第39話 花の道

連絡がついたのは鉄雄がアパートに帰ってきてからだった。芽依の母親も病院に行っていたようで、鉄雄の声を聞いて驚いていた。

「あの…どこの病院に? お見舞いに行きたくて」と鉄雄が間髪入れずに聞く。

「…あの子、明日、手術だから…来てもらっても、意識がないかも」

「え? あの…それでもいいので」と言って、病院を教えてもらう。

 健人には申し訳ないが、夕方を待っていられないので、階段の下に病院名を書いた紙を貼っておくことにする。

 不安な夜だったけれど、鉄雄は自分の部屋でこの間、仕事で使った花が残っていたのでアレンジメントを作ることにした。芽依が目が覚めた時に見えるように。

 きっと芽依も今頃、不安な夜を過ごしているに違いない。

 薄いピンク色のバラやガーベラでカゴを埋めていく。

「ごめんね。…モンプチラパン」

 アレンジメントをしながら、夜を過ごして、明け方に少し眠った。


 朝日が鉄雄を揺り動かす。シャワーも浴びて、無精髭も綺麗に剃る。ここしばらく自分に全く構っていなかったので、髪の毛も延びてボサボサのままだ。よくこれでモデルの男は付き合ってくれているな、と自分の顔を見て思う。そういう点では優しいのかもしれない、と鉄雄は鏡を見て嗤う。

 芽依が今日、午前中に手術をしているはずだから、術後に会うにしてももう少し整えようと、髪を乾かし、後ろでゴムでくくる。陰鬱な顔をして病人に会わないようにする。

 うっすら化粧も施す。

 携帯が鳴る。表示を見ると、モデルだった。

「鉄雄? おはよう。今日、ジム行くけど。どうする?」

「ちょっと今日は…。お見舞いに行くから」

「お見舞い? そんなに時間かかるの? 夕方、ジム行ってから…今日は泊まってもいいから」

「…。そうね。行きたいけど…。お世話になった人だから」

「分かった。また連絡する」

 電話は切れた。

 自分の都合をお構いなく言ってくるが、かといって無理強いする相手でもない。相手を好きなのか、好かれているのか、と思うと首を傾げてしまう。まだ手術時間前だと分かっていたけれど、家でじっとしていられなくて、表に出た。

 朝日が眩しい。手には薄ピンクの花が詰まったアレンジメントを持っている。


 いい匂いがする。春の日のお花畑にいるような気持ちいい匂い。

 芽依が目を開けると、ぼんやりとした白い天井が浮かんだ。そしてどこからからいい匂いがする。お花の。鉄雄と一緒にモデルの仕事をしていた時によく匂っていた本当のお花の匂い。芽依はまた眠りについた。


 次起きたのは看護婦さんに肩を揺り動かされた時だった。

「石川さーん。ほら、起きて。気分どう?」

 いい気持ちだったのに無理に起こされて、気分はいいわけないが、悪くもないので「大丈夫です」と言った。

「吐き気は? ない? 大丈夫?」と言って、諸注意を受ける。

 看護婦さんと入れ替わりに母親とその後ろから鉄雄が入ってきた。

「よかったわ。無事に終わったんですって」

「…」

 芽依は久しぶりに見る鉄雄を見て驚いた。

「プチラパン…。よかったわ。安心した」と力が抜けたように、ベッドの側で膝を落とす。

 母親が椅子を勧めてくれた。

 芽依は点滴が繋がれた手をそっと伸ばして、痩せこけた鉄雄の頬に触れた。

「鉄雄さん、心配してくれて、朝からずっと来てくれてたの」

「え? あ、ありがとうございます」

「もう。健人が変なこと言うから…。慌ててきちゃったわ。職場で倒れたんだって?」

「あ、はい。前からなんですけど、生理痛が酷くて。子宮内膜症でした」

「パン屋の仕事も辞めたって聞いたし。…私、プチラパンがもうこの世からいなくなるのかと思って。心配したんだから」と頰を触っていた手をぎゅっと握られる。

「ごめんなさい。でも…鉄雄さんこそ入院した方がいいくらい痩せました」

「それは…忙しかったの」

「ちょっと、お母さん、飲み物買ってくるから。芽依はまだ飲んじゃダメなんでしょ?」と言って、母親は姿を消した。

「…私、神様に誓ったの。プチラパンを無事に生かしてくれるなら、なんでも言うこと聞きますって。だから言うこと聞かなきゃいけないの」

「神様の? 言うこと?」

「馬鹿ね。プチラパンの言うことよ」

「私の?」

「そう。結婚でも介護でもなんでも受け入れるって」

 芽依は驚いて、鉄雄の顔を見た。

「でも鉄雄さん…今は恋人いるでしょ?」

「あ、そうなの。モデルの男と付き合ってるの。まぁ、もちろん…色々あるけど」

「よかった」

「よかった? プチラパンも好きな人できたの?」

「そうじゃないです。でも私と別れて、ちゃんと鉄雄さんが好きな人といられたから」

「一緒には住んでないのよ。あの…モデルは厳しいから、昨日なんて、早く寝たいからってとっとと追い帰されたわよ」

「えぇ?」

「失礼じゃない? 寝るから、帰ってって」

 帰された鉄雄を想像すると、思わず芽依は笑う。

「じゃあ、恋煩いで痩せたんですか?」

「…違うの。これは…」と口を噤んでしまう。

 芽依は鉄雄を見て真剣な顔で言った。

「お願い事、本当に聞いてくれますか?」

「いいわよ」

「私、鉄雄さんと一緒にお店、お花のお店したいです。ちゃんと勉強もします。そのために仕事も辞めました」

「え? お店?」

「はい。いつか言ってましたよね。小さな花屋をするって。私、やっぱり鉄雄さんの…なるべく近くにいたくて…。だから同じことできるようになりたくて…」

 鉄雄は芽依をじっと見た。

「五年…。いえ、三年待って。店、持つから」

「はい。それまでお花のこと勉強しておきます」

「そんなの私が教えてあげるから。…お店の名前はモンプチラパンに決まりね」と言って、鉄雄は笑う。

 ここしばらくにない幸せな気持ちにさせてくれるお願い事だった。

「じゃあ、私はご飯作れるようになって鉄雄さん、体力つけさせるようにしなきゃ」

「…プチラパンの住んでた部屋、まだ空いてるのよ。越して来なさいよ。プチラパンがいなきゃ…ダメみたい」

 その一言を聞いて、芽依は握られていた鉄雄の手にキスをした。

 



 

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