船を降りた二人を迎えたのは、江戸の喧騒だった。

 往来では、片肌脱ぎになって大八車を引く車力が行き交い、表店おもてだなの主人が共を引き連れ忙しなく行く。お歯黒をした御内儀も、前掛けをした手代も溌剌はつらつと商いに勤しみ、威勢よく売り歩く棒手ぼてりが更に活気を添える。裏長屋へ続く木戸から出てきた女房は背負った赤子をあやし、そこに風車売りが通りかかる。振り袖姿の若い娘が連れ立つのは習い事か参詣か。どこかの店から使いに出たであろう丁稚でっちは犬と戯れている。

 日本橋の河岸かしから見世物小屋のある両国りょうごくまで、ほんのわずかな道すがらだのいうのに、賑わいに気圧された二人の歩みは遅々として進まない。特に蓮太郎は、三味線を抱え歩く女太夫とすれ違えばそちらへふらふら、鐘を鳴らし陽気に唄う飴売りを見かければそちらへふらふら、惹かれるままに吸い寄せられた。その度に颯介が当初の目的を思い出させてやるのである。


 そうして、やっとたどり着いた両国橋のたもと。火除け地として設けられた広小路には、多種多様な見世物小屋が集まっていた。

 竹を編み作られた壮大な籠細工、愉快な踊りや寄席。曲芸ならば、曲独楽に曲扇子、果ては曲屁に至るまで。人間ばかりではない。猿の軽業、猫の芝居。更には孔雀、鸚鵡オウム、山嵐といった舶来の珍獣を見物できると謳う小屋もある。

「なァ、颯介。猫の芝居だってよ、猫の芝居!」

「お前、目的忘れてないか」

 そんなやり取りをしながらも見つけたのは、海をえがいた看板を掲げるこじんまりとした見世物小屋だ。隅田川にほど近い場所に佇み、入口横に座る木戸番が威勢よく声を張り上げる。

「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 世にも珍しい人魚の木乃伊ミイラ、見なきゃ損だよ! ひと目見れば健康長寿、五穀豊穣、武運長久、商売繁盛! あとは何だ……、そう! 一攫千金も付けたらぁ! 持ってけドロボー!」

 客から銭を受け取り、代わりに札を渡して小屋の中へ案内する。口上を続けながらも次々と客を入れる様は小気味良い。

「女房を質に入れても見るしかない! いや、もしかしたら既に旦那を質に入れる算段をつけてるかもしれない。そこの旦那、質に入れられる前に見ていきな!」

 遊びあるく商家の若旦那、風雅な装いの御隠居と付き人、はしゃぐ娘御たち、田舎から出てきた二人連れの武士、好奇心旺盛なわらべに手を引かれる親、皆一様に絵看板の下に開く入口へ吸い込まれていく。

 蓮太郎と颯介はその後へ続くが、期待に弾む胸を隠しきれずに問う。

「なァ、人魚の木乃伊ってのは、本当に本物なのかい?」

「人魚の仲間が木乃伊を奪い返しにきたというのは?」

 木戸番は得意げな笑みを浮かべ、手慣れた様子で二人を案内する。

「それは、入ってからのお楽しみだよ!」


 むしろ張りの小屋は簡素な作りをしているが、青空は覆われ薄暗い。客が今か今かと待ち望みひしめき合う中では、外から聞こえる雑踏や歓声が果てしなく遠く感じられた。

 ほどなくして、見世物小屋の主人が布に覆われた“何か”を客の目の前へと運び込む。

「とざい、東西とぉーざい!」

 大仰な口上に、客席の空気が引き締まる。

「ここに取り出したりますは、世にも珍しき人魚の木乃伊! しかし、皆々様、焦らないでくださいまし。まずはわたくしが遭遇した、奇妙な出来事から話すことにいたしましょう」

 声を低めたことが、かえって客の好奇心をそそった。蓮太郎と颯介も例外ではない。踊る心を落ち着かせ、耳を傾ける。

「あれは昨年、この人魚の木乃伊を初めてお披露目した日のこと。暮れ六つが近づき、私はそろそろ小屋を閉めようかと思ったのです。そうしましたら何かを引き摺るような、ズル……ズル……という音が聞こえてくるではありませんか。不思議に思う間もなく、そちらの入口から現れたのは……、なんと、人魚!」

 入口付近に座っていた蓮太郎はおののき、颯介のほうへ身を寄せる。

「柳のような髪から鋭い目を覗かせ、『帰セ……、帰セ……』と呻きながら私に迫るのです。危うし……! と思ったところで、木戸番が駆け付け事なきを得たのでした。しかし川へ去っていく人魚の尾を、私はハッキリとこの目で見たのです。この人魚の木乃伊と、同じ色をしておりました。きっと、同族の者が取り返しにきたのでしょう」

 なればこそ、この人魚の木乃伊は本物であると言外に示している。

「それでは、ご覧に入れましょう!」

 そうして幕が取り払われた途端、客は皆、息をのんだ。

 瑞々しい薄荷はっか色の鱗が整然と並び、薄明かりの中で煌めいている。尾ひれは透きとおり羽衣のようだ。海を揺蕩たゆたう姿が容易に想像できるほどに、生彩を放っている。

 驚くべきはそれだけではない。魚の半身から繋がる上体は人の形をしていた。十にも満たない幼子が胸の上で手を組み、目を閉じている。そのあどけない頬はふっくらと丸みを帯び、木乃伊と言うにはあまりにも張りがある。

 蓮太郎が思い描いたような蠱惑こわく的な人魚ではない。颯介が考えたような贋物にせものでもない。しかし美しい輝きと完璧な造形を前にして、二人は他の客と同じく、まるで時が止まったかのように見入っていた。



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