第40話 新しい風

 柔らかい風が吹く。

 あれから数年経って、あの時話していた南国まで来た。

 十二月のバンコクはそこまで暑くもないが、少し歩くと汗ばむ陽気だ。川沿いのホテルのカフェで芽依はうとうとしている赤ちゃんを抱いていた。川を上り下り通りする船を見ながら、深呼吸をする。しばらくすると鉄雄が朝食プレートを持って来てくれた。

「あぁ、あくびしてるの? 本当に可愛い」と言って、プレートを置くと、そのまま芽依の腕から生後半年の女の子を抱き上げた。

「ほら、しっかりご飯を食べなさい」と芽依に食事を勧める。

 オムレツにウィンナーにサラダ。ワッフルとクロワッサンまである。宿泊先のホテルの朝食ビュッフェは充実している。


 鉄雄と芽依はあれから、二人でアートフラワーの会社を立ち上げ、イベントや結婚式などで仕事をしていた。芽依は鉄雄のアシスタントをしながら、時々、以前のウエディングの雑誌のモデルもしていたが、それよりも裏方の仕事が好きだった。

 花の仕事は思ったより、広がっていった。鉄雄の恋人のモデルの繋がりもあって、いろんなブランドの仕事もでき、今回もファッションブランドのCMで南国の花を使うと言うので、鉄雄も芽依も一緒に来た。昨日撮影が終わって、今日一日はただのバカンスだ。


 今、鉄雄が抱いている赤ちゃんは健人と芽依の子供だ。妊娠が分かる直前に、健人が会社の後輩と一緒に腕を組んで歩いているところを芽依は見てしまったが、何も言えなかった。芽依の目にはスーツ姿の二人がお似合いに映った。


 健人とは二年付き合い、結婚を意識していた二人だったが、なんとなく前に進めずにいた。相変わらず鉄雄と同居みたいな生活をしていて、芽依は健人との結婚がリアルには想像できなかった。健人にしてもそうだったみたいだ。

 でも別れを選ばすに、子どもでもできたら…とどちらかともなくそんな話をしていたのに、まさかそんな時に健人が違う女性と歩いているのを目撃するとは思わなかった。

 

 妊娠が判明してから、健人に連絡するか迷ったが、芽依の仕事も不規則だったこともあって、スムーズに連絡がつかない。一般的な会社勤めの健人との生活スタイルが違うこともすれ違いの原因の一つだったかもしれない。

 ようやく連絡がついて、

「あの…話したいことがある」と芽依が切り出すと、健人も話があると言う。

 いつものカフェで待ち合わせをして、ひと月ぶりにあった健人はどこか他人のように見えた。

「話って何?」と健人に聞かれて、芽依は妊娠のことは告げられなかった。

「他に好きな人…いる?」と代わりに聞いた。

「え?」

「少し前に見たから…。腕組んで歩いてた彼女」

 健人は黙って俯いた。

「今日…、別れ話する…つもりだったのかなって…覚悟はしてたから。本当のこと…言って欲しい」

「…ごめん」

 二人を見た、あの瞬間からこのことは分かっていた。

「ううん。謝らないで。私も…」と言うと、健人は首を横に振った。

「…ずっと。嫉妬してた。いつになったら…僕のところに来てくれるんだろうって。仕事でもプライベートも一緒だし」

 芽依は健人に対して改めて申し訳なくなる。

「言い訳したくないけど…。他の人を好きな君と一緒にいるのは辛くて」

「…うん。ごめんね」

 健人が別れを決めて、自由になろうとしている。そんな彼にこれ以上何かを背負わすことはできないと思って、妊娠のことは言わずに終わった。健人の苦しみは芽依にも分かる。鉄雄は週一で、面倒臭いと言いながら恋人のモデルのところに泊まりに行っていたのだから。痛いほど、その気持ちは分かった。

「…元気でね」

「どうして…」と健人は言いかけて、頭を下げて、出て行った。


 芽依はお腹に宿った命にどうしたらいいのか分からなかった。堕ろす選択ができない毎日の中、つわりに苦しんでいると、鉄雄がその変化に気がついた。

「ねぇ…。もしかして、妊娠してたりする?」

 鉄雄の前では相変わらずの泣き虫で、芽依は泣きながらどうしていいのか分からない、と告げた。健人と別れたことも前に話してあった。

「プチラパンが産みたいのなら…。その子を一緒に育てさせてくれない?」と鉄雄はいつもと同じ調子で言ってくれた。

「鉄雄さんが?」

「そう。籍を入れたらいいんじゃない?」

「あの…恋人さんは?」

「あの人は…別に気にしないと思うけど。プチラパンは嫌かしら? まぁ、プチラパンにいい人ができたら離婚して、再婚してもいいし」

「産んでもいいのかな?」

「大歓迎よ」と両手を広げてくれた。


 仕事はギリギリまでこなして、出産をした。芽依の母にはきちんと説明して、最終的には鉄雄と籍を入れて育てることを話した。驚いていたが、産後一ヶ月ほどお手伝いに来てくれて助かった。初めての子育てで、芽依は戸惑いもあったが、鉄雄の喜び方がすごくて、嬉しくなった。


 意外なことだったが、あの几帳面なモデルも赤ちゃんを可愛がってくれた。

「小さい手」と言って、指で軽くつつく。

「綺麗な肌してる」と頬擦りをしては泣かれていたけれど。

 几帳面なモデルは芽依がいささかだらしない点が許せないらしく、子供の着替えもきっちり最後までボタンを止めてくれる。おむつをすぐに換える必要があるから、たまにお尻の方のボタンを開けたままにしておくと、すぐに閉じてくれる。

 空になった哺乳瓶をすぐに洗って消毒してくれるのもモデルだった。

「でも部屋は絶対別で。あなた方は三人で寝てくれていい」と言って、いまだに鉄雄は追い返される。

 でも鉄雄も赤ちゃんに夢中で、少しでもぐずりだすと、芽依より先に抱っこしてくれた。

 

 臨月の時、偶然、健人に街で出会った。芽依は予定日まであと二週間という時に、マタニティのモデルをすることになり、撮影を終えて帰る頃だった。足の付け根は歩く度に痛くて、本当にゆっくりしか歩けない。杖をついたおばあさんにさえ抜かされてしまった。駅までの道が遠く感じる。

「芽依ちゃん」

 声がして、振り返えると健人がいた。

「あ…お久しぶりです」

「…そのお腹…」

 健人は声にならないようで、立ち止まっている。突然の再会に芽依も驚いたが、一番最初に思いついたのはなんとか誤魔化さなければいけないということだった。

「私、鉄雄さんと結婚したんです」

「え?」

「だから鉄雄さんの子です」

 信じられないというような顔で健人は芽依を見た。できれば走って逃げたいところだったが、足がどうしても痛くて、走れそうにない。

「嘘…だ。…もしかして」

「違います。あの…ほら、今はいろんな方法があるから」と芽依は変な嘘をついた。

「本当に?」

「はい。本当です。鉄雄さんも楽しみにしてくれてて…。健人さんは彼女さんとうまくいってますか?」

「え? …あ、来月、相手の家に挨拶に行こうって」

「おめでとうございます」と言って、芽依は頭を下げた。

(ごめんなさい。本当のこと言えなくて、ごめんなさい)と心の中で繰り返す。

「僕の子…っていう可能性もあるよね?」と健人が聞く。

「いいえ。そんなこと…は」と健人を見た。

「いつ生まれるの?」

「…後…ひと月半」とまた嘘を重ねる。

「微妙な時期だよね」と苦い顔をする。

 沈黙が苦しくなる。

「でも…あの…どうかお幸せになってください」ともう一度、深く頭を下げる。

「どうしても本当のこと教えてくれないつもり?」

「本当です。この子は…ちゃんと鉄雄さんの子で。籍も入ってるし…」

「芽依ちゃん、ごめん」

「え?」

「一緒に…いれなくて」

 芽依がこれ以上嘘をつかなくていいように、健人は折れた。

 芽依は首を横に振った。

「私…ずっと幸せです。今も。健人さんと一緒の時も幸せでした。…ありがとうございます」

(子供を私たちに与えてくれて…)と心の中で感謝した。

「いつか…子ども。生まれたら…」

「はい。いつでも」

 そう言って、芽依は健人を見送る。お腹の子にそっと手を当てて、本当のパパが二人いるんだよ、と心の中で教えた。


「モンプチべべ。あぁ、可愛い。本当に可愛い。え? 笑ってくれるの? …天使ってこのことを言うのねぇ」と鉄雄は抱っこしながら、ずっと同じことを繰り返している。

 生物学的に言う父親ではないけれど、本当の父親って一体、何を持って言うのだろう、と思うほどに可愛がってもらえて、この子は幸せだと思う。みんなを虜にして、この子は幸せ者だと芽依は二人を見る。

「みんなに愛されて本当、幸せですねぇ」と芽依は小さな命に向かって言う。

「何言ってるの? 私が幸せにしてもらってるのに」

「もしパパって呼ばれたら…鉄雄さん、泣いちゃうかな?」

「え? そうなの? 呼んでくれる?」と嬉しそうにそっと赤ちゃんを抱きしめる。

 その日までは少し時間があるけれど、きっと鉄雄をパパと呼ぶ日が来る。

「ママがいいですか?」と芽依は聞いてみた。

「そんなこと、どっちでもいいわよ。プチべべが呼びたい呼び方で」

 芽依は今度は鉄雄に食事をしてもらおうと、赤ちゃんを受け取った。

「おはよう」とモデルが後ろからやってきて、鉄雄にキスをする。

 もう慣れたとは言え、美男子同士のキスは目のやり場に困る。

「その子の頭に日差しが当たってるから、こっちに座ったら?」とモデルに指示される。

 芽依は慌てて、席を移動する。相変わらず几帳面で言い方が率直でそっけないのだが、根は優しいのかもしれない、と芽依は思っている。

「ちょっと」と言って、手を出してくる。

「?」と芽依が不思議そうにしていると、「抱っこしたいって」と鉄雄が言う。

「え? でもその高そうな服…よだれが」と言うと、さっとテーブルの上のナプキンを肩に置いて、さらに手を出す。

 芽依はおかしくなって、赤ちゃんを渡した。

「お二人のご飯、取ってきます」と言うと、モデルは「スムージーと、ドラゴンフルーツ三切れ」とちゃんとオーダーしてくれる。

 鉄雄はペストリーの甘いパンとソーセージだ。芽依が二つお皿を持って戻る時に、川の水面が煌めいて、モデルと鉄雄が二人で子供をあやしている姿がシルエットに見える。愛されている子ども、その二人を見て、幸せそのものだと思った。赤ちゃんが泣き出したのだろう、二人がおろおろし始めている。芽依は急いでテーブルに近づいた。

「お腹空いてる?」

「おむつは?」と同時に二人が言う。

 芽依が抱っこをして、背中をとんとんと叩くと次第に落ち着き始めた。

「やっぱりママがいいのしら?」と鉄雄は少し悲しそうに言う。

「高級な香水の匂いはまだ早いんだね」

 二人ともの心配がおかしくて、芽依は思わず笑ってしまった。落ち着いた赤ちゃんはすぐに笑顔を見せるようになる。

「やだ、可愛い」

「笑った? こっち見て、笑った?」

 ゆるゆると空気が動くように風が吹く。その風に吹かれていると何もかもが許されているような気持ちになる。いつまで一緒にいられるのか分からないけれど、この子が繋いでくれた三人の時間が心地よくて幸せだ。

 いつか夢見ていた南国の遠くの空で、芽依は永遠の幸せを感じていた。



                                                  〜終わり〜

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遠くの空 かにりよ @caniliyo

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