第31話 春は不安定

 健人はバイトを先週で辞めていたらしく、芽依は顔を合わすことも無くなった。

 パートの村上さんは落ち込んでいたし、「あんたにあの子がいいと思って、話をしたかったんだけどねぇ」と言ってため息を付いていた。

「忙しいので、頑張りましょう」と芽依が言うと、村上さんは何だか恨めしげにこっちを向いてため息をつく。

「あんたは妙に元気そうだねぇ」と不思議そうに言った。

 あの後、健人に会わなくなって、芽依は内心、ほっとしていた。気持ちに応えることができないのに、何を話せばいいのか、どういう態度を取ったらいいのか分からないからだ。そう思うと、鉄雄は気持ちに応えられないと言いながらも、芽依に付き合ってくれている。

 不毛な恋かもしれないけれど、芽依はまだこの温かい関係を続けていきたいと思っていた。


 朝、目が覚めて、用意をしていると、隣の部屋からシャワーを浴びた鉄雄が帰ってくる。お互い、適当な朝食を食べて、芽依は仕事へ、鉄雄は就寝。そして芽依が帰ってくると、鉄雄は起きて、一緒にカフェに行ったり、夕食を作って食べたりして、今度は鉄雄が出勤、芽依が就寝という生活リズムを繰り返す。

 一緒にいる時間がわずかでも充分に満たされる上に休みを鉄雄が合わしてくれて、一緒に出かけることもできる。

「鉄雄さん、気になる男性はできそうですか?」と芽依が聞くと、

「うーん。今はいないかなぁ。…プチラパンが独り立ちしてから探すわよ」と言ってくれる。

「一生独り立ちできなかったら、どうしますか?」

「してよー。困るから」

「…」と芽依が黙ると鉄雄は頭を撫でながら「ゆっくりでいいから」と言ってくれる。

 優しい言葉が、ゆっくり芽依の心を締めてくる。

 芽依は休日の夜が好きだった。鉄雄の布団に潜り込んで一緒に寝ると温かくて、心から安心して眠れる。小さい子に戻ったみたいな気分になる。このままずっと温かさに包まれることができたらいいのに…。性的な触れ合いよりも、もっと気持ちが満たされる。このままずっと…この温かさに溺れていたい。

「迷惑…ですか?」

「何が?」

 鉄雄の布団に潜り込んでおきながら、芽依は聞いてしまう。

「くっついて寝るの」

「別に。温かいからいいわよ」

「じゃあ、暑くなったら?」

「それは迷惑かもね」と鉄雄は笑う。

「クーラー最大にします」

「地球に優しくない子ねぇ。…でもごめんね」

 鉄雄は時々、謝るけれど、芽依は理由を聞かなかった。ただ首を横に振って、さらに頭を鉄雄の腕に擦り付けて、目を閉じた。歪な関係かもしれないけれど、芽依はこのままでいたかった。

「…植物園、連れて行ってください」

「あ、そうだったわね。次の休みにでも」

 芽依は嬉しくなって、鉄雄の小指を探して絡めた。

「約束ですよ」

 優しく笑ってくれる鉄雄を見て、芽依は目を閉じた。


 鉄雄は仕事場でサブローに会うことは少なくなった。サブローは新店舗の店長として、忙しくしているようだった。代わりに専門学校生の男の子が入ってきた。彼はすぐに鉄雄にアプローチをかけてきた。最初は面倒臭い、と適当にあしらっていたけれど、どういう意図か尋ねてみた。

「体目当て?」

「それじゃダメですか? 本命いるんで」

 鉄雄にとっても好都合だった。

 お互いの目的が一致して、何の問題もないはずだった。なのに行為が終わって熱が引くと、鉄雄はわずかに胸が痛む。横で眠る小さな温もりを裏切ったような気持ちになるからだ。

「鉄雄さん、フリー?」

「…いるわよ」

「へぇ。本命?」

「大切な人よ」

「じゃあ、なんで俺と?」

「…なんでかしらね」

 そう言って、鉄雄はため息をついた。


 時々、鉄雄が朝、遅く帰ってくる。芽依が家を出る時に、階段を上がってくる。

「行ってらっしゃーい」と呑気に言ってくるので、芽依も元気よく「行ってきまーす」と手を振って、すれ違う。階段を降りて振り返ると、上から鉄雄が芽依に手を振ってくれる。それを見て、芽依は笑顔を作って、不安をかき消すように大きく手を振り返した。

 芽依は引っかかりがあっても、鉄雄に聞くことはできなかった。朝日がぼんやりと春の空を明るくする。緩んだ気温が気持ちを不安定にさせた。


 鉄雄は芽依を植物園に連れて行く約束の日だった。自分の部屋でシャワーを浴びて、芽依の部屋に入る。いつもはベッドで寝ている芽依が鉄雄の布団の中で丸まってるのを見ると、思わず笑みが溢れる。少し、仮眠を取るために横に滑り込む。ほんのりした暖かさに力が抜けていって、気持ちがじんわりと満たされていく。

「…ごめんね」

 芽依に対して、性的欲求が少しも湧かないのに、手放せない。そんなことを言ったら、いつかサブローが言ってたみたいに、芽依はそれを受け入れてしまいそうだ。早く手放さないと…と思いながら天井を見ているうちに眠りについた。


 三時間くらいで目が覚めると、芽依はまだ横で眠っていた。

「モンプチラパン…行かないの? 植物園」

 鉄雄の声に瞼が開く。そして本当に花が開くように笑う。

「行きます」

「じゃあ、用意しなきゃ…」

「最近、朝会えなくて…寂しかったです。もし好きな人できたら…」

「…できてないわよ。ちょっとお客さんと話してたら、遅くなって」

「…そうですか」と言って、芽依はまた目を瞑る。

「行かないの?」

「行きます。でももし…私が邪魔になったら」と目を瞑ったまま話す。

 鉄雄は芽依の口をキスで塞いだ。芽依が驚いているのが伝わる。それでもやめなかった。横抱きにしている芽依の体が固まっている。芽依にキスをしながら、何度も謝る。

「ごめんね。モンプチラパン…。大好きだけど、できないのよ」

 顔を離して、芽依の手を自分のところへ持っていき、機能していないことを教える。みるみるうちに芽依の目に涙が溢れ出す。

「だから…」と別れを口にしようとした鉄雄の口を今度は芽依が塞いだ。

 その小さな反抗に鉄雄は覚悟を崩される。

「植物園…約束です」

 震えている身体を抱きしめて、芽依の頭を撫でる。

「そうね。約束ね」

 春の朝は暖かくて、緩んで、不安になる。

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