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——日本の外気は蒸し蒸しとしていて、過ごしやすい国だとはおよそ言い難い。まるで日本人の陰湿な人間性を表現しているようだ。
YAKYU-KEN開催当日。タンホイザーはテカテカと光る頭をタオルで拭きながら、ボディーガードに車内の空調を下げるように言った。
タンホイザーは二度だけ、日本を訪れたことがあった。一度目は学生のときに留学で。二度目は大統領になってすぐ、当時の総理に会うためだ。
留学生だった頃のタンホイザーは日本という国に憧れていた。大戦であれだけ負けておきながらここまで成長した国は世界中を見渡してもそうないだろう。しかも戦時中の国民は国の為と特攻を仕掛け、米国を恐れさせたという。そして国民は一丸となってそれを讃えていた。負け戦だと気づいていながら愛国心を捨てずに命を燃やすそのイカれた精神性に、タンホイザーは畏敬の念を覚えていた。
今はどう思っているのかと、タンホイザーは自身に問いかける。答えは出ない。未だ憧れる気持ちと、既に落ちぶれた上にYAKYU-KENなどというくだらないもので文化浄化を行った愚かな国だと慢侮する気持ちが交じり合っていた。
「到着しました」
ボディーガードが車のドアを開ける。その向こうでタンホイザーを待ち構えている者がいた。日本の総理大臣、マヤだ。
「初めまして。タンホイザーだいとう……りょう?」
はじめ、にこやかな笑みを浮かべていたマヤの顔は、タンホイザーを目に留めた瞬間に陰りを見せた。しかしそれを意にも介さず、タンホイザーは車に体をつっかえさせながら戦場へと降り立つ。
少しよろけたところをボディーガードに支えられたタンホイザーは、冬でもそうはしないだろうと言うほどに厚着をしていた。中年太りで腹は膨れていたが、そんなだらしない体が健康的に見えるほどの厚着だ。一番上に着ていたのは緑と薄橙のボーダーニットだったが、赤道のように伸びきった薄橙は伸びきり、千切れそうだと悲鳴を上げている。これでもかという着膨れに、おべっか上手なマヤも言葉を失った。
タンホイザーはボディーガードに支えられながらマヤへと足を進める。
「やあマヤ。今日はこのような場を設けて下さり、感謝する」
厚着のせいでぎこちなくも、タンホイザーはマヤに握手を求めるべく手を伸ばした。親日でもアジア圏でもないT国は日本と交友を図る機会も必然性もなかった。ニュースや国際会議で顔を見ることはあっても、こうして面と向かって話すのは初めてだった。目尻に刻まれた皺は彼を実年齢より老いて見せた。何より、背丈と同じで気も小さそうな男だ、とタンホイザーは思った。
「あなたはなぜそのような厚着を……」
「勝負に勝つためさ。無論、じゃんけん如きでこの私が負ける気はないが、念には念を、というところだよ」
「いやしかし」
「YAKYU-KENのルールに、厚着をしてはならないというものは、あったかな?」
「い、いえ」
マヤの何か言いたげな、それでも言えないという表情を見て、タンホイザーは右の口角を上げた。
YAKYU-KENは開催国が審判を務めることになっている。未だルールの確立されていないゲームの中、ルール違反となるか否かは審判次第だ。もちろん、Y国に買収されている可能性もなくはないが、こちらが強気でいけば、マヤが「No」と言えないのはわかりきっていた。
「やあやあ、マヤじゃないか」
ニヒルさを混ぜた声が聞こえる。タンホイザーは動けそうにない胴体を置いて、首だけをその方向へと捻った。
「イェメリノ……」
スーツの上からでも分かる、引き締まった身体。オールバックにしたブロンドには歳を重ねた銀が散りばめられている。そして髪と一緒にワックスで固めたかのように引き上げられた左頬。マヤとは反対に年齢より若く見えるのは皺が目立たないせいだろう。流石、美丈夫ともてはやされるY国大統領なだけはある。
「今日はとても良い日だ。上は見えるか? 青々とした美しい空! まあ、Y国から見る景色も負けてはいないがね。なにせ去年の「世界の絶景100選」に選ばれたばかりだ。マヤにもぜひ見に来てもらいたいものだよ」
イェメリノはそう言ってマヤにウインクをした。そしてマヤの腰に手を当て、女を口説くように自国の自慢話を続ける。
皮肉なのか本心なのか、相変わらず分かりかねる顔だ、とタンホイザーは心の中で悪態をつく。その舌が蛇になっていたとしても誰も気付かないだろう。それが大国に気に入られ、援助を受けているというのだから解せない。
Y国はT国と同じ発展途上国ながら、大国からの支援を受けてIT大国として名を馳せつつあった。近年では考えるだけで操作可能な電子機器の研究に力を入れているとも。
————こいつにとって、今日の勝負はどれほどの勝算があるのだろうか。
「御二人ともお揃いですので、そろそろ会場に向かいましょうか」
敬して遠ざけるという関係なのか。開いた口を閉じる気配がないイェメリノの言葉をマヤは遮った。イェメリノはというと不満げな顔でタンホイザーに向き直る。
「やあタンホイザー。前回の協議ぶりだな」そして左目を大げさに引き下げて「なんだ、まだ勝負は始まっていないというのに、もう髪を脱いだのか? タンホイザーは我々にハンデをくれたらしい」
イェメリノがそう言うと、彼の後ろに立つボディーガードは大げさに口角を上げた。タンホイザーの頬がカァと熱くなる。
「君こそ、随分と薄着じゃないか。自尊心が厚くて服も着れないのかな。そうだ! T国産のボディアーマーを贈ってあげよう。銃弾から身を守れるうえに薄くて軽いと、君の国を支援している国々も愛用していた一品さ。それを着れば、君にも少しは勝ち目ができるのではないかな」
負けじとタンホイザーの方も口角を上げた。
「そんな前時代的なものは必要ないさ。なにせ秘策があるからね」
イェメリノはブルックスブラザーズのネクタイを締め直す。
——大国のブタめ。タンホイザーは喉元まで出た言葉を胃に押し込んだ。
会場は湿った熱気と溢れかえる人々の声で満たされていた。頭上からの強いライトはタンホイザーの視覚を乱し、五感を奪われたような感覚になった彼は眩暈を覚えた。
ライトに反射したカメラレンズが遠目に見える。あれはどこの国のマスコミなのだろうか。自国か、あるいはY国か、それ以外か。チカチカと反射しているのが酷く目障りだ。
雨が入らないよう閉じられた天井が、逃げるのかとタンホイザーに語り掛けた気がした。自分の内なる声か、単なる幻覚かの区別は彼にはついていない。
——逃げるものか。私はここで勝たねばならない。
ボディーガードが支えようと傍へ寄ってきたのをタンホイザーは手で遮った。どのみち勝負の間は外部との接触を絶たねばならない。自分の力で歩かねばならないのだ。
「ひとつ、約束事をしよう」
イェメリノが声を張り上げた。互いに腕を伸ばせば届くほどの距離にも関わらず、声の断片を聞き取って頭の中で再構築するのがやっとだった。
「なんだ」
「どちらが勝っても、友好のハグをしようじゃないか」
——わざとらしい。外部へ向けたパフォーマンスなのが透けて見えるぞ。そう思うと同時にタンホイザーは無意識に鼻を鳴らしていた。しまった、とタンホイザーは口元と鼻を覆ったが遅く、イェメリノは会場に来るまでの道中も開きっぱなしだった口を、そこで漸く一文字に結ぶ。
「あのぉ……そろそろお時間ですので……」
マヤが低い背を縮こめながら間に割って入ってきた。
「君は愚かじゃないと信じていたのだけれどね」
イェメリノはこめかみをトントンと叩くと、背を向けて所定の位置へと誘導されていく。
互いの国歌斉唱がなされ、2人の大統領は再び顔を突き合わせた。
マヤが右手を挙げると同時に、和楽器でアレンジされた音楽が流れはじめる。確か日本のゲームの音楽だったはずだ。有名な……。そこまでは分かったが、何のゲームかをタンホイザーが思い出すことは終ぞなかった。
曲が終わり、会場が静まり返る。これから戦争が、神から与えられた神聖な儀式がはじまるのだと誰もが期待した。この空気に呑まれてはいけない、とタンホイザーはかぶりを振る。
この日に備え、タンホイザーはじゃんけん及びYAKYU-KENについて徹底的に調べ上げていた。真偽の分からないアフィリエイトサイトから、科学的に取りまとめられた論文まで。そこではじゃんけんで出やすい手はグー、と言われていた。つまりパーを出せば勝利する確率は高くなる。僅差に過ぎない確率だが、信じないには大きい差であることもタンホイザーは理解していた。
————最初はパーだな。
マヤの掛け声がマイク越しにハウリングして響いた。
「OUT! SAFE! YOYOI NO YOI!」
タンホイザーはパー、イェメリノはチョキだった。
——チョキはその形の複雑さから出る確率は最も低いと言われているが、一概には言えなかったのだろう。奴はスーツ1着のみだ。始めの1枚くらいはくれてやる。
タンホイザーは1番上に着ているボーダーニットを引きちぎる勢いで脱いだ。腕が抜けず、最終的にはボディーガードの介助を受けて漸く脱ぐことができた。上半身だけでもまだ20枚は着ている。問題ないだろうと、タンホイザーは見積もっていた。
だが現実は甘くはなかった。
——なぜだ! なぜそうなる!?
着々と薄くなる衣服。それと反比例するように増える冷や汗。薄着になるにつれて涼しくなっていく背中に這う汗は、タンホイザーに焦燥感を悟らせた。
「おや、また勝ってしまった。こんな素晴らしい偶然があっていいものだろうか。帰りにブタの糞でも踏みつけてしまうかもしれない」
0勝68敗……今しがたの勝負を含めれば69敗。ここまできてまぐれを貫き通すのは無理があるだろう。タンホイザーは目を眇める。
タンホイザーは最後の1枚となるズボンを下ろす。引っかかった腹肉をブルンと震わせ、ズボンを衣服の山へと放った。
タンホイザーは遂にパンツ1丁となってしまう。汗でぐっちょりと濡れたすね毛がどこから来たのかも分からない風に吹かれて揺れた。雨の明けた秋空に首を垂れるススキさながらに。その先から朝露のように細かく跳ねる汗が地面へと霧散した。
後から駆け付けたT国副大統領が何度目かのタイムを取っているのが遠目に見えた。プレッシャーからの束の間の解放にタンホイザーは安堵する。
「あなたは充分頑張りました」
だから、棄権しろ。敗戦するだけでなく国のトップが醜態を晒すなど、今後の外交でも不利になる。副大統領はそう言いたげだった。
——もう逃げてもいいのではないか? 己の体がずり動く音がして、タンホイザーは何度目かの眩暈をおこした。
ストレスからくる胃痛が胃酸を逆流させる。全身が干上がっている。濃い毛の生えた足がガクつく。どこを向いても小さくならない罵声と歓声に耳が痛む。額の上が縮こまる感覚がタンホイザーに限界を訴えていた。もはや立っているのがやっとだった。
————なぜ私はこんなにも弱いのだ。
タンホイザーは自身を逃がすまいと堅く閉じられた天井を眺める。
虫かごに入れられた虫は逃げられずに……。
タンホイザーの中に、過去の記憶が去来する。
母の姿を真似た『神』を見た時でさえ、思い出さなかったもの。「コーヒーのように苦い」では済まない。あの挫折も、苦痛も、タンホイザーにとってはブランケットで覆い隠してしまいたいものだった。
それをこの時ようやく掘り起こした。絡まった糸を解くように、自身が生まれ変わった日をやわらかく解す。
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