女武者の悩み

 護神流黒鉄兵法の本家は、山の中に小ぢんまりとした家屋を建てていた。世俗に染まってはいけないので、人里で生活するわけにはいかず、人知れない山奥でひっそりと暮らすのだ。


 朝廷の役人が一枚の文を届けにきて、初めて行動をする。

 それ以外は、畑仕事や鍛錬、たまに人里へ下りて町の様相を眺め、人流を隈なく確認した。


 これは、その特殊な家系に生まれた紗枝の過去である。


 六畳半の居間では、何やら緊迫した空気が漂っていた。

 厳格な様子の父と困惑した様子の母。

 長い沈黙を破ったのは、父であった。


「もう一度言ってみろ」


 跡継ぎを残すため、女には女の役割がある。

 本当に重要な役割であり、お家にとっては死活問題。

 この紗枝という女は、お見合いをしては相手に怖がられ、ことごとく断られてきたのである。


「佐助と接吻をしとうございます」


 父の頬が引き攣った。


「ば、幕府の忍びであるぞ」


 朝廷と繋がりがある以上、裏では大御所にも人脈がある家系。

 佐助が何者かを知らない訳がなかった。


「はい。襖の陰にいる所を捕えまして、誠に良き男であった故、接吻をしとうございます」


 強張った表情が解けると、父は耐え切れず、母を見た。


「紗枝。どうして、忍びを捕まえたりしたの」

「わたしは、今年で20歳になります。ですが、未だに、婿殿を得る事ができておりませぬ」


 キリッとした凛々しい表情。

 紗枝の眼には、一点の曇りもなかった。


「父上。母上。わたしは、男が欲しゅうございます。毎晩、米俵を噛み千切る思いはしとうございませぬ」

「やっぱり、お前か。おま、米俵を何だと思っておるのだ!」


 米俵が壊れたせいで、ネズミが入って酷かったのだ。


「困ったわねぇ。ねえ、あなた。どうにかならないの。可愛そうよ」

「う、うぅむ。柳生のせがれは怯えていたし。吉岡殿には顔も見たくないと言われてしまった」


 原因は、試合で完膚なきまでに打ち負かしたことである。

 このことは、歴史の闇に葬られ、なかったことにされている。


「もう、紗枝ったら。どうして、勝っちゃうのよ! 殿方との試合では、媚を売って負けなさいって言ってるでしょう! そっちの方が、殿方は喜ぶの! 打ち勝ってしまってはだめよ!」


 ぷりぷりと怒りながら、母が頬を膨らませる。


「……ですが、母上。柳生は剣の腕は確かに一流でした。が、わたしから言わせれば無駄な動きが多い上に、倒しやすかったのです。吉岡も同様。腕の立つ者ばかりでしたが、足元が隙だらけで、……つい」


 相手の手首を押さえ、足を払ったのである。

 倒れ込んだところに頭部を軽く叩き、「わたしの勝ちでありますな!」と、意気揚々に笑ってみせたのだ。


 当然、名だたる剣の家系に対し、易々と勝つなど普通は無理な話だ。

 ところが紗枝にとっては、本当に虫を潰すのと何も変わらないくらい易しかったのだ。


 自尊心をズタズタにされた側からすれば、深く傷つく出来事ばかりである。


「武士の剣と、我が家の剣を一緒にするでない。こっちは、あれだぞ? 何でもありなのだぞ? 向こうはきちんと武術の哲学に沿って、型があるのだ」


 すると、紗枝が頬を膨らませた。


「向こうだって、相手の意表を突く技があるではありませんか。私はいつでも倒れる準備ができておりました。組み伏される心構えは済みです」

「だ、誰が、お前を組み伏すというのだ……っ!」


 父は戦慄していた。


「紗枝。聞きなさい。男に勝ってはだめ。やられるときは、こう、しなしな~と倒れて、足をさりげなく見せてやりなさい」

「母さん。やめなさい」

「でも、女としての心構えは必要です」


 世間一般で言うところの、『男』と『女』の認識や価値観が、大きくズレている家系だった。


「……紗枝は、接吻しとうございます」

「可愛そうに」

「舌を吸いとうございます」

「紗枝。やめなさい。親の前だぞ」

「吸いとうございます! 父と母だけズルいです! わたしだって、女の端くれ。舌を吸いとうございます!」


 鍛えられた声帯による叫び声は、山奥にまで反響していた。


「やめなさいって。みっともないぞ。というかだな、紗枝よ」

「はい」


 父がため息を吐き、天井を見上げた。


「お前、……のに、どうして会いに来るのだ」


 規律など、ない。

 これが紗枝という女であった。

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