第5話「天使の加護」

 人間は死ぬ間際に今生を振り返る走馬灯を垣間見るという。生まれてから死に至るまでの記憶を俯瞰する人生の集大成だ。けれど、俺にはそもそも死ぬ瞬間の記憶がない。なぜないのかは分からないが、生きていた頃の記憶しかない。

 あるいは、それが走馬灯なのかもしれない。俺が思い返している記憶は全て、死の直前に見た記憶がフラッシュバックしているだけなのかもしれない。

 天界の穴から落ちる時、宇宙空間の寒さと息苦しさにもがくこともなくなり、ただ従順に死を受け入れる。その時に走馬灯が見えるということもない。そもそも、生まれてから数秒もない人生に、記憶に残るような出来事はないのかもしれない。それこそ、3,860,020,160,044,283,116回も飛び続けていたら、美しい天界の景色さえもモノクロームで味気ないものに見えてしまうのだから。


「――マサト様!」

「ぐわっ!?」


 だから、3,860,020,160,044,283,117回目の投身を図ろうとしたその時は、後々の走馬灯に選ばれるような、鮮烈な記憶だった。

 呼吸よりも習慣化してしまった歩みで天界の穴へと向かっていた俺は、不意に誰かに引き倒される。いや、他に誰がいるわけでもない。


「セラウ、なんだ」

「なんだ、じゃありませんよ。もう十分以上のポイントは集まったはずです!」


 俺を雲の上に押し倒し、更に馬乗りになって両腕を押さえつける。セラウは白い羽を広げて威嚇するようにして、キッと青い目で見下ろしていた。巨乳が天界に降り注ぐ光を遮り、俺の顔に影を落とす。イレギュラーな展開に対応できず、俺の足はまだ歩こうとしていた。


「なんで止めるんだ。俺は徳を積もうとしているだけなのに」

「マサト様のそれは違います! ただ、魂をすり減らしているだけです!」

「大丈夫だ。さっき〈絶対理性〉を引き換えただろ?」

「そういう問題じゃありません!」


 セラウを押し除けようともがいて、彼女の表情に気付く。何か、哀れな存在を見るかのような、悲しみに満ちた顔だ。


「どいてくれよ。俺は――」

「どきません!」

「セラウが言ったんだろ! 〈引き継ぎ〉があるから、何度も死ねばポイントが貯められるって。それで特典と交換できるって!」


 そうだ。

 言い出したのはセラウだ。

 最初に背中を押したのも彼女だ。

 彼女のせいで、俺はこの永遠に続く苦行を強いられているんだ。


「それは、そうですが……。でも、見ていられないんです」


 俺の上にのしかかったまま、セラウは瞳を潤ませる。彼女の言う通りにしているだけなのに、何がそんなに悲しいんだ。


「ごめんなさい。わたしのせいです。わたしには人間の精神が分からないんです。だから、安易にあんなことを言ってしまいました」


 背中を倒し、俺の胸に額を付けて、セラウは独白するように言う。天使が人間に告白するなんて、と笑い飛ばすこともできなかった。

 彼女は羽で俺を包み込むようにして抱き、胸を押し付けてくる。彼女の細い腕が、俺の頬を撫でた。


「絶対理性は万能なものではありません。あなたの魂は粉々です。こんな――こんな体になったことにも、気付かない」


 彼女の瞳越しに、俺は自分の顔を見る。そして、そこで初めて気が付いた。


「おれ……?」


 頬の肉が削ぎ落とされたように減っていた。髪の毛はボロボロで、荒れた肌は少し擦るだけで剥がれ落ちていく。窪んだ眼窩に嵌る大きな目玉は、ぎょろりと妖しく光っている。骨に皮が張り付いたような、醜い体だ。肋骨が浮き上がり、干された魚のようだ。


「まだ続けるというなら、わたしを押し退けてください」


 セラウは俺の上に跨ったまま、挑むように言う。彼女の力は強い。華奢な女のように見えるが、天使という人外の存在だ。でも、俺ならその手を払えるはずだ。


「ふっ! かぁっ……ッ!?」


 腕に力を込めてセラウを退かそうとする。しかし、思ったようにはならなかった。

 ボキリと鈍い音がして、腕が折れる。少し力を込めただけで、骨が折れた。あっけなく。


「なんで……。俺は転生してるんだろ。健康な体なんじゃないのか」

「違います。ここでは、肉体はそのまま魂を映し出すんです。マサト様の魂は、今のあなたの体と同じくらいボロボロなんです」


 セラウに抵抗できない。彼女を押し除けることができない。

 その事実に愕然とする。


「特典をくれよ。身体能力強化だ。あれをくれ」

「もう、マサト様は持っていらっしゃいます」

「え?」


 こちらを見下ろすセラウの青い瞳から逃れられない。

 いつの間にか交換していた〈ステータスウィンドウ〉を使って、自分が持つ特典を調べる。〈身体能力強化・超級〉が並んでいる。

 なのに、なぜ?


「優れた肉体は、優れた魂に宿ります。マサト様、今のあなたはほとんどの力が使えません」

「そんな……っ!」


 酷い宣告だ。

 なぜ俺は。俺は彼女の言う通りにしただけなのに!

 足元が崩れ、地の底に落ちるような感覚が身を襲う。天界にいるにも関わらず、地獄に送られた気分だ。せっかく、死ぬほど痛い思いをしてポイントを集めたのに。引き換えた能力が使えないなんて!

 反抗する気力も切れてしまった俺を、セラウは優しく抱きしめる。彼女の柔らかな体から、温かい体の熱がじんわりと溶け込んでくる。久しく感じていなかった、他者の温かみが伝わってくる。


「少し、休みましょう。急がなくていいですから。このままでは、マサト様は戻れなくなってしまう」

「ああ……」


 この枯れた体のどこに蓄えていたのか、涙が溢れ出してくる。溢れた雫が彼女を濡らす。それでも、彼女は俺を抱きしめてくれた。


「セラウ……」

「ゆっくり休みましょう」


 恐る恐る、ぎこちない動きで彼女の背中に腕を回す。枯れた木のような黒褐色の腕に、少し生気が戻った気がした。


「ごめんなさい、マサト様。わたしのせいです」

「……いいんだ。セラウは悪くない」


 彼女の熱が、俺の心を溶かしていくのを感じる。彼女の優しさと共に、彼女の後悔が流れ込む。

 長い長い夢から醒めたような気持ちだった。今さら、新たに生まれ変わった気分だ。

 白く柔らかい雲の上に寝転がり、果てしない青空を見上げる。隣にいるセラウと共に、長い時間をそうやって過ごす。時のない世界で、時間を忘れて。3,860,020,160,044,283,116回の死の後に、久しぶりに心を癒す。


「――セラウ。特典を引き換えたい」

「はい」


 本当はカタログの特典全てを引き換えるまで死に続ける予定だったが、今はもうそんなことをするつもりはない。

 ゆっくりと起き上がる俺を、セラウがそっと支えてくれた。俺は彼女の手を取り、その瞳を覗く。


「マサト様?」

「〈天使の加護〉」


 彼女の瞳が揺れる。

 カタログに載っている特典のひとつだ。天界より魂の営みを見守る天使の加護を受けるというもの。同じ加護であれば、精霊王や戦神、破壊神、大地母神の加護なんかが特に強力そうな説明を添えられていたが、今はそれらにあまり興味が持てない。


「……本当に、いいんですか?」

「ああ」


 天使とは見守る者だ。〈賢者〉が与えてくれた知識が、それを教えてくれる。

 天使は雲の上から地上を見下ろす者。彼らが住む天界は、天国とも地獄とも違う。そもそも天国も地獄も、世界ごとに用意された輪廻転生システムの一セクションに過ぎない。それを管理する天使たちは、更に上位の存在だ。それだけに、地上で生を営む魂に干渉することはほとんどできない。

 〈天使の加護〉は、ある意味ではほとんど意味のない特典だ。ただ見守るだけの存在が、ただ見てくれているという保証を得るためのものなのだから。

 それでも、俺はこれを求める。


「〈天使の加護:セラウ〉を俺にくれ」


 無限にも等しい魂の全てを俯瞰する天使に、ただ自分だけを見てくれと宣言する。

 〈引き継ぎ〉という能力によって死してなお彷徨い続けることになった俺に、ついてきてほしいと。


「分かりました。――特典〈天使の加護:セラウ〉付与!」


 セラウが頷く。

 彼女の言葉と共に、眩い光が二人を包み込んだ。


「我が名はセラウ」


 光の雨が降り注ぐなか、彼女の荘厳な声が天界に響き渡る。


「大いなる魂の円環を司りし、第一の熾天使。輝く愛と情熱の六翼にて、世界を覆う者」


 羽ばたきと共に、彼女の翼が六つに増える。燃え盛る炎のような光をその身に帯びて、黄金の帯をその身に纏う。焼き焦がすほどの熱を感じながらも、そこに痛みや苦しみはない。かわりに溢れんばかりの慈愛が包み込む。

 セラウ、その天使は俺を見下ろして微笑む。


「神の定めし法により、汝の行く道を見届けましょう。その艱難辛苦を共有し、その喜びと幸福を分け合い、汝の魂が安寧の国を訪れるその日まで、その歩みの全てを共に。病める時も、健やかなる時も、迷える時も、楽しむ時も、片時も離れず、また忘れず。汝の側にあることをここに誓いましょう」


 どこからか祝福の鐘が鳴らされる。

 セラウが広げた翼が、大きな風を巻き起こす。

 空から降りてきた彼女が、俺の手を取った。


「もがっ!?」

「――よろしくお願いしますね、マサト様」


 彼女の腕が俺を抱き寄せる。柔らかな胸に顔を埋めながら、俺も彼女を強く抱きしめた。

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