第36話

「どういう意味です?」

「昔に祀られていた自然神で、山を統べ動物たちを慈しみ植物を生んだ山母神さんぼじん様がおられるんだけど、人足が十本と獣足が一本ある雌雄同体の白い鹿で……今触れた霊糸、以前僕が管轄している山で発見した遺跡に祀られていた山母神様の気配に凄く似てて」

「多足系は虫だけじゃないんですね」

「どうしようっ、ええっ、現代信仰のもっと前に信仰されていた山母神様を召喚したってことっ? え、えっ、ちょっと意味わかんないんですけど」


 竜樹くんは埃だらけのテーブルに水の入った盆をそっと置いて、慌ててスマートフォンを取り出した。

 すぐにコールして出たのはもちろんこがねくんだ。


「グミ、百足じゃないよっ。山母神様だっ、どうしよう!」

『山母神様? 自分の山を動かねえんじゃないのか』

「そそっ、そう、そうだけど、今、霊糸が、僕に触れた霊糸から、山母神様の気配がして」


 ブブッ

 ビビビビビビビビガガガガッ

 ツーツーツー


「グミ?」

「通話切れてますね」

「冷静に言わないでくれますっ? どうしよう……っ」

『山母神が心配か。ここへ導いて様子を見ればいいだろう』

「っ……オナシャス!」

『山母神を呼ぶ言霊は選べるか』

「え、僕が呼ぶ流れ?」

『当然だ。俺は守護霊なのだから、征燈を守護する以外なにもしない』

「はぅ。ご、ごもっとも」


 期待からの絶望を表情で見事に見せてくれた竜樹くんは、ブツブツ独り言を呟いた。

 持っている能力が戦闘向きではないから、こういう場面で前に出る経験をしたことがないのは如実だ。

 自信のない空気が、完全に竜樹くんを包み込んだ。


 ガサガサガサガサ


「ヒッ……?」


 瓦礫やゴミなどを掻き分けこちらへ向かってくる気配に、竜樹くんが見るからに飛び上がり硬直する。

 征燈は気配を真っ直ぐ見据えた。


 足音というよりはなにかを引き摺るような音が近づいてくる。

 漂ってくる気配にはたくさんの思惑が混ざり合っていた。


「デケエ……」

『どう視える?』

「見上げるほど大きな百足」

『他には?』

「……カラフルな布がたくさんヒラヒラしてる。あとは紐。泥をぶつけられたみたいな染みがあちこちにあって、胴体もずっと動いて変形してる」

『布はどのくらいの長さだ?』

「なんか、飾りみたいなくらい……長くもなく、短くもない。あと、古くない。紐のほうは古い。毛羽立ってるし、色も汚い。色は赤と黒が多い」

『胴体の変形はどう視える?』

「エイリアンに食われた人間が、腹の中で暴れてるみたいにグニグニ動いている」


 ギギギギギギギギギ

 カチカチカチカチカチカチカチカチ


『竜樹くん、君にはどう視える?』

「はっ、はひっ? え、ぼ、僕にも、呪詛縛りに遭った百足みたいに……視える、けど、気配は山母神様で間違いない、です」

『……召喚式に幻視の印が含まれているな』

「原始人?」

『能力者が対象を見た時に、百足に視えるよう呪いをかけられているんだ』

「なら最初からそう言えよ」

『幻視を原始人と聞き間違えるほうもどうかと思うぞ』

「うっさい」


 「見上げるほど大きな百足」は、俺の結界の際までやってきた。

 クワガタムシの角のような鋭い歯を威嚇するように鳴らし、足元でガサガサと埃や瓦礫を混ぜて音を出している。


『幻視は守護する者の視界を妨害する。故に、幻視の印を封殺する』

「できんのかよ」

『誰に聞いているんだ? お前の不利は俺が払拭する。守護霊だからな』


 変わり果てた姿の山母神にショックを受けているのか、竜樹くんは震えながらしゃがみ込んでしまった。

 征燈は結界の外から覗き込む山母神から竜樹くんを護るように立ちはだかる。

 そして、俺はその前に出た。


 ガガガガガガガガッ

 ギチギチギチギチ

 ギギギギギギギギギィ


 鋭い歯を振り上げ、結界に叩きつける。

 繰り返せば結界が弱くなるとでも思っているのか、狂ったように何度も打ちつけてくる。

 神聖なる精霊の息吹であればまだしも、有象無象な意識が渦巻く滅茶苦茶な動きに俺の結界がどうにかなるワケがない。


『助けを乞うか、古のひじりなる霊よ』


 俺が視認しているのは、本来の姿だ。

 忌綱や呪布によって自由を奪われ召喚印に固定された、月の輝きを混ぜた春日光のような白を発する多足の鹿。

 澄み渡る空を移す蒼い眼からは苦しみと悲しみの涙が零れ、数千年培ってきた霊力の源である樹木のような角も無残に枯れ干乾びていた。

 人の足は半分以上がだらりと地面を擦り、傷だらけの足数本でなんとか倒壊を耐えている。

 その中で、唯一、山母神本体とも言える獣の足だけが、身に起きた不逞に怒り狂ったように蹄で床を穿っていた。


『どうする』


 問うた瞬間に拒否された。

 枯れた角を叩きつけても破られることのない結界に頭を振り、高く咆哮を上げる。

 腹に力を籠め吐き出した叫びに、踏ん張っている人足が裂けた。

 そこから鮮血が噴き出すことはないが、纏わりつく不穏な気配が裂けた場所から内側に無理やり潜り込もうと蠢く。

 相当な痛みだろう。

 なんの穢れもない管理された山の中で穏やかに呼吸をしていたであろう存在が、ここまで貶められ哀れな姿を晒すことになる経緯に、征燈が巻き込まれないでほしいと思う。

 どんな理由であれ、ここまでのレベルの神霊を穢すことのできる能力を持った誰かがいるのは事実なのだ。

 顔の見えない誰かに、嫁神楽家を悟られてはならない気がする。


 ギギギギギギギギギギギギギギギギギギ


『ならば畏怖と尊重、敬意をもって貴殿に相向かい清らかなる印を持ち盃としよう』


 固唾を呑む征燈を振り返り、眉間を軽く指で弾いた。

 その場を押し込むように掌を広げ、手の甲から腕を辿るように左小指でなぞる。


『掲げたまう受け取りたまえ、綺羅引きの滴は甘露にて妙薬。我が敬虔なる思慕を飲み干せ。さすれば賜い剥奪の徒は蔭へと戻る』


 左指を花が咲くようにそっと広げ掲げると、朧の中を進む白い船のような形が現れる。


『渇き枯れた事象を穢し塗り替えるおぞましきは陰人の現の欲、望み、それらすべてをこの盃にて打ち砕き光なる輝きと清らかなる御霊へと還そう』


 笹船のような形をした盃が掌で一回転する。

 二回、三回……と回転を繰り返し、五十三回目で矛先を山母神へ向けてピタリと止まった。

 五十三の穢れを身に纏った山母神は、俺が掲げた盃に気がついたようだ。

 結界への攻撃を止め、首を下げ口を近づけようとする。

 だが、なにかに弾かれて大きく仰け反った。


「攻撃してんのか?」

『していない。山母神の清めを妨害する輩が纏わり憑いているんだ』

「シャモで蹴散らすからその隙に清めとか言うの続けろ」

『頭近くのヒラヒラ辺りだ』

「ん」


 俺が手を離し視界を得た征燈は手を叩く。


 クケーッ!


「ヒッ、大きすぎでしょ!」

「行けるよな?」


 コケーッ、コッコッココケー!


 シャモを初めて見た竜樹くんのツッコミを聞き流し、征燈は仁王立ちのシャモに声をかけた。

 勇ましい声を上げ翼を広げたシャモへ、柏手が響く。


 シャモは俺の結界を通り抜け、征燈の指示通りの場所へ弾丸のように突っ込んだ。

 軽く躱されるが、空中で態勢を変えさらに突っ込んでいく。

 妨害しようとうねる布や紐は長い尾羽でいなし、鋭い蹴りを一発入れた。


「あ、ああわ、こっ、攻撃、しないで! 山母神様なんだよ! 暴力反対っ、せめて覚醒させてーっ!」

「攻撃しないと動けないんだろっ、覚醒ってなんだよ」

「衝撃振動が山さんに伝わるからダメっ! 覚醒は目を覚ますってことーっ!」

『征燈、シャモに朝を告げさせるんだ』

「朝を告げるって、まだ夕方前だぞ」

『シャモが鳴けば朝だ』

「意味わかんねえ」


 縋りつく竜樹くんをくっつけたまま悪態を吐いた征燈だが、ニワトリが朝を告げる意味を思い出したようだ。

 手を打ち、忌まわしい気配と格闘していたシャモに距離を置く指示を出す。


「シャモ、鳴け! 朝だ!」


 クエッ

 ココココッ、コケッ、コケコッコーッ


 人に、霊に、朝を告げ覚醒と眠りを与えた声が吹き抜けを駆け上がり方々へと広がった。


 コケコッコーッ

 コケーッ、コケコッコーッ!


 二度目にして反響し、三度目で山母神の身体に纏わりついた気配の一部を弾き飛ばす。

 呪布が引き千切れ、空中で青白い炎にまかれながら焼失した。


『捧げ拝する盃を』


 盃をさらに高く掲げると、再び山母神が首を下げた。

 ぐぐぐ、と引っ張られる力に抵抗するように頭を震わせ、力の限りで盃に口をつけようとする。


「っ、うぅっ、しゅ、祝杯給わる土肥山谷司るは安寧の山岳護るは息づく生命鎮るは芽吹く生命奉る願いを地に伏せ奉る言霊を空へと放ち永久なる山脈の連なりと豊饒の恵への感謝を捧げ給う」


 見事な燈鎮韻を口にした竜樹くんのおかげで、山母神本来の力が一瞬解放されたようだ。

 全身に痙攣が走り、憑いている気配がいくつか剝がれる。

 それで抵抗力が弱まったのか、山母神はようやく盃に口をつけた。


 僅かな気配が、穢れの最奥から俺たちを見ているようだ。

 その視界に触れないよう、素早く結界で遮る。

 守護霊になった俺にも忌まわしく感じる、重く暗い気配には明確な狂気が灯っていた。

 誰かは詮索しない。

 詮索の感情すら嗅ぎつけてきそうな、野蛮な気配だ。


 ガガガガガガガガ

 ググググググルルルルルルルルル

 ガッガガッグルルゥオオオオオーンン


 水の中で叫ぶようなこもった声が空間を満たす。

 全身を震わせ、自らについた厄を祓い落としていく。

 一気に輝きが陰を引き裂き、忌綱も呪布も清め昇華する。


 傷つき、力尽きていた人足が活気を取り戻して瓦礫を踏みしめた。

 簡単に折れてしまいそうなほどに枯れていた角に瑞々しい艶が戻り、幻視の印も跡形もなく砕かれる。

 そうして二人の人間の目前に顕現した山母神は、薄暗く埃と瓦礫、打ち棄てられた廃墟の中にあっても神々しく視えただろう。


「あ、はわ……さ、山母神、様」

『征燈はどう視える?』

「足元気持ち悪いけど、凄いってのはわかる白い鹿」

「足元気持ち悪いとか言わないでよっ、あれは、山の聖霊でありながらも山に入る人間への慈悲の表れなんだからぁっ」

「いや、気持ち悪いですって」

『現代人から見れば、体現への敬意は伝わらんか』

「敬意ってもなあ……」

『正気を取り戻したか、山の聖霊よ』


 カミタツタミキハカルサヂヲ


『そうか、ならば式の痕跡まで案内してほしい』


 ラキツカミタルカカカキ


『よろしく頼む』


 山母神は重そうに身体を反転させた。

 祓ったのは前部分だけで、まだ後ろにはたくさんの気配がこびりついている。

 それでも足元が解放されたからなのか、しっかりと己の意思で前進し始めたのを感じた。


『召喚式を見つけたら、君の手で山母神を山へ返してくれるか』

「はいっ、それは、もう! 当然、僕のお仕事、ですから……!」

『よろしく頼む』

「……ッ、……! …………尊いっ」


 竜樹くんは山母神の手前なのか奇声を堪え、絞り出すように「尊い」と呻いて胸を押さえる。

 それを見ていた征燈は戻さずに隣を歩くシャモに肩を竦めて見せ、シャモはくるんとした目を瞬かせ首を傾げた。


「さっきの音って、神様の声?」

『声と定義するのは難しいが、声としなければ説明がつかない意志ある音だ』

「ふぅん」

「ゆ、征燈くんは、山母神様の、言霊が聞こえるんだね」

「まあ、普通に」

「やっぱり、す、凄いな」

「凄いのは竜樹さんの能力でしょ。俺、全然疲れてないし、シャモ超元気だし」

「いや、これは、空気みたいなものだから……癒すための力って、言われてるけど、僕はいつも誰かを癒そうとしてるワケじゃない。僕にとってこの力は、呼吸と同じで自活の中に含まれていたことであって、わざわざ能力って言われるようなものでもないって思ってる」

「嫌なんですか、その力」

「煩わしいときはあるよ。でも、どうしようもない。制御を覚えたところで、理屈じゃなく制御できないんだ。制御は呼吸を止めることみたいなもので、ある程度はできるようになるけど、僕は苦しくなるくらいならなにもしないほうが楽って考え」

「確かに呼吸を完全に止めるなんてこと、生きてたら不可能に近いですよね。それに自分的には特別なことをしているワケじゃないから、他人から特別だって褒められても面白くないか」

「……晴燈くんの言う通り、征燈くんは凄いね」

「は? 晴燈と知らない間になにを話してんだよ。適当なこと教えてたら許さないからな?」

「ええぇ~、弟過激派が急に脅してくるーっ」


 弟へのブレなさは、さらに磨きがかかってきたな。

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