病鬼

 町を闊歩する紗枝に人々は奇異の眼差しを向けた。


(毛唐の町を歩けば、毛唐に見られる。難儀なものね)


 町の住人が着ているのは、洋服だ。

 女はワンピースの格好であったし、男はシャツやチュニック、ズボンが普通。

 どれも色とりどりの服装であったが、衣服の形が一つが違えば、「なんだあれ?」と不思議に思われてしまう。


 浮いている女の後ろを歩くのは、ボロ衣を着た少年。

 紗枝に飼われていると勘違いされていた。――が、繋いだ手を見ると、ますます理解に苦しんだ。


「あ、あの、紗枝さん」

「ん、なに?」

「手……、離してもらえますか?」

「…………………………ぇ」


 長い間を空けて、紗枝が声を発した。

 瞳が黒く濁っていき、さっそく心を病み始めたのだ。

 目が据わり、力なく手を離す。


(わたしと手握るの、……そんなに嫌なの?)


 振り返ると、ベルブは居心地悪そうに股を擦り合わせ、俯いていた。


(どうして、神はわたしを見放すのかしら。いや、神の正体は知っているけど。自分の哲学は固まってるけど。……違う違う。思想忘れろ。我が剣に宿る哲学よ。引っ込んでろ。今はそうじゃない)


 苦しげに頭を押さえ、紗枝は唸った。


(確かに。幼少期に里へ遊びに行ったら男の子のアバラを折った。腕も折った。看病しようとしたら親に叱られ、兄が詫びに行った。でも、反省して自分から媚を売るように徹したつもり。好きにして、と口に出したこともあった。なのに、……誰もわたしを愛さなかった)


 ベルブは居心地悪そうに周囲へ視線を配った。

 道のど真ん中で病み始めたので、反応に困っているのだ。


(女が股を開けば淫売と罵られ、媚を売れば売女ばいたと蔑まれる。どうして、世界はいつも道を間違えるのかしら。どうして、わたしを苦しめるのかしら。わたしは――)


 ふと、ベルブが家屋と家屋の間で、揉み合う男女を発見した。

 目を凝らすと、路地裏では魔族の女が襲われていた。


 紗枝がブツブツと独り言を発し、病んでいるのをよそに、ベルブは不安と恐怖で震える手を強く握る。


(助けなきゃ……)


 今、動いたら絶対にマズい。

 でも、見捨てたら、一生後悔する。

 姉を置いてきた時に味わった苦渋を味わいたくなかった。


「よ、よし」


 自分に気合を入れて、路地裏で揉み合う男女に近づく。

 町の男は三人がかりで一人の女を押さえつけていた。

 一人が馬乗りになって、二人が手足を押さえつける形。


「奴隷のくせに抵抗すんな!」


 容赦なく浴びせる暴力。

 頬を二度殴られた女はグッタリとして、後ろで目撃したベルブの肝を冷やしてくる。


 だが、引き下がらずに、ベルブは声を搾り出した。


「あ、あの!」

「あぁ?」


 凶暴な顔つきで振り向く男たち。

 その顔がギョッとした表情になる。


「その子、……は、離してください! こんなの、間違ってる!」


 勇気を振り絞ったベルブ。

 真後ろでは幽霊のように髪の毛を咥えた紗枝が、ジッと少年の頭部を見つめていた。


 相手は、一見すればただの女。

 されど、空気を伝って肌をなぞる得体のしれない気配は、男たちを青ざめさせるほどの気迫。


 ――否。鬼迫きはく、であった。


「ま、魔族だって、戦争に参加していない人達が大勢います。その子だって、この町に住む普通の子だ。君たちが、乱暴にしていい理由なんか、な、ないんだ!」


 ベルブの健気な一言。


「そう。間違ってる。この世界は間違ってる」


 鬼の戯言。


「早く、ど、退いてください。早く!」


 泣きそうになりながら、ベルブが叫ぶ。


「くすっ。わたしが退かしますよぉ。くすくすっ。わたしぃ、尽くすのが、だ~い好きですからぁ……はは……ふふふ……」


 鬼が笑った。

 男たちは目が離せず、硬直。


 まともな人間から見れば、紗枝の言葉は決して冗談ではない事が分かるだろう。


 それを証明するかのように、紗枝はゆらりと揺れて、前に出て行く。

 ベルブは今になって、紗枝が近くにいたと気づいた。


「こんな世界――」


 紗枝は持ち上げた拳を頭部に振り下ろした。

 武や技ではない。

 ただの拳骨。


 ただし、徹底して鍛え抜かれ、脱力という身体の使い方を自然に身に付けた殴り方だ。

 拳は猫のように丸く、見た目は可愛らしかった。が、拳骨の角がない分、常人に比べて力の伝わり方が全く違った。

 言ってしまえば、戦う用の拳だ。


 振り上げた拳は、足を押さえつけている男の頭蓋に落ちていく。

 丸い拳が頭部に触れた途端、頭蓋のヒビが入った箇所に、鈍い音を立てて減り込んだ。


「ぎゅいっ!」


 奇妙な悲鳴を発し、歯を食いしばった形相のまま男が横たわる。


「な、なんだ。おい。やろうってのか?」

「わたしに優しくない世界なんて――」


 馬乗りになっていた男が立ち上がる。――途中で、顔の横には平手が迫っていた。


 白くて綺麗な手の平が頬を捉えると、初めからそうであったかのように、容易く男の顎がずれた。


 鉄扇。

 紗枝の手の平は、鉄の扇そのもの。

 掌底が顎を破壊する一方、指は耳の穴を弾き、激しい振動が鼓膜を傷つけた。


「ぬ――ぉ――」


 白目を剥いて、男が壁に寄りかかる。

 残された男は仲間を見捨てて逃げようとした。

 紗枝に背中を見せ、一歩を踏み出す。


 次の瞬間、男は躓き、前に倒れた。


 ただ転んだだけなら、運が良い。

 けれど、男が転んだ原因は紗枝に背中を押されたからだ。

 前に傾いた顔面が、地面に着地する直前、頭上には掌底があった。


 ――護神流徒手殺法ごしんりゅうとしゅさっぽう頭蓋割ずがいわり


 顔が地面に密着していない状態での攻撃は、地と手の両側から衝撃を与えられる事となる。


 顔を強打する衝撃。

 上から落ちてくる攻撃の衝撃。

 双方の威力が一つに集中すると、必然と衝撃の波によって、堅牢な頭蓋は容易く破壊する事ができた。


 この時、男は初めに前歯が砕けた。

 直後に額を硬い地面に衝突させ、瓦を割るが如く、鍛え抜かれた手の平が頭蓋を圧縮させた。


「ぐぅぅ……っ……っ」


 蛙を潰したような悲鳴に混じって、紗枝が言った。


「――滅びればいい」


 自棄になった鬼の一言である。

 あっという間に男を沈黙させた紗枝は、生気の失った瞳を後ろへ向けた。


「だ、大丈夫ですか? 今、治しますね」


 ベルブが治癒魔法を掛けたことで、傷ついた魔族の女の子は青白い光に包まれ、見る見るうちに傷が癒えていく。


 紗枝は自分の手の平を見つめた。

 傷一つない手の平。

 空っぽの涙が、目じりからこぼれた。

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