自我崩壊

 湿った土が延々と薄闇の向こうに続く通路。

 看守兵達は警戒を露わに三人態勢で、各区画を徘徊していた。

 檻の中にまで目を光らせ、何かあれば疑いの時点で斬る。


 油断をせず、慎重に前進。

 前に剣を持った二人が立ち、後ろに槍を持った者が一人。


 ふと、赤子の声が聞こえた。


「おい」


 前方に目を凝らすと、通路の脇には厨房がある。

 必要な材料は中の昇降機で運び、下にいる兵士達が移動せずに、向かいの食堂で食べられるような設計だ。


 その厨房から一人の女が現れた。


「ぶぇぁぁぁっ! ああああんっ!」


 顔を涙と鼻水でグシャグシャに汚し、頻りに袖で目元を拭いていた。

 紗枝は地下三階の区画では有名。

 兵士達はすぐに警戒し、剣を向けて近寄る。


「貴様……」

「んぶぇえええあああっ!」

「壁に手をつけ。早くしろ!」

「ああああああっ! んぶぁあああああっ!」


 構わずに紗枝が泣きじゃくっていると、厨房から別の女が現れた。


「そ、そんなに泣かなくても……。私だって辛かったんだ!」


 紗枝より、オリイルの方が兵士達は驚いてしまった。

 将軍からの言いつけで、オリイルは調教されている身。

 看守兵にはオリイルを逃がさないよう言伝されているし、皆が彼女に魅了されていたほどだ。


 その女が、なぜ檻の外にいるのか。

 看守兵達は戸惑ってしまった。


「オリイル! 貴様、どうやって外に出た!」

「ま、まずい!」


 目を逸らした途端、看守兵達はをした。


「――ッ!?」


 気が付けば、紗枝は兵三人の後ろに立っていた。


 抜刀と同時に兵二人の膝裏を切り、槍をすり抜け、もう一人の膝を斬ったのである。


 グルグルと横に回り、振るわれた刃を見抜くことはできず、兵士達は意識をオリイルに向けた状態で、正座。


 振り切った後の刀は刃を返し、前を向いたまま後ろへ踏み込む。

 独楽こまのように逆回転をして、水平に刀が振るわれた。


 振り返りの遠心力を利用した斬撃は、一人の首を刎ね、腕を大きく回して、続けざまに二人の首を刎ねた。


 あっという間に、兵士たちは声を上げずに、強制介錯。


 護神流殺法、独楽斬こまぎりである。


「ああん! ああああっ! はぁ、はっははははぁ!」


 紗枝は赤子のように泣く。

 ベルブに捧げるための唇を見知らぬ女に奪われ、取り返しのつかない事態に陥り、困惑しているのだ。


 心が乱れたら、弱体化。――否。


 紗枝の場合は、平常時がすでに心ない状態。

 修羅とは相手を見ているようで、見ていない状態。

 それが悪化し、病みを超えて、幼児退行しているのだ。


 せっかく、活法の道の入り口に立っていたのに、すぐ道を見失ってしまった。


「えぐっ、ひっぐっ、ちゅっちゅされたぁ!」

「ホゥ!」


 黒女が暗闇から現れ、母のように頭を撫でる。

 柔らかな黒い乳房は、紗枝にとって母の温もりを思い出させた。


「ええん! ええええあああああっ!」

「ホゥ。ホゥ」


 オリイルは見事な一刀両断に心を奪われていたが、すぐ我に返った。


「泣かないでくれ。私が悪かったから」

「えあああん! おっぱいきらい!」

「お、おっぱい?」

「牛! ばかっ! きらいっ!」


 と、泣き叫び、牛のように豊満な黒い乳に顔を埋める。

 泣きじゃくって、心が乱れても、体に染みついた作法は一切のブレがなく行われた。


 血振りをして、納刀。

 それから、泣いた子供が暴れるように、落ち着きなく地団駄を踏み、オリイルに襲い掛かる。


「ばかぁ! ばか、ばか、ばかぁ!」


 大きな乳房を叩き、力いっぱい握りしめる。


「んくっ!?」

「おまえなんて、おっぱいお化けだ! ばかぁ!」


 前後に揺さぶられると、敏感になった乳房に強い刺激が与えられ、オリイルは視界が点滅した。


「ま、待て! んあっ! 今、胸を触られると……っ!」

「なんで、女の子同士でちゅっちゅするの! きもちわるい!」

「き、気持ち悪……んふっ……やめ……っ……ああっ!」


 堪らずに紗枝の両手を掴み、オリイルは怒鳴った。


「女同士で接吻はおかしくない! 愛が芽生えたら接吻するのは人の情緒だ! 気持ち悪いと言われた者の気持ちが分かるのか!?」


 などと、オリイルは声を荒げる。

 紗枝に対して、胸のときめきを感じていた分、侮辱されると辛いものがあった。恥じらいと同時に爆発した怒りは、真っ直ぐな倫理で紗枝にぶつけられる。


 その時、紗枝の脳裏には過去の記憶が蘇った。


『お前さ。その背中、ヤバすぎるでしょ。気持ち悪いんだよ』

『何で、女の癖に皮突っ張ってんだよ。気持ち悪いって』

『どうしたら骨がぐにゃぐにゃに動くんだよ! 気持ち悪いな!』


 紗枝が散々言われてきた悪しき言葉の数々。

 紗枝の中で、張り詰めていた何かが、ぷつんと切れた。


「ああああああああああああッッ!」


 腹の底から声を張り上げ、目からは大量の涙が溢れる。

 額とこめかみには太い青筋が浮かび、空いた手は軽く握り、肘を引いた。


 護神流徒手殺法、綿潰わたつぶし。

 綿、という字の入った殺法だが、腸に限らず、腹部から下の内臓全般が対象である。


 拳一発で、皮と肉を通して、内臓を前後に揺さぶり、嘔吐や内臓裂傷を引き起こす殺人拳だ。


「ホゥ!」


 危機を察した黒女が二の腕を押さえ、紗枝の殺法は不発に終わる。


「あああああ! あああああああっ! あ――」


 悔しくて何も言い返せず、色々言いたい事はあるのに、頭の整理はつかない。身も蓋もない状況に置かれた紗枝は、最後の理性がぷつんと切れてしまった。


「お、おい!」


 白目を剥いて倒れた紗枝を黒女が抱える。

 紗枝は病むほど愛する者。

 純情が思いもよらない形で踏みにじられた時、自我を抑え込めるほど精神が強くなかった。

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