第3話「宇宙という厚い壁」
落ちる。暗い宇宙に。
空気はない。肺が潰れ、舌が焼ける。内臓が全て裏返り、血管が細かく千切れる。
真空の中で体が膨張していくのが分かる。脳みそがグチャグチャに掻き混ぜられる。
生きたままミキサーに突っ込まれたかのような、耐えられない激痛。
「――ぁあああっ!?」
目を覚ますとそこは、限りない雲の続く天界だ。
「おかえりなさい、マサト様♪ それではもう一度行ってみましょう!」
「や、やめ――」
悪魔のような天使はこちらの話も聞かず、再び俺を突き落とす。
数回にわたる誕生と死亡。数秒間の間で繰り返される輪廻転生の中で気付いたことがある。俺が落とされた空間の真下に、前の俺がいる。
天界は時間というものがないという話だろう。俺は死んだ瞬間に魂だけが天界に戻り、誕生と共に生み出された肉体――つまり死体はそのまま落下を続ける。俺は青い星に落ちていく自分だったモノを見ながら、何度も何度も死を繰り返す。
「さあ、ドンドン行きましょう。まだ0.024ポイントですからね」
落ちるたび、激痛が襲う。そして連なる無数の死体を見ながらまたそこに加わる。
魂だけが天界に戻り、再び産み落とされる。
やがて俺は抵抗することすらできなくなった。そもそも、セラウは華奢な体をしているくせに俺よりもはるかに力が強い。はなから抵抗できるはずがなかった。
「この、鳩野郎……!」
「む、失礼ですね。わたしは鳩じゃありませんよ!」
焼けたばかりの舌をもつれさせながら、苦し紛れに思いつく限りの罵詈雑言を浴びせる。そのなかでも特に効果的だったのは鳩と呼ぶことだった。
どうやら彼女は自分を鳥と見られることを屈辱と思うらしい。
柳眉を寄せて不満を露わにするセラウに少し胸がすっきりしたのも束の間、その次の投下から彼女は間髪入れず強引に穴へ押し込むようになって、俺は深く後悔した。
「ご、ごべんなざい……。あやまるから……」
「ふんっ」
「ぎゃああっ!?」
体だけは転生するたびに立派な健康体に生まれ変わる。けれど精神はいつまでも同じものを引き継ぎ続ける。
無限に等しい責苦のなかで、俺はただ謝罪を繰り返すだけの人形に成り果てた。
「いや、いぎだぐない。いや……」
抵抗するどころか、立ち上がる余力さえなくなった。土の詰まった袋のように倒れる俺を、セラウは困ったような顔で持ち上げて穴へ投げ入れる。
やがて、苦痛を感じることすらなくなった。粉々に砕け、すり潰された精神が全てを拒むようになった。
何も言わなくなった俺を、ただセラウが淡々と持ち上げ、穴に投げ込み続ける。彼女のことを仕事をサボっているダメ天使だと笑ったことを後悔する。彼女はどこまでも職務に忠実だ。天の使いとして、己に課せられた仕事を飽きることもなく延々と続けている。
「うーん、困りましたねぇ」
どれだけの死を積み重ねたか、もはや分からない。
突然、俺は柔らかい雲の上に転がされた。体感では数十年ぶりの感触に、すり減っていた心が僅かに動く。15秒ごとに感じていた苦痛が訪れないというただそれだけのことに、無常の喜びを感じていた。
「人間の精神構造の脆弱さを少し見誤っていたようです。これでは、無事に地上へ辿り着けても生を謳歌することはできませんね」
体を動かす術も忘れた俺の側で、セラウが何か言っている。どうでもいいから、このまま永遠にこの心地よい雲の上に寝かせておいてほしい。
「マサト様、現在42,048.022ポイント貯まっていますが、どうなさいます?」
「……ぁあ?」
鈍り切った思考では、セラウの言葉の意味がうまく理解できない。けれど彼女は急かすこともなく、俺の隣に座り込んで、ニコニコと笑みを浮かべる。
「とりあえず、少し休憩しましょうか。精神が回復すれば、またお話できますよね」
「あぁ……」
もはや言語というものを忘れていた。
ただ久方ぶりの安寧を貪り、泥のように眠り続ける。天界では時間の流れはなく、飢える心配もない。緩やかで穏やかな陽気だけが無限に続く。
眠り、息を吸い、吐き出し、眠る。安穏とした暮らしのなかで、わずかに精神が回復していく。〈引き継ぎ〉の効果なのか、忘れていたはずの記憶も少しずつ思い出してくる。
セラウは俺の隣に寄り添い、片時も離れない。優しく頭を撫で、癒してくれた。
「ああ……。セラウ」
「お、気が付きましたか」
言葉が話せるようになったのは、50年ほど休息を取った後のことだ。
「マサト様の現在の徳ポイントは42,048.022ですが、何かと引き換えますか?」
42,048.022ポイント。ゆっくりと計算し、死んだ数を割り出す。どうやら俺は、2,000万回以上の死を経験したようだ。
うん?
「4万……?」
「はい! 42,048.022ポイントです」
「めちゃくちゃ積み上がってるじゃねぇか」
当初、俺が最低限集めなければならないと考えていたのは、〈落下耐性〉を引き換えるためンボ5,000ポイントだ。いつの間にかゆうにそれを超えている。とっくの昔に、目標を達成していたということか?
「いや、違うな。〈落下耐性〉じゃだめだ」
5,000ポイント集めた時点で止めてくれなかったセラウに殺意が沸きかけたが寸前で思い直す。〈落下耐性〉を引き換えたところで、俺は地表には辿り着けない。なぜなら、落下するよりも早く死んでいるからだ。
「セラウ、カタログを見せてもらっていいか?」
「もちろんですよー」
転生特典カタログを受け取り、ページを捲る。分厚い冊子の中からかすかな記憶を頼りに、それを探す。
「〈真空耐性〉だ」
地上へ到達するために、まず引き換えなければならない特典がある。
俺は落下するまでもなく宇宙空間の真空環境によって体が破壊されて死んでいるんだ。だったら、まずはそこを乗り越えないとならない。
「〈真空耐性〉と交換してくれ」
「承りました! 特典〈真空耐性〉付与!」
セラウの声と共に体が光る。特に実感はないが、これで真空環境に耐えられる頑強な体を得たはずだ。しかし、〈真空耐性〉は20,000ポイント。まだ半分以上残っている。
「あと、〈高熱耐性〉もだ」
「はいはーい! 特典〈高熱耐性〉付与!」
俺は更に別の特典も引き換える。宇宙空間を乗り越えたら、次は分厚い大気の層だ。無数に落ちていく俺の死体が、地球に飛び込む隕石のように燃え上がっていたのをこの目で見ていた。
全身が風船のように弾けたあとは火だるまになって消し炭と化すという展開は避けたい。
〈高熱耐性〉も20,000ポイント。これでほとんどポイントを使い切った。……といってもまだ48.022ポイントも残っているんだが。
「どうします? 他にも何か引き換えますか?」
「そうだな。何かおすすめはあるか?」
何十年も廃人になって死に続けた俺が、どこまで正常な思考ができているのか疑わしい。ここは素直にセラウに意見を求めるのが良いと判断した。
まさか問い返されるとは思わなかったのか、彼女は少し驚いた顔をした後に考え始める。
「そうですねぇ。このポイントで引き換えられるものなら……」
彼女はカタログをパラパラとめくり、やがて何かを見つける。
「これなんてどうですか? 〈理性補強〉40ポイントです」
「理性補強?」
「マサト様は高速で繰り返される輪廻転生で精神をかなり病んでいらっしゃったようなので。〈絶対理性〉ほどではありませんが、これで正気を失いにくくなりますよ」
「なるほど……それもありかもしれないな」
自分では廃人の頃の記憶はほとんどないが、ずいぶん長い時間雲海の上で寝転がっていた気がする。〈理性補強〉があれば、より長く輪廻転生を繰り返し、心が折れてもより早く復活できるのだろう。
「じゃあ、それで」
「はいはーい♪ では、特典〈理性補強〉付与!」
ふわわん、と体が光り、少し意識が明瞭になる。早速〈理性補強〉の効果が発揮されたようだ。
これで残りのポイントは8.022。俺はカタログのページをめくり、もう一つ追加で特典を引き換える。
「これを頼む」
「了解しました! 特典〈目当てのページを開ける〉付与!」
これで分厚いカタログをペラペラ捲る面倒な作業ともおさらばだ。
「それじゃあマサト様、準備はよろしいですか?」
「ああ。頼む」
補強された理性で覚悟を決める。
〈真空耐性〉と〈高熱耐性〉も効果を発揮しているはずだ。しかし、これで地上に降りられるわけではない。また最低でも〈落下耐性〉を取得するために5,000ポイント集め直さなければならない。
「それでは、行ってらっしゃい!」
セラウに背中を押され、一歩前に出る。足はそのまま穴へと落ちて、体もそれに続く。
「うおおおおっ! ――ごぼっ!?」
今度こそ地上を目指して落下を始めた。真空環境でも体が膨張する気配はない。
しかし、今度は息ができなかった。
急速に薄らいでいく意識の中で、強化された理性が気付く。真空を乗り越えても、まだ宇宙空間を克服したわけではないことに。断熱圧縮によって燃えるよりも前に、マイナス100度をはるかに下回る極寒と、真空状態による窒息が立ちはだかっているのだ。
くそ――!
下手に真空へ耐性を持ってしまったから、極寒と窒息が長く続く。理性が頑強に保たれているせいで、発狂することもできない。俺はもがき苦しみながら、酸素不足によって意識を落とした。
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