第18話「妖精の神は軽やかに笑う」

 気がつけば周囲の景色が変わっていた。

 汚泥と暗闇に覆われ、羽虫と蛆虫が蠢いていた世界は、澄んだ泉の水底のように光に満ち溢れている。絶えず光の粒が降り落ち、燦然と輝きを放ちながら砕けている。

 神がその権能を振るう場所、神域と呼ばれる聖なる土地が、本来の姿を取り戻していた。


「こんなに呼吸が軽いのは、久方ぶりだな」


 目の前に立つ美丈夫も見違えるほどの変身を遂げている。六本の腕に薄い翅というのは相変わらずだが、邪悪が取り除かれ純粋な神力の光を帯びている。

 青い髪がゆらゆらと広がり、翡翠の瞳は喜びに満ちていた。


「突然押しかけてしまって申し訳ない。少々手荒になってしまったが……」

「いいや。魔に飲まれそうになっていたところを助けられた。まさか、わたしが人に救われるとは。感謝する」


 正気を取り戻した泉の神は、ずいぶんと気さくな物腰だった。これでおそらく千年ではきかないレベルの年齢なのだから、神というやつは分からない。


「名前を聞いていなかったな。私もかつて様々な名を持っていたが、妖精たちからはララルーと呼ばれていた」

「俺はマサトだ。常星様とか、炎星とか呼ばれることもあるが」

「複数の名を持つことは神にはよくあることだ」


 ララルーはそう言って笑う。

 人とは全く異なるスケールで生きる彼らにとって、名前もコロコロと変わるものの一つなのだろう。それでも彼は、妖精たちが呼んでくれた名前を大切に思っているようだ。


「俺がこちらへやって来た理由は聞こえていたか?」

「朧げながらな。人の子でありながら、天に星を上げたいと?」


 魔神として暴れていた時も多少の自我はあったらしい。俺は頷き、ここを訪れた理由を話す。


「なるほど……。人にしては妙な力に満ちていると思っていたが、そうだったのか」

「神は話が早くて助かるよ」


 俺が別の世界からこちらへ転生してきた存在であること、その際に何度も転生を繰り返し、特殊な力をいくつも手に入れたこと。その転生の繰り返しが原因で炎星教が起きたこと、転生が終わったことで炎星教が混乱に陥っていること。

 天界の事情も包み隠さず話すことができるから、ファナに説明するよりもよっぽど楽だった。


「それで、新たな星を生み出すにはどうしたらいいだろうか」

「そうだな……」


 ようやく本来の目的に入ることができた。

 俺が問いかけると、ララルーは顎に指を添えて考えこむ。


「星々というものは、個々が神々の輝きだ。彼らは夜毎に地上を見つめ、その営みを確かめている。あまりにも数が多いゆえ、時の移ろいと共に巡りながら」


 ララルーが語ったのは神話と呼ぶ以上に根源的な、この世界の成り立ちの話だった。様々な伝説、様々な理論が存在するこの世界でも、もっとも基本的な原理である。

 手から離れた鉄球が地面で落ちることのように、当たり前の事実だ。


「そんな中に、全く位置を変えず永遠に輝き続ける星を上げるというのは、ずいぶんと難しいことだな」

「やっぱり、そうなるか」


 例えるならば、盛況なスタジアムの観客席の真ん前に陣取って騒ぎ立てるようなものだ。当然、客席からはブーイングの嵐が出るだろう。

 ただ一点に留まり、昼夜を問わず季節を問わず、永遠に燃え続ける星。それそのものが自然の摂理に反しているのだ。実現させることの難しさはよく分かる。


「そうだな……。可能性があるとすれば」


 しかし、ララルーは模索を続けてくれた。


「世界を産み育てる神がいる」


 長い熟考の果て、彼はゆっくりと口を開いた。


「世界を?」

「うむ。私でさえその名を知らぬ、より古い神だ。それこそ、天地開闢の時、この世界そのものが生まれたその時に存在する、巨大で強大な神だ」

「その神なら、なんとかしてくれるのか?」

「分からん。しかし、世の理を捻じ曲げるとなれば、それほどの神でなければなし得ないだろう」


 忘れられつつあった古代の神であるララルーをもって古いと言わしめる太古の神。その名すら定かではない存在だが、この世界の理の構築に関わった、偉大な神の一柱だという。


「その神に会うには、どうすればいい?」

「分からんな」


 即答するララルーに思わずがっくりと肩を落とす。今までかなり考えてくれたのに、そこは考えるまでもないのか。


「とはいえ、私や他の神々も、元を辿れば全てその神へと行き着く。あらゆる万物の母と呼ばれる神だからな。物覚えの良い神であれば、何か知っているかも知れぬ」

「物覚えの良い神ね……」

「そうだな。この世界で最も古い信仰はなんだと思う?」


 この世界で最も古い信仰、か。ポイントとなるのは、古い神ではなく、信仰であるという点だろう。神ならば世界を産み育てる神とやらが最古の可能性が高いが、信仰はそうではない。


「大地への感謝、豊穣の神か?」

「違うな」


 ありきたりな答えだったのか、ララルーが薄く笑う。手のひらで踊らされているような気がしてむっとすると、彼は「すまんすまん」とまた笑った。


「人と人、神と神、まあ神と人でも良い。考えるものが二つ存在すれば、その瞬間に生まれるものがある」

「愛か?」

「はっはっ! マサトは存外平和主義者なんだな!」

「コイツ……」


 確かに突然殴り込んできた俺が言える筋合いではないかも知れないが、それは状況が状況だったからだろう。

 ララルーはニコニコと心底楽しそうな笑顔で答えを出した。


「闘争だよ。相手を打ち負かし、支配したいという欲望。それはあらゆる生命の根源にある衝動だ。争うことによって技術は磨かれ、文明の火は燃え上がる。より強く、より博識に、より速く。そんな飽くなき渇望が生命の推進力なのだ」

「闘争ね……」


 確かにあらゆる物語において戦いや争いといったものは欠かすことができない。衝突や摩擦と言い換えてもいいだろう。登場人物が二人いれば、そこに何かしらの関わりが生まれる。相手よりも優位に立ちたいという原理が働く。


「つまり、戦神か」


 ララルーが頷く。


「相手を知るということにおいて、戦神ほど執念深いものはいない。彼ならば名を失った神さえ覚えていることだろう。それに、戦神なら一度任せば素直だろう?」

「それが一番難しいんじゃないか?」


 戦いの神に戦いで勝つというのは、全くもって荒唐無稽な話だろう。それを分かっているのかいないのか、妖精の神は軽やかに笑う。


「なに、戦神はあくまで戦いの神であって勝利の神ではない。勝敗と満足はまた別のところにある」

「難しいことを言うな」

「星を打ち上げるよりは簡単だろうさ」


 まったく、言ってくれるじゃないか。

 しかし彼のおかげで次の指針が定まった。


「ありがとう、ララルー。いつか星が上がったら、ぜひそれを見てくれよ」

「承知した。楽しみにしておこう」


 神は固く約束してくれた。ならば俺もそれに応えなければ。

 ララルーと再び固く手を交わし、俺は神域から離れる。彼はまた、妖精たちの神として長く生き続けるだろう。

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