いったいどれだけの時間が経ったのだろう。薄荷はっか色の煌めきを瞳に写す時間は、寸刻とも永遠とも思われた。しんと静まり返った狭い小屋で、人々は息をするのも忘れてしまったかのようだ。

 しかし、その静寂は破られる。

 突如として轟音が響き、見世物小屋が崩れ落ちたのだ。むしろ張りの簡素な作りだったことが幸いし、大事には至らなかった。しかし先程までの晴れ空が嘘のように黒雲に覆われている。突然の雷雨と小屋を吹き飛ばすほどの突風に、辺りは混乱に陥った。

「大丈夫か、蓮太郎!」

 いち早く這い出た颯介が蓮太郎を引っ張り出す。助けられた蓮太郎もまた、颯介と共に未だ埋もれている人々を助ける。

 とどろく雷鼓と逃げ惑う人々の悲鳴に混ざる場違いな呼びかけに気付く者はいない。暗雲を背に濡羽色の翼をはためかせる男は「風は吹かせた! 後は好きにせい!」と言い残し飛び去った。

 その混迷の最中さなか、見世物小屋の主人が怒号をあげる。

「返せ! それは私のものだ!」

 視線の先には、人魚の木乃伊ミイラを抱える者がいた。その半身は木乃伊と同じく薄荷色の鱗に覆われ、蛇のように長い。信じられない光景を前にして、颯介と蓮太郎は唖然とする。贋物でも幻でもない、本物の人魚が目の前に存在しているのだ。

 雷に照らされ、鱗が一際強く輝いた。雨に打たれ湿しとる髪の間から見開かれた目が覗く。そして積もる恨みを晴らすかのように、人魚は主人を金切り声で責め立てた。呪詛のような響きに颯介たちは思わず耳を塞ぐ。

 そうして人魚は主人に背を向けると、雨の流れる地面を這い進む。行き先、いや帰る先は川なのだろう。

「返せ!」

 尚も叫声をあげ追い縋る主人は、人魚を追って隅田川へ飛び込んだ。それから幾何いくばくもなく風雨は止んだが、人魚はもちろん、主人と木乃伊も行方知れずとなった。

 こうした騒ぎの中で、二人の両国見物は幕を閉じる。しかし物語は終わらない。


 港町へ帰った数日後のこと。港にほど近い浜辺に、あの日見た人魚が流れ着いたのだ。白く砕ける波に揺られるがまま、力なく横たわり、幼子の木乃伊を抱きしめている。亡骸となった我が子を、それでも決して離すまいとする親のように。

 嵐の中で人魚が発したものは、言葉ではなく金物を切り裂くような音にしか聞こえなかった。だから颯介たちに、この人魚の心事をつまびらかに知ることはできない。しかし、あの悲壮な叫びと優しく抱きしめる腕からするに、親子か兄弟姉妹か、あるいはまた別の何かか。いづれせよ大切に思っていることは確かなのだろう。

 二人は人魚たちをねんごろに葬ってやり、塚には大小二つの石を寄り添わせるように立てた。

「蓮太郎、颯介。何やってるんだこんな所で」

「いやァ、その……」

「……海を眺めてたんだよ」

「そう? それよりも、そろそろ江戸の話を聞かせてくれよ。二人とも全然話してくれないじゃないか!」

 土産話をねだる孫七に、二人は曖昧な返事をするだけだ。このときばかりは普段のようにじゃれ合う気にもなれなかった。


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