第3話 宇佐美葵という少女

「あ~あ、泣いてるとこ見られちゃうなんて。カッコ悪いな、私。こんな姿、ファンのみんなが見たら悲しんじゃう」

涙を袖で拭いながらそう言う彼女の目元は痛々しいほど真っ赤に腫れていた。おそらく、かなりの間ここで泣いていたのだろう。

「ねぇ、月斗くん、だったっけ。この事は内緒にしてくれないかな。おねがい」

そう言うと、彼女は口元に人差し指を当てる。その仕草は可愛らしくもあり、どこか蠱惑的なものだった。

「分かった。俺は何も見なかった。それでいいか」

「うん、ありがとう」

そう言うと、彼女は俺から目線を外し、もう一度どこか遠くを見始める。どうやら、何か考え事をしていたらしい。

「ねぇ、月斗くん。お母さんは好き?」

その場から立ち去ろうと、背を向けた瞬間に尋ねられた。

「母親、ね」

俺には縁のない話だ。なにせ、あの人は俺を捨てたのだから。

「大嫌いだよ。母親なんて」

振り向き、吐き捨てるようにそう言った。

「そうなんだ。私達、案外似た者同士かも知れないね」

「どういうことだ」

「私もお母さんのこと嫌いなんだよ。月斗くんはさ、【西之青子】って知ってる?」

「あぁ。たしか、元アイドルで今は芸能事務所【アペティア】の社長をやってる人だろ。顔はしらないが、名前だけは聞いたことがある」

「私のお母さんなの、その人」

「は?」

「だから、【西之青子】は私のお母さん。どう?すごいでしょ」

スマホで【西之青子】と検索してみると、目の前の彼女にそっくりな女性の顔写真が表示される。どうやら、嘘ではないようだ。

「そんなことを言う割には、あんまり嬉しくなさそうだが」

「うん、だって、実際嬉しくないもん」

彼女は膝を抱えると、少しずつ話始めた。

「私ね、お母さんの事が大好きだったの。いつでもかっこよくて、可愛くて。家では少し厳しかったけど、私が泣いちゃったらいつも抱き締めて、頭を撫でてくれた。ちっちゃい頃はお母さんに憧れて、私もアイドルになるのが夢だった」

「なってるじゃないか」

「ううん、この席はお母さんがくれたものなんだよ。お母さんが今の【西之青子の娘】アイドルっていう席を。テレビも、CMも、映画だってそう。全部あの西之青子の娘、っていう理由でオファーが来た。【Queens】のみんなだってそう。私が西之青子の娘だから、っていう理由で私と一緒にアイドルしてる。結局、みんなが求めているのは【宇佐美葵】じゃなくて《西之青子の娘》っていうネームバリューなんだよ。ちょっと前、ある企業のCMに出た時の話なんだけどね。そのCMの広告主、私が、西之青子の娘だからOKしたみたいなんだよ。一人じゃCMにすら出られない私が、お母さんが有名人だからってだけで、今じゃトップアイドル、なんて呼ばれてるんだよ。笑っちゃうよね」

彼女は自傷気味に笑った。

「最近、いろいろ思うんだ。本当にこれで良かったのかなって。確かに、お母さんのお陰でここまで来れたけど、それは同時にお母さんの力でしかないんだよ。結局、私は何一つ自分の力で成し遂げていない、ただのハリボテなんだよ!」

彼女の悲痛な声が響き渡る。俺は黙ったまま彼女の話を聞いていた。

「もう、無理なんだよ。嫌だよ。苦しいよ。誰か、私を、《西之青子の娘》じゃない、【宇佐美葵】を見てよ……!こんなことになっちゃうなら、アイドルなんて、やるんじゃなかった……」

そう言って、彼女は膝を強く抱き締めながら声を押し殺して泣き始めた。その悲痛な泣き声が何度も屋上に反響する。それからしばらくの間、彼女は肩を震わせながら泣いていた。その間、俺はずっと彼女を無言で見ていた。見ていることしかできなかった。今まで彼女が感じてきた苦しみを、俺に推し量ることはできない。

「ごめんね、こんなつまらない話しちゃって」

少し落ち着いたのか、涙を拭いながら彼女はそう言った。

「別に構わない。誰だって、悩み事の一つや二つぐらいは持っているものだ」

「うん……そうだね。ありがとう。月斗くん」

まだ少し痛むのか、彼女は目を擦るとゆっくりと立ち上がった。

「話に付き合ってくれたお礼だよ。はい、これ上げる」

彼女は俺に近づくと、何かを制服の胸ポケットに入れ、ポンポンと叩く。

「じゃ、またね」

彼女は悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべながら俺の横を通りすぎ、屋上の扉を開けて階段を下っていった。彼女の姿が見えなくなった後、ポケットに手を入れると、紙のような質感の物体が入れられていた。取り出してみると、それは何かのチケットのようだ。無理矢理入れたためか皺だらけになってしまっているチケットを伸ばすと、〈Queens Concert〉の文字と彼女のサインらしきものが書かれていた。

「来い、ってことか」

チケットに書かれている日程によると、コンサートは今週の日曜日に開催されるらしい。幸いなことに、日曜日は学校も予定もない。俺はしばらくそのチケットを見つめた後、丁寧に折り畳んでポケットに戻した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る