第38話 塞ぎようのない穴

 芽依がアパートを去って、鉄雄は壁の穴にティッシュを詰めた。

 いくつかのウエディングの仕事では芽依はモデルの仕事を辞めてしまっていたので、違うモデルを飾り立てている。周りの人に驚かれるくらい鉄雄は痩せたようだったが、少しも気にならなかった。自分が芽依を深く傷つけた分、自分も罰を受けて当然だ、と思っている。でも仕事だけはしっかりしないと、別れを選んだ芽依に申し訳たたない。いつも自分のことよりも鉄雄のことを考えて優先してくれた芽依がちゃんと前を向いて歩いて行けるように、心配されて、芽依が振り返らなくてすむように、せめて自分の仕事はきっちりこなした。

 いつか自分の仕事の結果が芽依にも届くように。

 いい仕事をしていると喜んでもらえるように。


「最後に大きな爆弾を…言ってたな」と鉄雄は時々思い出す。

 芽依が自分の子供を産んで育てると言われた時は、言いようのない感情が込み上げてきた。

 まさか自分にそんなことが人生で起こりうるとは思えなかったと言う驚きと微かな喜び。そしてそこまで言わせてしまった苦しさが後から胸を締めていった。

(どこまで自分を犠牲にするのかしら)とため息と共に、芽依らしいと小さく笑う。

 想像の中だけで、もし芽依が自分の子供を産んでいたら…と。自分が自分の子供をこの手に抱けると思うだけで、温かいものが込み上げる。いつも想像の中だけだったけれど、その想像にほんの少しだけ希望を見せてくれた、と思わず優しい笑が溢れる。

「本当に…あの子ったら天使よね」

 自分の人生にたった一年、春が来た。暖かくて、色とりどりの花が咲く優しい季節。

 花に向き合うときは芽依の笑顔を思い出す。

 いつも一生懸命で、時々、だらしがなく。

 でも最高に可愛かった笑顔。


「おいおいおい。てっちゃん、死んでしまうよ? 病院いった? 痩せ方やばい」と久しぶりにいったカフェのオーナーに言われた。

「やだ、ダイエットが成功してるからって、嫉妬しないで」

「…」

「…」

 二人で顔を見合わせて、ため息をついた。

「結婚すればよかったのに。恋人いてもいいって言ってくれたんだし? 健気じゃないか。戸籍ぐらい、傷がついたところで」とオーナーが言う。

「…あの子にそんなことさせられないわよ。お互い、辛くなるだけだし」

「まぁ、一緒にいなければ、永遠にいい思い出だしな…」とオーナーはカンパリオレンジを飲む。

 サブローも鉄雄も辞めてしまったので、アルバイトが来れない時は自分がやっているらしい。

「前に…焼きそば…食べたな。また食べたい」

「あれはプチラパンが作ったやつじゃないのよ?」

「そうなんだ」

「もう…いない子の話はやめましょう」

「でもなんか…。結局、そうやって逃げてるだけのような気がするけど」とオーナーはオレンジナイフを突き刺した。

「愛せない子を側に置いておくなんて、できないわよ。ペットじゃあるまいし」

「ペットだって、ペットロスって言うだろ? やっぱり…相当なダメージだよ」

「そうよ。だって可愛がってたもの。本当に大切だった」

「愛って、何? てっちゃんの愛って、セックスだけ?」

「…セックスは切り離せないでしょ?」

「まぁ…てっちゃん、まだ若いもんな。俺なんて、嫁さんとはもうないけど。…ないけど…一緒にいるし、死んだら泣く」とオーナーはナイフをオレンジから抜いた。

「セックスだけじゃないけど…。他所で男とセックスするような男と結婚して…結局我慢するのはプチラパンばかりになるじゃない」

「我慢ねぇ」と言ってオーナーは鉄雄にチーズを渡す。

「何これ?」

「とりあえず、食べなよ」

 チーズを口に入れても美味しいと思うこともなかった。芽依がパンを持ってきてくれることも無くなったし、大して何も食べる気もしなかった。

「プチラパン…ちゃんと食べてるかしら?」

 オーナーはオレンジを割って、絞ると、小さなグラスに果汁を絞って鉄雄の前に渡した。

「あんたこそ、しっかり食べなさい」

 搾った果汁は酸味がきつくて、涙が溢れた。


 体だけではなくモデルの男と付き合ってみた。綺麗な男は鼻につく。そして重度の潔癖症だった。きちんと四角く畳まれたTシャツを見ると、ベッドの上に投げ置かれた芽依の半分裏返ったままのパジャマを思い出す。

「鉄雄? ちょっと痩せ過ぎだよ。プロテイン摂って」

「あ、そうね。今仕事が忙しくて」

 目の前にプロテインいちご味を差し出された。

「後、一緒にジム行かない?」と聞かれる。

「分かった」

 体でも動かせば、頭が空っぽになるかもしれない。

「鉄雄は手術するつもり?」

「手術は…当分は」

「今のままの鉄雄がいい」

 そう言われて、キスをされる。もう何も考えられなくして欲しい、と思ったが、体がスッと離れる。

「明日、撮影だから。今日はもう寝るから。帰るなら帰って」

 自分がモデルのアクセサリーの一つになったみたいだ。


 鉄雄がアパートに帰ってくると、健人がバイクの横で待っていた。

「鉄雄さん…。芽依ちゃん、知りませんか?」

「…パン作ってるんじゃないの?」

 首を横に振った。

「あんたは男だけど、襲う気にならないから、うちに来る? 嫌だったら…そのバイクでファミレス連れてって」

 結局、ファミレスに連れて行かれたのは、警戒されていたからなのだろうか、と鉄雄は思った。


 深夜のファミレスにはそこそこの客が入っていた。鉄雄は何が食べたいのかさっぱりわからなかった。メニューを見ても、何一つ美味しそうなものが見当たらない。

「…何がおすすめ?」

「ファミレスでおすすめ聞く人、初めてです」と健人が言った。

「じゃあ、同じ物頼んで。考えるのも面倒臭い」

 健人はハンバーグ定食を頼んでいた。鉄雄はそんなもの食べる気分じゃなかったが、自分が委ねてしまったから仕方がない。

「…芽依ちゃん、ちゃんと預かってくれるって言ってましたよね?」

 そう言えば、そんなことを言っていたと鉄雄はぼんやり思い出した。

「…それで? パン…辞めてたの?」

「パンを焼く最中に倒れたらしくて…」

「え?」

 鉄雄は思わず聞き返した。

「その翌日から入院したそうなんです。その後…復帰できそうにないから退職すると連絡があったみたいで」

「…病気が原因?」

「治療に専念するらしくて…」

「治らないの?」

「…さぁ。芽依ちゃんの実家とか分かりませんか?」

「あんた、部長の息子なんだからそんなこと何とかなるでしょう?」

「…そんなことできるわけないじゃないですか。できたらここまで来てません」

 芽依が病気だなんて、鉄雄は信じられなかった。もしかしたら、自分のせいで心労で倒れたのかと最初は思っていたが、まさか治らないなんてことがあるのかと思うと、真っ青になる。 

「職場の人に聞いても、病院も分からないの?」

「あ、そうなんです。運ばれたところと今は違うところにいるみたいで。それに…職場の人にも教えてなくって」

「どうにかして調べるから。…明日まで待ってて」と鉄雄は立ち上がった。

「え? ハンバーグ定食」

「あげる。食べるなり持ち帰りにしてもらうにして」と言ってテーブルにお金を置いて出ようとする。

「鉄雄さん、連絡先…」

「また夕方に家まで来て。病院探しとくから。一緒にお見舞い行くでしょ?」

 頷く健人を見て、鉄雄はすぐに表に出た。携帯を取り出し、一番可能性のある人に連絡をとる。ウエディング雑誌の編集者なら、芽依の実家の連絡先が分かるかもしれない。

「ねぇ、モンプチラパンの連絡先…実家の番号ない?」と深夜にも構わず電話してしまう。

「神立さん? どうしたの」

「お願い。見てみて」

 あまりの勢いに慌てて、すぐに調べてくれた。芽依が辞めると挨拶をくれた時に念の為、実家の連絡先を聞いていたらしい。

「ありがとう。このお礼に…なんでもするから」と言って、返事も聞かずに電話を切った。

 そして震える指で電話をかける。繰り返される呼び出し音が焦ったい。

 道路を通り過ぎる車の流れを見ながら、こんなことになるなら、どうして芽依の願いを聞いてあげなかったのだろう、と鉄雄は後悔した。頑なに芽依の幸せを望んだふりして、本当は自分に自信がなかったからなのではないか、と悔やむ。もちろん、芽依の幸せも幸福な未来も嘘じゃなく願っている。

 空から小雨が降り出した。電話はまだ繋がらない。

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