
「いいだろう。だが無謀なことはするな」
「……うん、わかった」
自由を欲したわけではないだろう。ただ、ネアを悲しませたくないと思った。
ついに餌が二日に一度になった。どうやら戦況は相当厳しいようだ。あれ以来ネアはここに来ていない。まさか本当に、この檻を開けるために鍵を盗み出そうとしたのだろうか。それに失敗したのなら、兵士たちに殺されてしまっていても不思議ではない。何か漠然とした衝動と、強い喪失感を覚える。これが悲しみだろうか。しかしそれを確かめる術はない。
俺は人間にでもなったつもりだったのだろうか。竜が望んでいいのは、せいぜい味の良い餌くらいだ。過ぎた望みは身を滅ぼす、そんなことは最初からわかっていたはずなのに。どれだけ経っても深い
何か激しい物音がして俺は目を覚ます。爆発音と何かが砕けるような音。砦全体がうなりを上げるように鳴り響いている。何が起こっているのか定かではないが、敵の攻撃を受けているのは間違いなかった。しかしいつまで待っても軍人たちは現れない。やがて通路の向こうから火が上がっているのが見えた。煙の臭いが立ち込め、あっというまに視界が霞んでいく。俺は自分が人間たちに捨てられたのだと悟った。
檻を壊そうとは思わなかった。仮にここから出られたとしても、どう生きればいいかわからない。やはり俺は竜なのだ。あの男のように生に縋りつくことすらできない。俺は目を閉じ、死が訪れるのを待った。
その時、爆音に紛れて何かが駆けてくる音が聞こえた。
「おい、おい! なに呑気に寝てんだよ!? 早く起きろ、グレイス!」
そこにいたのはネアだった。煤で黒くなった体に所々擦り傷を負っている。そしてその手にはこの檻の鍵が握られていた。
「生きていたのか」
「勝手に殺すな! くそ! これどう使うんだよ!?」
「落ち着け。穴に差して右に回せ」
「え、えーと、こう?」
鈍い金属音と共に檻が開け放たれる。檻の中でも戦場でもない場所がそこに広がっていた。恐れは、ある。それでも、ネアを死なせたくなかった。俺は初めて自らの意思で檻の外に出た。それを見たネアはそのまま床にへたり込む。
「はあ……なんとか間に合った。これ、取ってくるの大変だったんだぞ。軍のやつらはもういなかったけど、あちこち崩れてるし、燃えてるし——」
「後で聞く。早く乗れ」
「え? 乗れって……」
轟音と共に目の前の通路が吹っ飛んで天井が崩れ落ちる。ネアは息をのんで何も言わずに俺の背に飛び乗った。俺は瓦礫を踏み越え、露わになった空へ向かって駆ける。
「行くぞ、ネア」
「うん……!」
行く先などわからない。それでもただ生きるために、君を空に連れていく。黒煙を切り裂いて俺たちは空へ舞い上がった。
竜の檻 鍵崎佐吉 @gizagiza
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