第8話 激突

一体、流石の身になにが起きたのか、そもそも今日は、初めて部屋に男の人を呼ぶ、幸せな日になるはずではなかったか…。

そう、今日の夕方、流石は一人暮らしの小さなマンションに帰ってきた。

「ムー、まずい。まず掃除からね。」

ひどく散らかってはいないが、なんか埃っぽい。掃除機をかけて、仕上げは、そうコロコロだ。しかも以前からいざというの日のために買っておいた、スーパー粘着ストロングタイプのコロコロだ。ちなみに、この製品は飛びぬけて粘着力が強い上に、テープもとても丈夫にできていて、あまりに強力過ぎるという理由で今では販売されていない代物だ。

「ウヒョー、さすがによくゴミが取れる。スーパー粘着ストロングコロコロはやっぱちがうわ。5回こするところが、1回でピカピカね。」

そしてさらに、彼が来たらかかるようにステレオにタイマーを入れてハッピーな曲がかかるように設定。そこで汗をかいたので、さっとシャワーを浴びておしゃれな服に着替える。

「これでよし。ふふ、私の魅力に三高さんも、ドキドきね。あれ、何か忘れている。そうだ、サラダの材料買い忘れてた。今日はそれのために来るのに。急いで買い出しだわ。」

急いで、飛び出していく流石。でも、5秒もしないで玄関に戻ってくる。傾いた西日が強いのに、UVカットスプレーを付けるのを忘れていたのだ。

「でも、私って天才ね。玄関先だけでも生きて行かれるわ。」

実は、忘れても家に上がらずにいろいろできるように、玄関にいろんなものが置いてあるのだ。UVカットスプレーを始め、鏡や髪の癖取りスプレーとブラシのセット、眉毛書き込みセットなどのうっかり化粧セットを始め、最近はもしもの時の災害用リュックやミネラルウォーター、大好物のツナ缶セットまで、靴箱にギュウギュウに押し込んである。さっそくUVカットスプレーをその場でつけてご満悦だ。

ところが、その時、ピンポンとベルが鳴る。

「ええ?まだ早すぎるよ。」

こまったなあといいながら、ニコニコしながらドアを開ける。

「すいません、ラッキー荒木ですぅ。沖縄か北海道か決まりましたか?」

「あ、忘れてた。ええい、沖縄にします。たった今決めました。」

「ではここにハンコと住所と名前お願いします。すぐ、終わりますから。」

荒木は画板に挟んだ書類を見せた。

「はいはい、じゃあハンコ持ってきますね。」

ハンコがなかなか見つからず、あっち行ったりこっち行ったりする流石の姿を見て、ラッキー荒木はなんだか嫌な予感がした。案の定、やっとハンコが見つかってもそれから先が大変だった。

「ヒェー、ごめんなさい、住所書くところに名前書いちゃった。あ、ホワイトがどこかにありますんで…」

そしてまたホワイトが見つからず、探し回る流石。ラッキー荒木は、作り笑いを浮かべてこういった。

「ちょうどよかった、こんなこともあろうかと、もう一枚用紙を持ってきているんで。」

「なあんだ、よかった。先に行ってくださいよ。あれちょっとまって、ここの住所の漢字なんですけれど、正しいのはどんな字でしたっけ。」

おめえ、刑事なんだろう、なんで自分の住所の漢字わかんねえんだよ。とは思いながら、ラッキー荒木は、自分のエステの職場で使っている名刺を差し出した。

「ちょうどよかった、これ、お客様の名刺なんですけど、偶然このあたりの住所が載っているのでこれを使うといいですよ。」

「ああ、やっぱりね。この漢字だと思っていたんだよね。あ、しまった、住所全部、名刺の通りに書いちゃった。」

えええええ!漢字が分からないっていうから、危険を冒して自分の名刺まで嘘言って出したのに、そこまで間違える?ぶん殴ってやろうか、この女刑事!

と、心で思っても、そうは言えない。引きつった笑顔でもう一度言った。

「あら、不思議、今日は念のためにもう一枚だけ用紙が持ってきてあるんです。どうぞ。」

さすがにこれが最後の一枚だ。これ以上間違えればジ・エンドだ。

「あ、思いついた。自分の名刺を持ってきて移せばいいんじゃない。私って天才ね。ちょっと待っててね。」

またあっちこっち探し回っている。もう荒木は切れる寸前だ。

「あったー、流石私ね。では…うーんきれいな字、今度は完璧だわ。」

「あら、すばらしい。済みません、もう一か所。まあ、本当にお上手。では最後の一枚、ここは後日、お客様控えになりますので、名前とハンコだけもらえますか?」

勝負の三枚目だ。上の紙に隠れて見えないが、麻薬の注文書と誓約書だ。ここさえ書かせれば、柴田と同じ運命だ。

「すいません。あんまり見られていると緊張するんで。一寸一瞬だけ横向いてもらえますか?」

「はいはい。お早くお願いします。」

「はい。ええっと…。」

あれ?まずい、名前とハンコだけなのに天山市と住所をつい書き始めちゃった。でもお客様控えならいいや。ええい、これでどうだ。

「はい、書き終わりました。」

すると流石は板から突然三枚の書類を全部引き抜いた。焦る荒木。流石はすぐに三枚の書類を三つ折りにして、まとめて荒木に渡した。なあんだ、引き抜くからばれたかと荒きは思った。

いいやその逆で、流石の方が名前の欄に天山市とまちがえて書き始めてしまったので、ごまかそうと、まとめて引き抜いて渡したのだ。

「手間かけてごめんなさいね。これで間違いないですから。沖縄旅行、よろしくお願いします。」

「はい、すぐ発送します。ありがとうございました。」

やり手のラッキー荒木が手間取ったのは初めてだった。自分のやり方のどこがいけなかったのか、いや、相手が天然すぎるだけだ。悶々としながら帰って行った。もうキレかけていた荒木は、用意していたグルメクーポン券の封筒に、今書いてもらった一枚目の住所を写し、三枚目の紙を突っ込み、もう確かめることもせずにいつもより多めに合成麻薬を突っ込んですぐ、ポストに投函した。今出せば明日の午後にはつくから、明後日当たりに、『女刑事が麻薬を持っている。』と電話すれば、もう終わりだ。

さて、この封筒は実はもう、流石のマンションに届くことはなかった。

そのかわり、翌日、流石の務める天山署に不審な郵便物が届く。よく、刑事あてにカミソリや爆弾まがいのものがとどくので、郵便はすべてチェックされているのだが、流石宛の郵便がチェックにひっかかった。それが、あのラッキー荒木の封筒だった。

流石が、名刺の住所をそのままうつしたので、職場に届いちゃったのだ。

鑑識が立ち会って、担当職員が開封すると、麻薬が出てきた。さらに変な注文書が出てきた。麻薬を注文しているのだが、そのサインは天山市子とだけあった。テンザンイチコと読むのだろうか。いったい誰だ、こりゃあ。

流石が間違えて住所を書き、ごまかして名前にしちゃったのだ。

「刑事への恨みですかね。こんなもの送りつけて。一体誰が…。あれ、名刺が入っている。」

それは二枚目の書類を書くときに見せてもらった荒木の名刺だった。なんとかごまかそうと流石が三つ折りにして荒木に帰した時一番下の折り目の中に一緒に入れてあったのだ。しかも、適当に…。

「この住所が怪しいから、麻薬Gメンに行って、この住所を捜索してくれ。念のために。」

翌日、荒木のマンションに麻薬Gメンが入り、麻薬が発見され、逮捕されたのは言うまでもない。

さて、ラッキー荒木と別れた流石はどうなったのだろう。そのころ流石のマンションの裏通りに劇団ファントムの車が付き、今日は青いブルゾン姿の帽子の男が静かに降り立った。そしていつものようにマンションを見上げて、位置の確認を行い、間違いなければ、迅速に行動に移る。

彼はあの柄が金属のプラスチック製のサバイバルナイフを忍ばせ、さっと宅配員に変身し、まんまとマンションに忍び込んだ。

彼はアリとあらゆる場面をイメージして、対策を考え、段取りを状況に応じて組み立てて行く。このイメージ力が、彼の成功の秘訣だ。

今日は流石に相手が刑事と会って、綿密に計画を立てている。

つなぎの下に重い防弾チョッキを着こみ、小型のスタンガンを忍ばせているのだ。まあ、玄関にピストルを持ってくるはずもないが、手間取るようなら、口を押えて、スタンガンで痛めつけ、二度と立ち上がれないようにしてやる。

「フフフフ…。覚悟しろ。」

もしも玄関に監視カメラが付いていても、特殊メイクは完璧だ。あとは秒殺あるのみだ。

組織の死刑執行人ファントムは、呼吸を整えて完璧な仕事をイメージして戸口に立った。

「ピンポーン、すいません、宅配便です。」

そのころ流石は玄関で、もう一度UVカットスプレーをしながら、鏡を見てうっとりしていた。

「今日の私はパーフェクト。でもどうしましょう、こんなにかわいいと三高さんが来る前に、別の男に言い寄られちゃうかも、ウフフ。え、なに?宅配便?もう、いい加減にしてよね。」

ドアを開けると、見知らぬ宅配員が静かに入ってきた。

「お中元です。ここに判こをお願いします。」

「はい。」

流石がハンコを渡そうとすると、配達員はその手をひねり、流石の体を引き寄せながら、あのサバイバルナイフを瞬時に撮りだした。

「うぐぐ!」

瞬間で腕の関節を決められ、行動派の女刑事も、悲鳴どころか、うめき声しか出ない…、もうこれで半分成功だ。

「なに、この男、私が魅力的だからって、もう男に襲われちゃうの?このチカーン。」

痴漢と呼ばれたのは初めてだったが、関係ない、後はナイフとスタンガンで、心を折ってやるだけだ。だが、事態は予期せぬ方向に…。

「グワアア!」

何があったのか、目が急に焼けるようにしみた。死刑執行人ファントムは突然のことに何が何だかわからなかった。流石は、ハンコの逆の手にUVカットスプレーを持ったままだった。それをたっぷりファントムの目に吹きかけたのだ。しかも一日現場を走り回る刑事が使うものだから、強力な薬液だ。目があけられない配達員の手が緩んだ時、流石はからだをひねって、逃げ出そうと試みた。そうはさせじと追いかける宅配員、二人の体が、横の靴箱にぶつかった。その途端だった。

「うわあ、なナンだ。」

ギュウギュウにおしこんでむりやり占めていた靴箱の扉が、はじけるように開いて、中から災害用のペットボトルや缶詰がドドドッと飛び出してきた。しかも大きく開いた靴箱の扉の角が、配達員の弁慶の泣き所に直撃。その隙に流石は、サバイバルナイフを奪う。

「なんだ、おもちゃじゃん。ふざけないでよ!」

流石の天然が、男のイメージ力をはるかに上回った。いつもは冷静な配達員が、これで本気でキレた。今日はここで半殺しにしてしまうかもしれなかった。スタンガンを取り出して、激痛の目をこすりながら、思いっきり襲いかかってきた。今度は本気だ、男は海外での傭兵部隊の経験もあった。いくら相手が刑事だろうが、この至近距離なら倒せないはずはない。

「ドワー、何だ?」

だが、目が良く見えない男は、足元に無数に転がるペットボトルを踏んづけて派手にすっころぶ。その時スタンガンが、自分の太ももを直撃だ。

「ギャー!」

「ばーか、あ、いいものがあった。飛び出してきた災害用の水と飲料水の中、ペットボトルの中に大好物のツナ缶を五缶連ねて網に入れた特売品だ。流石はツナの入った網を二つ拾い上げると、トンファーのように両手でグルグル振り回した。

「な、なんだ?ツ、ツナ缶!」

やっと目が見えるようになったファントムが最初に見たものは、自分の顔面を直撃するツナ缶だった。流石は、前のめりになった配達員をツナ缶でボコボコにした。配達員のポケットからこぼれ出たメイク用の筆がばらばらと玄関に飛び散った。そして配達員を抑え込むと、近くの交番に電話をして、婦女暴行の現行犯だと言って、さっさと連れ帰ってもらった。彼は流石の心を折ることに失敗したどころか、ツナ缶を見ただけで胸が引きつるという心の病を背負うことになる。

もちろんその後、特殊メーキャップをしていたことやスタンガンを持っていたことからただの婦女暴行犯ではないことがわかり、自殺事件に関係ありとされ、本格的な捜査が開始されることになる。

さて、配達員の帰った後、流石はどうなったのだろう。

「もうせっかくきれいになっていたのに、あのスケベ野郎のおかげでめちゃめちゃだわ。流石は災害用品をまた靴箱に押し込むと、今度はすぐあかないように靴箱のドアにガムテープを張り、応急処置に成功だ。

やっと、何とか片付いたと思ったら、ピンポーンとまた音がした。今度こそ!

いそいそと出かける流石、ドアの向こうには三高が立っていた。

「ハーイ、君に逢いたくて、少し早めに着いちゃった。」

さらりと揺れる長髪、その手には、スパークリングワインのロゼと、花束があった。なんか、最高のパターンね。流石は三高を家に上げておもてなしの用意だ。

まずは、花をさっそく花瓶に活けて、記念撮影だ。二人で携帯で、花瓶の花や流石を撮りまくる。

「実はもう一つプレゼントがあるんだ。ちょっと用意があるから後ろ向いていて。。」

「ええ?なんだか、ドキドキしちゃうな。」

流石は、言われた通り、素直に後ろを向いた。三高は、荷物の中から小さな箱を撮りだした。その箱を開けると、中から背高のっぽの細長いワイングラスが出てきた。

まだ、見ちゃだめだよ。

三高は、さっと白い粉を取り出すと、片方のワイングラスに入れた。

「まだ、我慢してね。ぼくたちの出会いの記念だよ。」

そういって三高はそののっぽのワイングラスにスパークリングワインを注いだ。白い粉は、もう溶けてどこにもみえない。

「ほら、用意ができた。こっちを向いて御覧。」

「わー、素敵!」

「ほら、泡がはじけていい香りがするだろう。このピンク色のワインは、香りを楽しみ、味を楽しむだけじゃなく、ピンクの色が、昇って行く小さな泡が、眼も楽しませてくれるのさ。」

ピンクのワインの中を自分も一緒に昇って行って、天国に行けるかも。

「じゃあ、乾杯しようか…。」

三高は、薬を入れたほうのグラスを流石にすすめた。

「あ、しまった。料理、作らなきゃ。」

「まだ、おなかすいていないから、そんなに急がなくとも…。」

「ちょっと、ちょっとだけ待っていてね。」

一応どんな料理を作るのか予定はしていた。地球屋の直伝のアメリカ南部の本場フライドチキンだ。実は、昨夜から、味付けしたスパイス入りヨーグルトに漬け込んでおいたのだ。こうすると、味がよくしみて、肉がとても柔らかくなるのだ。あとは、粉付けて揚げるだけ…。まず油を用意して、適温まで熱する…。

「あれ、忘れてた。サラダ用の野菜、結局まだ買ってない。」

流石は、三高を後ろの大きなソファに座ってもらうと、冷房をパワーアップさせて、ちょっと2、3分で帰って来るからと玄関に駆け出して行った。はは、この人はなんでも一生懸命なんだな。でもいいぞ、この2、3分の間に麻薬を部屋のあちこちにしかけるか。三高は部屋をいろいろ見渡していた。

「うう、急いでいるときに限って、靴がすぐはけないのよね。」

ふ、ちょうどいい。。三高は、その隙に荷物の中に仕込んでおいたたくさんの麻薬を取り出し、自分のポケットに移し、またソファに座りなおした。

「やっとはけたわ。じゃあ、すぐに戻ってくるからね。いってきまあす。」

流石の元気な声が聞こえ、バタンと大きなドアの閉まる音がした。

その時だった、ソファの隣の洋服ダンスの上から、何かが頭の上に落ちてきた。思いっきりドアを閉めるからだ、なんとも元気な女だ。でも一体何だこれは?あれ何だねばねばしているぞ。そこで動いたのが致命的になる。そのネバネバした物が、さらにくるりと回転しながらソファの前にころがり落ちてきた。

「なんだこれは?スーパー粘着ストロングコロコロ?ええっ!」

もう、それは後の祭りだった。ソファの隣の洋服ダンスの上にテキトーに置かれたコロコロクリーナーが粘着テープを伸ばしながらドアの振動で落ちてきたのだ。粘着テープは洋服ダンスの壁面にくっつき、さらに三高の長髪にべったりくっつき、動いたものだから、回転して、ねじれながら下に墜ち、さらに箪笥やソファにぺったりとくっついたのだ。

「うう、まあ、ひっぺがすしかないか?あれ、なんだこのコロコロは?普通のネバネバじゃないぞ。」

しかしまず髪の毛にべっとりくっつき、上と下はねじれて側面にぺったりなのでまったくはがれない。無理に頭を動かすと、ますます髪の毛が巻き込まれていく。

「そうだ、さっきグラスを開けた時にハサミを使ったよな。見るとテーブルの上にハサミが載ったままだ。三高は、仕方なく思いっきり体を伸ばし、手を伸ばし、テーブルのハサミをつかみ取ろうと試みた。だが、後三センチほど、テーブルにも届かない。体を近づけると、からんだ髪の毛が引っ張られて激痛だ。えーい、もうちょっと。結局届かず、ソファに戻る。思いっきり伸ばして元に戻った瞬間、長髪が完全にスーパー粘着ストロングのテープに巻き込まれた。仕方なく少しずつ端から破って行こうと思ったが、髪の毛が痛くて破ることさえできなくなってしまった。その時、タイマーがセットされていたのか、大音量で音楽がかかり始める。

「なんだ、この音量は?頭がガンガンする。」

流石が、音量のつまみを間違えたようだ。そういえば、流石が帰って来ない。2、3分などとっくに過ぎている。さらにそのうち、へんな脂臭いにおいが立ち込めてくる。流石はすぐに帰ってくるつもりだったのか、唐揚げの天ぷら油の火が付きっぱなしだったのだ。

「しかも、なんだかすごく熱くなってきた。こりゃあ、異常だ。さっき、冷房をパワーアップさせたはずだが…。」

三高は体中汗でべたべたになった上に、冷や汗が出た。彼女は冷房ボタンと暖房ボタンを間違えて押したらしい。この蒸し暑い夏に暖房パワーアップのランプが光っている…絶句だ。

「やばい、このままじゃ、脱水症状か、火事になってお陀仏だ。」

そうだ、なんで気が付かなかったんだ。携帯で仲間に連絡してたすけてもらおう。だが、携帯はさっき花瓶の花を撮ろうとして、向こうの花のすぐそばだ。

「助けて!誰か助けてくれ!」

叫んでみたが、その叫びはすべて大音量の音楽にむなしく飲み込まれていく。

そのうち、台所から、本当に焦げ臭いようなにおいがしてきた。げきヤバイ!体銃汗でぐっしょりになり、喉がカラカラだ。水、水が飲みたい、でもそれすらも不可能だ。

「なんだよ。まさかあいつ最初から俺をはめるつもりだったのか。やばい、やばい、くそうこうなったら、もう、どうにでもなれってんだ。」

命がかかってきた三高はもう、なりふり構わず、頭のスーパー粘着ストロングテープを引きちぎり始めた。

「うおおおおお!イテテテテ…。」

毛がごっそり抜け、頭の横半分は長髪が半分以上テープに残った。

「まずは、水分だ。」

もう、グラスのどっちがどっちだかわからない。とりあえず一杯飲み干して、足がつかないように、荷物と携帯をわしづかみにして、三高は逃げ出した。

「こ、殺される―。」

三高はまだ粘着テープがべったりついたままの頭で、マンションの前に飛び出した。もう、日は落ち、外は暗くなり始めていた。

すぐに、この場からおさらばするはずだった。だが、どうしたのだろう。意識が遠のくようなおかしな感じがして、三高は路上に座り込んだ…。

「おや、君は何だね。」

しばらくして、パトロールの警官が三校に声をかけた。頭が無残に禿げ上がり、べたべたにテープをはった変な若者がぼーっとして座り込んでいる、これは見逃せない。

「お巡りさんこそ、なんでここに?」

「今、白峰という女性が行方不明になったという連絡が入ってね。急いでここに駆けつけたんだが。あれ、君、ポケットに何か入っているね。」

そうだ、ポケットに仕掛けようとして麻薬の小袋をいくつも入れておいたっけ…。しまった。でも、逃げようにも体の自由が効かない。そう、三高があわてて飲んだグラスこそ、強力な合成麻薬の入った方だったのだ。

「おい、ここに一人薬物中毒みたいな若者がいるぞ、来てくれ。」

そのうち、あっちからも、こっちからも警察関係者がやってくる。三高は逮捕され、流石の部屋のエアコンやステレオも止められ、天ぷらも無事に火を消してもらった。だが流石は帰って来なかった。いったい、流石はどこに行ってしまったのか。

流石はその頃見知らぬ住宅地の中を心細い顔をしながら歩いていた。どうしてこんなことになってしまったんだろう。

最初、すぐに近くのスーパーモヤモ屋に行くつもりだったのだ。だが言ってみると定休日ではないか。

「第一、第三水曜日は休みなの。忘れてた。」

流石はすぐに大通りに出ると、タクシーを呼んで、ちょっと遠い大型スーパーまで乗って行った。そこで買い物を終わらせ、すぐまたタクシーを拾って、帰るつもりだった。だが、気が付くと、財布に絶対入っていたはずの万札がきれいに無いのだ。もう細かいお金は使い果たして、バスに乗る金もない。こんな時に限って、キャッシュカードもクレジットカードも忘れてきた。なぜだ。ああ、こんなことしているうちに、三高があきれて帰ってしまう。そうだ、こういう時は、明るいほうに向かって走ればいいんだ。そう思って走って行くと、その辺で一番明るいのは、ナイター照明の設備の付いた、市営の野球グランドであった。もとのスーパーは、実は天山駅のいつもは行かない南口のそばだったのだが、野球場に向かって走ったため、まったく逆方向に進んで、完全に迷ってしまったのだ。しかも人通りも全くない。心細くなって、携帯を誰かに入れようとしたら、ほとんど充電切れ、すぐにきれてしまう。このころに完全に暗くなって心細くなって丸亀に電話をしたのだが、やはり充電切れで、すぐ切れてしまったのだ。

迷子になって、お金も無くて、おまけにキャッシュカードもクレジットカードも無くて、携帯も切れて誰とも連絡が取れない。へたに動くと、ますます迷いそうだ。流石は野菜の入ったレジ袋をもったまま、身動きが取れなくなってしまった。

遠くで犬が鳴いている。夜の冷気と闇がひたひたと迫ってくる。

「あれ、どこかで音楽が聞こえたような…。」

流石はかすかな音だけをたよりに、歩き始めた。うん、いいぞ、だんだんよく聞こえるようになってきた。そう、その方向は正しかった。駅の南口のすぐそばまでやってきたのだ。

「あれ、あれは杉崎智也じゃん。本当に路上ミュージシャンやっているんだ。」

友達と二人で、ギターを弾きながら歌っていた。何人か見に来てる若者もいるようだ。

「では、新曲をお聴きください。闇を突き抜けて」

杉崎智也がギターを弾き始めた。流石は、迷子になっていたことも忘れて聴きはじめた。


闇を突き抜けて」

ぼくはひたすら走ってた

どこかわからない闇の中、

追いかけてるのか、逃げているのか

どこ目指すのか、遠ざかるのか、

今夜はなぜだか調子がいい。いいや本当はボロボロさ。

今夜はどこまででもいける。、いいや、本当は倒れそう。

何をそんなに浮かれてる、何をそんなにおびえてる。

このままじゃ闇に飲まれちまう、それがこわくて止まれない。

いったいどこがスタートでいったいどこがゴールなのか。

そもそもなんで走るのか。

まだまだここは入り口か、真っただ中か、スパートか。

駆け上がるのか、落ちるのか。

闇が押し寄せてきたのか、それとも飛び込んじまったか。

ただ闇があり、闇のみぞ知る。

何も見えない、つかめない、誰もいない、聞こえない

これは本当の闇なのか、思い込みこそが闇なのか。

自分を信じられないなら、闇の中に落ちて行くだけ。

自分を信じられるなら、さらに前へと踏み出せる。

走れ、もがけ、叫べ、突き抜けろ。

踏み出せ、引き寄せろ、つかみあげろ、かけあがれ

光りが見えないのは目を閉じているから。

光りが無ければ自分で光れ!

やがて闇は暁の群青に変わり

やがて闇はバラ色から金色へ

そして朝日が昇るまで

闇をつきぬけて!

歌い終わると、若者たちが一斉に拍手した。なんだ、杉崎智也ってなかなかいいじゃないか。いつの間にか流石も拍手をしていた。

「あれ、なあんだ。刑事さん。来てくれたんですか。どうです、智也もなかなかいいでしょう。」

なんと智也の恋人森口レイがそこに来ていた。

「いやあ、わざわざ来た甲斐があったわ。彼、才能あるじゃない。」

「あ、そうだ、どうしても連絡しなきゃならないことがあったんです。」

そういうと、森口レイは、昼間連絡先を書いてくれたあの流石からもらった領収証を取り出した。

「私、家に帰ってから、これ見て驚いちゃった。」

「え?なんのこと?」

「そうじゃなくて、領収証の間に万札が7万円も挟まっていたんですよ。きっと今頃お困りになっているんじゃないかって思って連絡したんですけれどなかなかつかまらなくて…。」

「ヒョエー、ここにあったの?いやあ、よかった見つかって。本当にどうもありがとう…。」

めでたし、めでたしであった。流石はお金を受け取り、すぐ後ろにあった駅に向かい、無事に帰還した。

迎えに来た丸亀がマンションまで送りながら、事件の顛末を話してくれた。

「よかった。実は君の家に来ていた三高輝と言う男、結婚詐欺の常習犯でね。何人も騙していたとんでもないやつだと分かった。」

「うそー。」

「君が行方不明になったおかげで、しっぽを出して逮捕できたよ。まあ、今夜は大変だったろうから、取り調べは明日にして、今日は早く帰って寝るといい。」

やさしい丸亀のことばだった。だが、この長い一日は、まだ続くのであった。

なんか台所が脂臭くなっているほかは、さっきまでの幸せな部屋のままだった。ソファの足元にコロコロが転がっていた。髪の毛がたくさんついていたので、切り取って丸めてごみ箱に放り投げた。

「ああ、結婚詐欺師だったのか。いくら何でも、話が出来過ぎよね。」

昇って行く炭酸の泡の向こうに、彼の笑顔が見えたっけ。すっかり気の抜けたスパークリングワインを流しに流して、流石は大きくため息をついた。

結局一口も口を付けぬまま、ピンク色の液体は、涙のように流れ、消えて行く。ものすごく、やるせなくて、もう流石の中で、ゼロ式忘却術が働き始めていた。一人で、特製フライドチキンを作って、サラダと一緒に食べた。

「うおー、柔らかくて、おいしーい、私って、やっぱり天才かも。」

食べて元気が出て来ると、今日のつらい思いでは、もう体から抜け始めた。

その時、電話が鳴った。

なかなか電話が来ないので、しびれを切らした、タナトス・リーに偽装したルーン秋月だった。あの周波数帯を変える音声変換木をつけ、ミステリアスなムードでしゃべりだす。

「というわけで、ルーン秋月さんからご紹介いただいた霊能力者のタナトス・リー、言います。」

だが、このまわりくどい自己紹介は流石には長すぎた。

「えーっとルーン秋月さんの…ええっと、何でしょうか?」

「ルーン秋月さんから頼まれて霊視をいたしました。その結果、気に鳴る者が見えたのです。」

「え、何が見えたんですか?」

「実は…あなたの背後を追いかけるように怪しい女性の霊がついているのが見えたのです。」

それをきいて、流石は感心して答えた。

「えええ、すごい、当たってるわ。よくわかりましたねえ。わたしの背後のレイちゃんのことを!」

ほほう、やっと信じたようだ。電話してよかった。これはいけるとルーン秋月はほくそ笑んだ。

「当たり前です。こちらは霊能者ですから。」

「私も最近、背後について来る影が気になって、気になって…。」

「そうでしょう、そうでしょう。どうやってそれを振り払えばよいかと言えば…。」

さて、麻薬入りのお香をうりつけてやろう。うまく行ったら、例のミネラルウォーターも一緒に売りつけて設けてやるかな。

ルーン秋月は電話しながら、占いの部屋のロッカーに隠しておいた合成麻薬入りのお香をバッグに移し、流石に送りつける用意をはじめた。だが、そのあと、白峰流石が、おかしなことを言い始めたのだ。

「でもえ、背後のレイについては、私も気になっていたんですけれど、こっちもプロですから。」

「え、あなたもプロ?どういうことです?」

「わかっているくせに。プロですから。私は、そこで、頼りになる相棒を使って、その背後の影を捕まえようとしたら…。」

頼りになる相棒ってなんだ?守護霊?それとも式神?

「つかまえようとしたら、うまくいったんですか?」

「ええ、見事に捕まえるのに成功しました。強い思いを持って私についてきたんですが、正体は若い女の、レイちゃんでした。」

「若い女の子の霊?」

もちろん、流石は、丸亀に捕まえてもらった森口レイのことを話しているのだが。話がうまくかみ合わない。

タナトス・リーに偽装したルーン秋月は、もう一度コンプリートデータに目を通したが、流石が霊能力者だなんてどこにもない。さてどうするか。

だが、流石はお構いなくこう続けた。

「とにかく、背後の霊を言い当てたのは凄いです。ずーっと気に鳴っていたんです。でもやっとつかまえることができて、レイちゃんとなかよくなって、なんと事件の真相までわかってきたんです。そうだ、お礼を言わなくちゃ。また明日にでも売らないのや型にお伺いしますよ、ルーン秋月さん。」

流石は、もう、タナトス・リーなんて名前は忘れてしまっている。

だが、電話の向こうでは、声が凍り付いていた。

…私を、最後にルーン秋月と呼んだ。しかも占いの館にいることも…?まずい、私の言っていた背後の霊のところから、なにかばれて、事件の真相がわかってきたというのか?「…。いや、偶然だ、そんなはずはない、とっととお香やミネラルウォーターを売りつけて、終わりにしてしまおう…。」

秋月は、携帯の編成期をもう一度確認すると、タナトス・リーに鳴りきってもう一度言った。

「あなたが私の力を信じてくれるなら、もう一つ教えましょう。」

「もちろん信じます、教えてください。」

秋月はほくそえみながら、流石に告げた。

「あなたに取りつこうとしている何者かがまだいます。虎視眈々とあなたを狙っている…。気を抜いていると知らぬ間にあなたのところにやってくるでしょう。」

「え、本当ですか?どうしたらいいんですか?」

「うふふ、実はいいものがあるんですよ。刑事さんならただでお分けしますよ。」

え、ただで?流石はちょっと嬉しくなってきた。

「まずは、部屋全体を浄化するためのアロマ、特別製のお香、そして体を内側から浄化するための特別なミネラルウォーターなんてどうでしょうか。」

「へえ、そんな素晴らしいものを、ただでもらっていいんですか?」

「もちろんです。よければこのタナトス・リー、すぐに郵送しますよ。」

もちろんこのタナトス・リーは架空の人物だから、実際に手私などはできない。でも、だから、あやしまれても逮捕されることもない。でも、流石はこう言い放ったのだ。

「ええ、ただで分けてくださるなら、明日にでもこちらから行きますよ。ルーン秋月さん…。」

秋月はまたどきりとした。でもたんなる勘違いだと自分に言い聞かせて続けた。

「…このミネラルォーターは、おすすめですよ。おしゃれな瓶に入った外国製の特注品で貴重なミネラルや水素もたくさん含まれているんですよ。」

そういえば、おしゃれなびんにはいったミネラルウォーターをどっかでみたかも…。流石は知ったかぶりで続けた。

「へえ、それってあのホーリートパーズってやつですか?ルーン秋月さん」

それはあの自殺に追い込まれた女子大生の部屋に在ったものだった。しかもまた商品名を言い当てられ、ルーン秋月と言われて、かんぜんにばれたと、秋月は直感した。

「明日にでも占いの館のあるあの古いビルに取りに行きますよ…ルーン秋月さん。」

やばい…。やつはわかっているんだ。どうしよう。しばしの沈黙の後流石が声をかけようとすると、突然大きな声が聞こえてきた。

「ヒェー!こないで、こないで!」

そう言って秋月は電話を切った。でもあわてたのは流石の方だった。あわてて電話をかけ直すが、もう秋月は出ない。

流石は思った、最後に悲鳴が聞こえて、来ないでと叫んでいた…これはもしかすると何か事件かもしれない…?

「どうしよう、事件だとしたら、放っておけない?」

占いの館にいるのだとすると、駅の近くでここからも近い。丸亀に相談すると、すぐそばに行くから私がみてこようということにんなった。


その頃ルーン秋月はまずい、逃げろということに鳴り、大急ぎでジーンズ姿に着替えし、サングラスをかけると、しばらく占いの館に来なくてもいいように身の回りの物をまとめ、ここを離れようとしていた。場合によってはしばらく高跳びだ。その頃現場に向かいながら、丸亀は売らないの館に電話を入れて確認を取っていた。

「え?おかしな出来事は何もない?ましてや侵入者や暴力事件などはまったくない?今、最後の数人が引き揚げてフロアから誰もいなくなる…なるほど…それでルーン秋月さんは…そろそろ帰るところですか。いいえ、何事もなければ…はい。わかりました…。」

おかしい、何も起きていないらしい…?でも、流石さんの話だと悲鳴が聞こえてそのあと、電話も通じないと…。だが、丸亀はベテラン刑事の堪で何か腑に落ちないものを感じてそのまま現場へと向かった。

その頃旧天山銀行ビルをリニューアルした石造りのテナントビルは、夜間ライトアップされ、夜の街に静かにそびえていた。

ルーン秋月はやっと身支度を整え、大理石の廊下を走ると、エレベーターホールへと向かって行った。だがエレベーターが下から昇ってくると、古風な格子ドア越しに黒い人影が徐々に上がってくる。

「ゲ、もう一人の刑事だ…相棒?!」

格子ドアが開くと、そこに黒づくめの男が立っていた。丸亀だった。

「失礼します。ルーン秋月さんですね。」

だが、流石の送り込んだ追っ手が早くも来たと直感して秋月は叫んだ。

「ち、違います。私はルーン秋月ではありません。人違いです。」

秋月はサングラスをかけ直すと、そのまま階段へとこそこそと歩き出し、そのまま1階へとかけおりた。4階から3階、そして2回、さらに1階へ着くと、さっと玄関を見回し、丸亀がいないのを確認して、外へと飛び出して言った。だが。出た途端、誰かの手が、大理石の柱の陰からすっと伸びて秋月の腕をさっとつかんだ!

「ヒ、ヒイイイイイイ!」

振り返るとライオンの彫像が見下ろす玄関に、人影が立っていた。

「…ルーン秋月さん、なぜ逃げるんですか?」

それはエレベーターを使って先回りした丸亀だった。

ルーン秋月には、その時、丸亀が地獄からの迎えのように見えていた。

「私じゃありません。言われてやっただけで、違うんです…。」

ルーン秋月は丸亀を振り切ろうとして、走り出した。だが丸亀は腕を放さず、ルーン秋月は前のめりに倒れかかり、路上にバッグの中身をぶちまけてしまった。その時、あやしいコブ黒がいくつか転がり出ていた。丸亀は腕をつかんだままその弧袋を広った…。

「ふうむこの弧袋は確か自殺した被害者のマンションに在ったものと一緒だな…。流石さんが鑑識に出したら、確か微量の麻薬が出たお香の袋だったな…」

ひきつった秋月の顔がライトアップされた石造りの壁に浮かび上がった。丸亀は静かに言った。

「ちょっと、署まで来ていただけますか…。」

るうーん秋月は、愕然としてうなだれたまま…署に連行されていった。

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