第6話「落星の日」

 その国は常星を頂く。東方の空に輝く星である。

 常星は昼夜を通じてただ一点に座し、人々を見守ってきた。


 大洋を望む小さな湾に集まった人々が、小さな港町を立ち上げた。その頃から、常星は輝いていた。荒波へ乗り出す船を見送り、水平線を越えて現れる船を出迎えていた。

 星の見守る町は人種や種族を越えた人々の交わる土地となり、徐々に版図を広げていった。世界の各地から人が集まり、また世界の各地へと人が旅立っていった。

 星はただそこにあり、常に彼らを見守っていた。


 月さえも姿を隠す闇夜でも燦然と輝く常星は、暗い海を征く船乗りたちの寄る辺となった。

 やがて彼らは常星に祈りを捧げるようになり、常星の神秘を求めるようになった。これが、常星を信仰する炎星教の萌芽であった。


 小さな港町はやがて大陸を席巻する一大宗教の総本山となった。

 町を訪れる者は商人から巡礼者へと変わり、町を出る者は海賊から宣教師へと変わる。

 人々は東方の空に燃え盛る炎を見上げて涙を流し、手を重ねて祈りを捧げる。移りゆく季節、変わってゆく星々の並び、定まることのない国の境界線。万物が流転していく不安定な世界のなか、不変を貫く常星は唯一絶対の存在だった。


 だが、その日――のちに落星の日と呼ばれるその日は唐突に訪れた。

 まず気が付いたのは、まだ日も昇らないうちから目を覚まし、常星に祈りを捧げていた炎星教の修道士だった。


 ――常星様が、見えない。


 彼がまず疑ったのは己であった。己の目が曇ってしまったのだと。

 叫び声は町中に響き渡り、眠っていた人々が目を覚ます。彼らは何事かと軒先へと出て、そしてすぐに気が付いた。半狂乱に陥る民衆を見て、修道士は己の目が眩んでいたわけではないと知った。


 古く、歴史書の記される以前より、常に東方の空に輝き続けていた常星が消えた。前触れもなく、突然に。

 それは星を心の拠り所としていた炎星教徒たちにとっては世界の破滅に等しい衝撃だった。大陸の各地に散らばる教会に、この凶報は風と共に知らされた。王たちが絶望し、民たちが悲嘆に暮れた。

 ただ一つ確かだったものが消えたのだ。


 人々の心は揺らぎ、不安は恐れに、恐れは怒りへと連鎖する。

 水面下で燻りつつも、常星の輝きによって宥められていた火が、少しずつ勢いを増していく。

 信じることを忘れた王たちは互いに疑心暗鬼になり、結束を忘れた民たちは横暴を思い出す。ただ一つの星の下、互いに手を差し伸べることで纏まりつつあった人類の結束が、崩れつつあった。


 世の均衡が崩壊し、大きな歪みが人々の内心に広がるなか、人知れず小さな光が海へと落ちた。それは荒ぶる海を流れ、辺鄙な海岸へと流れ着く。

 天より落ちてきた青年は、波乱の時代に現れた。


━━━━━


「ふえええんっ! びちょびちょです!」

「その羽ってしまえないのかよ」


 薄暗い夜明け前の海岸で、セラウが涙目になって二枚の翼をバタバタと動かす。ふわふわで真っ白だった翼は、たっぷりと海水を含んで重たくなり、海藻やら流木やらを絡み付かせて無惨な姿になっていた。


「翼は天使のアイデンティティですよ。副翼はともかく、主翼はダメです」

「融通が効かないなぁ」


 セラウはぐすぐすと鼻を鳴らしながら翼についたワカメを投げ捨てる。

 天界からついに地上へと降りることを決意した俺は、彼女をその道連れにした。俺の人生のなかで間違いなく一番長い時間を共にした存在なのだ。彼女と別れることは親と死別するよりも苦しい。自分勝手なことをしたと反省したが、セラウはそんな俺を受け入れてくれた。

 〈天使の加護:セラウ〉という特典を手に入れた俺は、そのまま宇宙からの大気圏突入と地表との衝突に耐えられるだけの特典も引き換え、すぐに天界から飛び降りた。今度はすぐに復活することはなく、セラウと共に。


「うぅ……。服も張り付いて気持ち悪いです」

「おお……」

「あんまりジロジロ見られると恥ずかしいんですけど」


 波打ち際に立って濡れた服の裾を絞るセラウは、それだけで名画のようだ。濡れそぼった白い服が肌に張り付き、煽情的にそのなめらかな曲線と大きな胸を強調している。

 何回死んでも男の性は捨てきれないようで、ついチラチラと見てしまう。そんな俺に気が付いた彼女は大きな翼で体を隠した。


「セラウ、チラリズムって知ってるか?」

「はい?」

「隠されてる方がそそるんだぜ」

「人間の業は深すぎます!」


 憤然とするセラウに笑いながら、俺も服を絞る。

 まさか落ちた先が海だったとはな。地面とどちらが良かったかと問われれば、まあどちらでもいいんだが。陸地がどこにあるかも分からないまま泳ぐのが少し大変だったくらいだ。


「それで、これからどうするんですか?」


 なかなか乾かない羽にやきもきしながらセラウが今後の予定を尋ねてくる。

 晴れて地上へと降り立ち、ようやく俺の――実質的な第二の人生が始まるのだ。とはいえ、ここは右も左も分からない異世界である。剣と魔法のファンタジー世界であると言うことくらいしか、事前知識はない。

 とにかくまずは現地住民と接触して、情報を集めなければならないだろう。


「よし、セラウ。近くの町へ案内してくれ」

「無理です」

「は?」

「知らないので」

「なんでだよ!?」


 すんと澄まして首を横に振る天使。愕然とする俺に彼女は語った。


「わたしはあくまで輪廻転生を見守るだけの天使ですからね。個々の世界で誰がどんなふうに暮らしてるか、なんてのは分からないんですよ」


 そういうのは別の担当に聞いてください、とセラウは嘯く。

 死に続けていて忘れてたが、そういえば天界ってのは役所もびっくりの縦割り組織だった。セラウも管轄外のことはほとんど知らないらしい。


「そう言うわけなので、わたしにこの世界の知識は期待しないでくださいね」

「はぁ……。分かったよ。ついてきてくれるだけでも心強いんだ」

「そ、そうですか。まあ、とはいえ天使ですしわたし? 頭脳は明晰ですし? 少しは頼ってもらってもいいんですよ?」


 頼って欲しいのかそうではないのか、よく分からない天使だ。くねくねと体を動かすセラウに肩をすくめ、周囲を見渡す。まだ日も昇らない夜明け前の海岸にひとけはない。だが、落ちている最中に大きな町の灯りが見えた気がする。

 暗闇や遮蔽物、距離を無視して広い範囲を観測できる〈千里眼〉と、周囲の生物を検出できる〈生命探知〉を合わせれば、人の多い場所も見つけられるだろう。


「こっちだな」


 さほど距離の離れていないところに、大きな魂が密集している場所がある。おそらく、落ちてくる時に見えた町だろう。


「なんだかマサト様の方がしっかりしてますね」


 歩き出した俺を追いかけてきて、セラウは少し不満げに言う。魂を導くのは天使の仕事なのに、とか言われても困る。

 カタログの特典を全て引き換えられたわけではないが、それでもかなり色々と能力を手に入れているのだ。一つ一つがチートと呼べるような強力なものなので、今の俺はかなり強い……はずだ。


「そういえばこの世界の基準を知らないんだよなぁ」


 そこらへんの子供が木の枝を振るだけで隕石を落とせるような世界だったらどうしよう、と少し心配になる。


「心配しなくてもマサト様は人外というのも烏滸がましいレベルで強いと思いますよ」

「人外って……」


 海岸から丘へと登ると、石を敷き詰めた立派な道が現れた。この世界の技術レベルは俺の前世の記憶と比べると低いものだと思っていたが、どうやら土木技術はかなり発達しているようだ。

 まあ、歩きやすいぶんにはいいだろう。道を辿ればどこかしらには辿り着くだろうしな。


「セラウだって、そんな目立つ羽つけてて大丈夫なのか?」

「だから取り外しできるようなものじゃないんですよ! まあ、わたしの隠しきれない神秘性を感じ取れるなら、むしろありがたがられるかもしれませんね」


 ふふん、とどこか得意げに根拠のないことを言う。セラウは確かに神秘の塊みたいな存在だが、その美しい外見以外――というか挙動には神秘性の欠片もないんだよな。


「なんか失礼なこと考えてません?」

「天使は読心もできるのか」

「顔に書いてあるんですよ」


 いよいよ異世界へやってきたという高揚感からか、俺もセラウも自然と口数が多くなる。俺たちはまだ見ぬ世界への旅の始まりに胸を躍らせ、地平線から昇ってきた太陽を背にして近くの町へと訪れる。

 緩やかな弧を描く湾岸に、立派な石積みの建物がひしめく大きな町があった。おそらくここが、事前に確認した町なのだろう。陸地はぐるりと背の高い防壁に囲まれており、中に入るには門をくぐる必要があるようだ。

 街道の先に関所らしき門があり、早朝にも関わらず槍を携えた男たちが立っている。


「さて、無事に通れるかな」

「大丈夫ですよ。こういうのは堂々としてた方がいいんです」


 どこから得たのか疑わしい知識をひけらかしながら、セラウが先に進む。そして――。


「止まれ! そこの鳥人、身分証を見せろ」

「ちょ、鳥人!? わたしは鳥じゃないです!」


 案の定、交差した槍に阻まれていた。

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