背中を見せたくない理由

 良い匂いがした。

 イモの焼ける匂いだ。


「うぅ」


 今度こそ、瞼を持ち上げて紗枝が起きた。

 体の節々は痛むものの外傷はない。

 紗枝は大きな樹木を背に寝ていた。


「ここ、どこぉ?」

「ナユタの森ですよ」


 声のした方に目を向けると、傍には焚火があった。

 濡れた紗枝の体が冷えないよう、火を焚いてくれたのだろう。

 火元には木の枝に差した赤いイモが置かれており、皮の焼ける香ばしい匂いが、紗枝の食欲を誘った。


「お芋、焼けてますから。食べませんか?」

「う、うん」


 ふと、体中の痺れを感じ、紗枝は眉をひそめた。


(ダメだ。冷え切ってる)


 今の状態では、まともに立ち回りができない。

 指を折り曲げたりして、自身の状態が確認できた。


 樹木の近くには湖があるので、きっとそこに浮かんでいたのだろう、と察した。


 冷静に周りを見渡す。

 自前の刀は、運良く腰に差したままで、失っていない。

 これが一番、安堵した。


 周囲は緑に囲まれ、木の幹はどれも苔が生えていたり、弦に覆われている。名前も知らない草木や花が辺り一面には生えていて、ちょうどひらけた場所で、少年は火を焚いているようだ。


「え? え!?」


 即断即決の行動に、少年は目を丸くした。

 紗枝は刀を木の根元に寝かせ、堂々と脱ぎだしたのだ。


「何してるんですか!?」

「体温が奪われてる。ここから先にいってしまうと、いずれ指が動かなくなる。ふふ。でも、運が良いわ。無理をして動けるなら、良し」


 袴を脱ぎ、小袖を脱ぎ、まずは火のそばで体を温める。

 さらしと褌のあられもない恰好に、少年は小さく震えた。

 両手で目を隠し、何やらモジモジとしている。


「君、名前は?」

「……う」

「あ。そうね。先に名乗るものよね。わたし、紗枝。訳あって、京を目指していたのだけど、不届き者に命を狙われていてね。申し訳ないんだけど、誰かがきたら、わたしのことは内緒にしておいて」

「わ、かりました」


 少年は指の隙間から、つい目の前の肉体を見てしまう。

 染み一つない綺麗な体だった。

 雪肌は水に濡れ、日光が反射しているおかげで、艶が増していた。


 他の女に比べて、鍛え抜かれた体は、所々に筋肉の筋が浮き彫りになっている。

 腹筋は薄く割れていて、二の腕はベッコリとへこんでいる。

 前面の方は、まだ女としての艶があった。


 だが、背中にフラれる原因の一つを背負っているのだ。


「ごめん。向こうを向いててくれると、嬉しいんだけど」

「あ、すいません!」


 紗枝も見せたくなかった。

 乳房や股は見られてもいい。

 だが、背中だけはダメだ。


 少年が火に背中を向けたのを見て、紗枝も火に背中を向ける。

 火に向けたのは、女の背中ではなかった。


 肩甲骨の辺りが、一番発達している。

 大きな筋肉ではなく、皮が突っ張っていて、骨がくっきりと浮き出ているのだ。

 続いて、前鋸筋ぜんきょきん。――脇の下辺りは、ぶっとい肉が盛り上がっていた。

 男のように大きな筋肉ではない。

 細長くて、太い筋だ。


 背筋は、首の付け根から腰に掛けて、綺麗な一本線が入っている。


 ここまで背中の肉が異様な形となったのは、全部修行のせいである。

 剣を極めれば極めるほど、肉ではなく、骨を鍛えてしまう。

 とはいえ、肉だって部分的には使うのだから、骨に追従する形で変化していった。


(こんな可愛い子に驚かれたら、……命を奪うしかない)


 過去、代官の首を刎ねた後に、平然とした様子で長屋に帰った紗枝。


『ね、ねえ。殺してきたよぉ? 抱いてよぉ』


 モジモジしながらロクデナシの男に懇願したことがあった。

 白い頬は真っ赤な血に濡れて、目の据わった表情は鬼気迫るものがあった。


『……ふ、……風呂……は、はは、入ってこいよ』

『えぇー? 血を拭けばいいでしょぉ?』

『そういう問題じゃ……』


 男は、肝が潰れていた。

 本当に斬ってきた女。

 罪悪感の欠片もなく、抱かれることを所望する女。


 言葉に言い表せなかった。


『脱~いじゃおっ。わたし、体には自信あるんだからっ』


 と、言って鍛え抜かれた体を披露した。

 魅せるための肉体をしていない彼女は、色っぽい仕草のつもりで背中から見せたのだ。


『ひいいっ!』

『え?』

『なん、だよ、……それ』


 男にとっては、ショックだったろう。

 肩甲骨の辺りは、雑巾を絞ったような形の筋肉になっていたのだ。

 一言で表すのなら――。


『気持っち、悪ぃ……』

『え?』


 相手の言葉が理解できなかった。


『気持ち悪い。……気持ち悪いよ、お前!』


 あまりの嫌悪感に、男は奥歯がガタガタと震えていた。

 その姿は、気色悪い彩色をした虫を見た如く様相である。


 人一倍、乙女心を持っている紗枝は、すぐに病んだ。


『なんで、……そんなこと言うの?』


 刀を持ち、鍔に親指を掛け、ゆっくりと迫る。

 血に濡れた女が上半身を脱いだ状態で近づいてくるのだ。

 怖いに決まっていた。


 壁際にまで追いつめられた男。


『だれ――』


 大きく口を開けた瞬間。

 彼は蔀窓しとみまどの方を向いた。

 眼前の狂気から目を逸らし、近隣に住む者達へ助けを求めたのだ。


 しかし、悲鳴は異音に変わる。


 目を逸らした途端、喉元は斬られていた。

 声を出そうとすれば、喉が震える。

 震えた際に傷口が内側から膨らみ、赤い湧き水を流し始めた。


『がっ……ぁ……っ……』

『女の子の誘い、……断ったらダメなんだよ?』


 と、いう事が過去にあり、紗枝はトラウマになっていた。


 首を横に振り、忌々しい記憶を頭から消し去る。

 いつでも動かせるように、肩甲骨を始めとして、背中から前、股、全身を火で温めるのだった。

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