第5話 宇佐美葵というアイドル
「そろそろ行かなくちゃ」
そう言うと、彼女は鏡台に座って自らの顔にメイクを施していく。最後に、鮮やかな口紅を引くと、鏡に向かって顔を傾けながら出来を確かめた。
「よし、OK。どうかな?月斗くん」
振り向いた彼女は、まるで作り物かのような美しさを誇っていた。その姿は、まさしく偶像【アイドル】というべきものだろう。
「あぁ、似合っている」
「ふふっ、ありがと。それじゃ、ついてきて」
そう言って微笑むと、彼女は俺の手を引いて楽屋を出た。
「ここだよ」
彼女に案内されたのは、特別者以外立ち入り禁止と書かれた扉の前だった。
「ここは?」
「見ての通り、特別者、つまり特別な人しか入れない場所だよ。でも、そのチケットを持ってる月斗くんには、ここに入る権利があるんだよ」
扉を開け、中に入るとその場所には10個数の座席があった。座席の目の前にはステージがあり、この場所からなら彼女達のパフォーマンスが間近で見ることができるだろう。後ろには一般客用の座席がずらりと並べられていた。
「特等席、というわけか」
「そうだよ」
荷物を近くに置き、座席に座る。
「ありがとう、月斗くん。貴方には助けられてばっかりだね」
そう言うと、彼女は近づいてくる。
「ごめんね、今はまだ【宇佐美葵】だから、これしかできないけど」
そして、彼女は俺の顔に唇を近づけた。
「なっ……」
突然の出来事に、言葉を失う。まさか、ファーストキスを奪われるとは思わなかったのだ。
「さっきのお礼。これでチャラってことで」
彼女は悪戯っぽく笑う。
「ねぇ、月斗くん。私、好きだよ。君の事」
そう言うと、呆然とする俺を残して彼女は足早に去っていった。
時刻は15時。
ついに〈Queens〉のライブが始まる時間だ。
「お待たせしました!これより、Queensのメンバーによるスペシャルライブ、〈Queens Live!!〉の開催致します!」
アナウンスの声と同時に、会場内が歓声に包まれる。この大衆を前にしても、緊張している様子は見られない。流石、プロといったところだろうか。やがて、音楽が流れ始めると、観客達はペンライトを点灯させた。いよいよ始まるようだ。
「「Hey!声をあげて!Hey!一人じゃないよ」」
曲が始まり、五人の少女達が歌い出す。一番目を引くセンターの位置に彼女はいた。純白の衣装に身を包み、軽やかに踊るその姿はまさしくアイドルというべきものだろう。
「「夢はきっとかなうよ いつだって未来は輝いてる」」
少女達の歌声に合わせ、観客達もペンライトを振り回しながらリズムに乗る。
「「どんなことがあってもくじけないで前に行こう」」
曲がサビに差し掛かる。その時だった。
「「いつか君も大人になる その時は思い出して」」
気がつくと、掌に爪の跡ができるほど俺は拳を強く握りしめていた。彼女の歌に魅了されてしまったようだ。
「「君だけの物語があるってことを」」
曲が終わり、一瞬の間が開く。その直後、大きな拍手と歓声が沸き起こった。
「みんな、ちょっと聞いてね」
拍手が鳴り止むと同時に、彼女がマイクを手に取った。
「私、宇佐美葵は────〈Queens〉を卒業します。」
会場がどよめく。当然だ。人気絶頂期に引退するなんて、観客の誰一人として想像できなかっただろう。だが、すぐにざわめきは収まり、静寂が訪れた。彼女の真剣な表情を見て、皆悟ったのだろう。これは本当のことだということを。
「私、ずっと前からアイドルに、お母さんに憧れてたんです。でも、ずっとお母さんに頼ってばかりで。CMだって、ドラマだって。全部お母さんのお陰で出演して」
そこで彼女は一度息を吐く。
「私、気づいたの。私は今まで自分の力だけでやりとげたことなんて無いんだって。だから、私はこれから自分で考えて、自分で決めたいって思うの」
その瞳には、強い意志が宿っていた。
「私はもう、甘えない。今日から、私は変わりたい。だから、これが最後の晴れ舞台。みなさん、どうか、見届けてください」
彼女は深々と頭を下げる。そんな彼女の決意表明を見た観客達からは、大きな拍手が巻き起こる。
「今までありがとう!葵ちゃん!」
「これからもがっばってね!」
「ずっと、応援してるからね!」
「葵ちゃんは、世界一!」
ファン達の暖かい言葉を聴きながら、彼女は笑顔を浮かべた。そして、ゆっくりと自分の立ち位置に戻ると、次の曲を歌い始める。
「貴方が月斗さんですか?」
隣を見ると、彼女にそっくりな女性がいた。
「あぁ、そうだが」
「私、西之青子と申します」
「貴女が彼女の……」
西之青子、彼女の口から語られた自身の母親の名だ。
「月斗さん。葵を救っていただき、本当にありがとうございます」
「俺は何もしていない」
「いいえ、そんな事はありません。貴方が葵と出会わなければ、葵は今でも私という枷に囚われていたでしょう」
そう言うと、青子は俺に向かって頭を深く下げた。
「最初は、善意だったんです。私に憧れ、アイドルになろうとした娘をどうにかして助けてあげたいと。でも、私という存在が大きすぎて、葵にはたくさんの苦労をかけてしまった。ですから、葵から貴方の話を聞き、そしてあの子がアイドルを辞めたいと言った時、本当に嬉しかったんです。これで葵は自由になれると」
そう言うと、青子は涙をこぼした。
「月斗さんには、何とお礼を申し上げたら良いか……」
「俺はただ話を聞いただけだ。彼女、宇佐美葵を救ったのは、誰でもなく彼女自身だ」
ポケットに入れていたスマホを見ると、あと10分程で彼女の最後の晴れ舞台は幕を閉じるだろう。
「そろそろ、だな」
「月斗さん。最後に、お願いがあります。聞いていただけないでしょうか」
「なんだ?」
「あの子を、葵をお願いします。あの子は私のせいで、さんざん辛い思いをしてきました。今さら私が側にいても、あの子に迷惑をかけてしまうだけでしょうから。それに、あの子も嫌いな私と離れられて嬉しいでしょうし」
「嫌だ」
「ど、どうしてですか?」
「本当に嫌いなら、なんで貴女をここに呼んだんだ?」
「それは、私が社長ですし」
「貴女のそのチケット、俺のと同じサイン付きのものに見えるのだが」
「え?」
「彼女から聞いた。ここは家族や恩師など、『特別な存在』しか入れない場所だと。本当に嫌いな相手なら、親であってもそんなチケット渡さないはずだが」
「え……?」
「あぁ、もう。葵は母の貴女に見てもらいたくて、そのチケットを渡したんだよ。例え、彼女がどれだけ嫌いだと口に出しても、結局、全ての始まりは貴女への憧れだ。一度憧れた相手を嫌いになんて、なれるわけがない」
「あ、あぁ……。葵、葵ぃぃ」
青子は膝をつくと、手で顔を覆った。
「「ずっとずっと 大好きだよ」」
曲が終わり、拍手と喝采が鳴り響く。
「皆様、本日はご来場頂き本当にありがとうございました。〈Queens Live!!〉はこれにて終了となります。出口は四番出口となっておりますので、お間違えのないようお願い申し上げます」
アナウンスが流れ、観客達は帰り支度を始める。
「月斗くん、どうだった──って、お母さん!」
ライブを終え、特別席に来た彼女は俺の隣にいる人物を見て驚きの声を上げた。
「葵、お疲れ様。いいライブだったわよ」
「お、お母さん」
青子の胸に飛び付き、泣きじゃくる彼女。
「よく、頑張ったね。葵。偉いわよ」
青子は優しく微笑むと、彼女の頭を撫でる。
「ねぇ、葵。私、貴女がこんなに大きくなってたなんて、知らなかった。ごめんね。全部、余計なお世話だったみたいで」
「うぅん、こっちこそ、心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫だよ。だって、私はもう一人じゃないから」
「えぇ、そうね。貴女には、大切なファンがいるものね」
「うん!」
そう言って、彼女は笑った。その笑顔は、太陽のように輝いていた。
会場の外へ出ると、冷たい風が吹き付けてきた。時刻は既に午後7時を過ぎており、辺りはすっかり暗くなっている。駅のホームで電車を待っていると、突然、後ろから何かに抱きつかれた。振り返ると、そこには彼女がいた。
「危ないだろ。離せ」
「えへへ、月斗くん成分を補給中です」
「そんな物質、この世には存在しない」
そんなことを話していると、電車が到着した。彼女は青子と一緒に帰るため、ここでお別れだ。
「月斗くん、また明日」
「あぁ、また明日」
電車に乗り込む直前、彼女に腕を捕まれた。不思議に思い、彼女の方を見ると彼女は頬を赤らめながら口を開く。
「月斗くん、大好きだよ」
そう言うと、彼女は背伸びをして唇を重ねてくる。柔らかい感触と共に、香水らしき甘い香りが鼻腔をくすぐる。数秒後、ゆっくりと唇を離すと、彼女は恥ずかしそうにはにかんだ。
「じゃ、またね」
「あぁ、またな」
電車の扉が締まり、発進する。俺は彼女の姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
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