電車内にて

空いた

あ、空いた。


座席との距離があまり離れていなかったので、僕は人と人の間に体をねじ込み、何とかそのスペースに体を収めました。


ふと、自分の前に立っている人のことが気になりました。


ここは電車の中でした。時刻は朝の8時。差し込む明かりが照らす車内に人は溢れかえり、陰鬱として蒸し暑い空気があたりに充満していました。こんな混雑時に前にいる人を気にするほど、僕は注意深くありません。かと言って目の前の女の人は一見すると特に変わったところなどは無く、スーツを着て髪を下している若いOLといういでたちです。


気になっているというのは、その女の人に他の人とは違う奇妙な点があるからでした。


彼女は私に背中を向けて、立っていたのです。


普通、人のごった返す車内では、人はできるだけスペースを確保しようと、少しでも空間に余裕のある方向…つまり、僕がいる座席側を向こうとするはずです。

平日の電車、それも混雑がピークを迎えている車内です。背の若干低いその女性が後ろを向けば、何もできないどころか、最悪呼吸すら難しくなるはずなのに。


なのに、その女性はみじろぎ一つせず直立不動です。つり革も掴んでいないのに、電車の揺れにも動じず人波に溺れることもなく、ただ後ろ向きに突っ立っているのです。


まるで、死んでいるようだと思いました。


顔が見えないせいもあり、得体のしれなさに背中が冷えるのを感じていた時でした。

ドアが開きます、ご注意ください。そんなアナウンスとともにドアが開きました。多くの人が電車を降り、それよりも多い人が電車へ乗り込みます。通勤を急ぐ人々は自分だけが乗り遅れることのないよう、念を押すようにぎゅうぎゅうと体をねじ込んでいました。


いやな空気があっという間に広がっていったのが僕にもわかりました。おいおいまたか、勘弁してくれ。うんざりしたようなため息や舌打ちに、なんだか座っているこっちが申し訳なくなってきて、遠慮がちに足を座席の奥のほうへ押し込みました。


その間にも、女の人はやはりピクリとも動きませんでした。


コツン。


固い、何か小さなものが足に当たった感触がしました。


最初は石ころかと思いましたが、違いました。

落とし物だろうか。石ころほど小さいの物ではないようでしたがもしかしたら貴重品かもしれない。なら、持ち主に届けるのが最善だろう。そう思って、足でそれを引き寄せると、思い切って腕を伸ばしてそれを取り上げました。


結果から言うと、僕の推測は当たっていました。


それは腕時計でした。そこまで有名なわけではない、しかしそれなりに値の張りそうな時計でした。裏を見ると、大手のメーカーの名前が刻まれていました。

なんの変哲もない、ただの落とし物です。僕もそれだけならば、あとで届けるだけでよかったでしょう。


その時計は、全体が引きちぎられたように大きくゆがんでいてあちこちに穴が開き、さらに、びっしょりと濡れていたのです。


正直、それが時計とわかるまでしばらくかかりました。中心部に二本の針があったことから、なんとか時計だろうと結論付けただけで、それ以外は原型をとどめずひしゃげていました。


まるで、大きな力で押しつぶされたようだな、とその時の僕は思いました。


時刻を何とか読み取ろうとすると、五分ほど前…つまり、僕がこの座席に座ったころにこの時計はこうなったのだ、とわかりました。


アナウンスとともにドアが閉まり、また電車が走りだしました。


その時、僕の頭の中で大きな疑問がそれまで抜け落ちていたかのようにふっと現れました。


この時計の持ち主は、一体いつ電車を降りたのだろう?


僕は、この時計の持ち主が席を立ち電車を降りた姿を見ていませんでした。


この満員電車で、席から少し離れたドアへ行くためには、それなりに苦労しなければなりません。席を立ち、人の波を押し開け、乗り越えて。こんな状態の車内ですから、誰かが押して押されてをしていたら、その余波は僕の方まで及ぶでしょう。本来なら、気づいて然るべき、いや気づかない方がおかしいのに。


僕がぼんやりしていただけなのか、それとも…


彼あるいは彼女は、どこかに消えてしまったのか。



ふと、誰かに見られているような感じがしました。それは僕の目の前、つまり、立っていた女の人から来る視線のようでした。

ゆっくり目線を上げると、ちょうど前に立っていた女の人と顔を合わせる形になりました。

これは比喩でもなく、別に彼女が振り向いたわけでも、正面に向き直ったわけでもありません。


後ろを向いた顔の、その後頭部。

女性の長く垂れた髪の中から、大きな口が僕を見つめていました。


目や鼻などの、おおよその顔にあるはずの部品はなく、不釣り合いなほど大きな口がニィと裂けて、異様に白い歯をこちらに見せていました。


くわれた


そんな言葉が頭をよがり、体が恐怖で固まるのを意識しました。必死で目を逸らし、これは夢だと自分に言い聞かせました。しかし考えるのをやめられません。

時計が壊れているだけではなく濡れているのは、もしかすると口に入れた後吐き出したからではないのか。それならば合点がいきます。

まるで、魚の骨を誤って口に入れてしまった時のように。果物を食べた後間違えて種を噛み砕いてしまった時のように。

実を全て食べ尽くして、いらなくなったから残り滓を捨ててしまったように。

よく見て見ると、たしかに時計に空いた穴は、するどい牙によってあけられたもののようにも思えました。


口を開けて叫ぼうとしました。


それは驚愕からくるものでした。助けを求めるとかそんな明瞭なものでもなく、ただ驚いて、うおっ、とかひっ、とかそんな不明瞭な反射からくるものでした。


しかし、声は出ませんでした。いえ、口さえ開きませんでした。全身がきつく縛り付けられているように抑え込まれている感覚がして、指一本さえまともに動かせませんでした。


金縛りだ。


そう思うと同時に、周りの乗客が動かないことに気づきました。いいえ、動かない、というよりみじろぎひとつしない、の方が正確です。


右や左にごった返している人たちが、普通ならこんな異様な状況に反応しないわけがありません。少なくとも僕の様子に気づき、眉を顰めたり訝しむことぐらいはするでしょう。

しかし、彼らは周囲を見ることもせず、それどころか瞬きひとつせずに中空を見つめていました。一時停止ボタンを押されたかの如く停止していたのです。


その中で唯一動いているのは、目の前の口の女のみ。普通の人の数倍ありそうなその大きな口は、喋るでも笑うでもなく、僕が怖がるのを見て楽しんでいるようにも、獲物をどう味わおうか吟味しているようにも見えました。


僕は左右に座っている人の体がだんだんこちらへ迫って圧迫しているように感じました。獲物を逃がさないように、または食事を飲み込もうとうごめく食道のように。だんだん息すらきつくなって、視界がぼやけました。そして…


開いた。


人一人なら軽く呑み込めそうな大きな口が、ぱっくりと開きました。口内には唾液が糸を引き、人とは似ても似つかない鋭い歯が並んでいました。じっくりと獲物を追い詰めるように、こちらへにじり寄ってきます。


生暖かい吐息が近づいてきます。恐ろしかったのはその歯が異様に白かったことです。まるで獲物を一口で飲み込んでしまったように歯には肉片のかけらもなく、清潔でした。それが逆に不気味でした。僕も同じように、一口で存在ごと食われてしまうのでしょう。かつてここに座っていた人と同じように、他の乗客からは気にも留められずに。肌が粟立つのを感じながら、息苦しさにめまいがします。さっきから寒くて体が震えているのに、全身から汗が止まりませんでした。

気色悪さで吐き気がしましたが、吐くこともできず、ただただ、目から涙がこぼれました。

怪物はそれを舌でペロリと舐め取ると、ニヤリと笑いました。そして…





ドアが開きます。ご注意ください。



聞きなれたアナウンスとともに、プシューという子気味いい音を発してドアが開きました。乗客たちは魔法が解けたように動き出し、しかし僕らの存在には気づかずに、足早に電車を降りだしました。


助かった…?大口を開けた怪物は不意を突かれたように固まっていました。顔がないため表情は読めませんでした。相変わらずこちらに背中を向けながら、口だけを僕の前に向けて。


逃げよう、とも思いましたが、腰が抜けてうまく立つことができません。手を使い、無様に這うようにして少しずつ距離をとろうとしました。


しかし、怪物は素早く手で僕の腕をつかみ、口をさらに近づけました。怪物の腕が不自然に曲がっているのが見えました。蛇ににらまれた蛙の如く、僕は体を硬直させました。もう終わりだ。気力を無くし体を脱力させ、僕は静かに目を閉じました。


しかし、僕が思ったようにはなりませんでした。


怪物は僕の耳元に口を近づけ、そして言ったのです。







「おなかいっぱいだから、君はいいや」


そして、他の乗客と同じように、足早に車両を後にしていきました。



僕は固まっていた体をどすりと横に倒し、思い出したかのように呼吸をしました。息を整え、なんとか体を起こしながら、ぼんやりと他人事のようにこう思いました。



あ、乗り過ごした。

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