第26話 違う誰か

 気を抜いたら泣いてしまいそうだった。電車に揺られながら、口を引き結ぶ。芽依は分かっていたことだけど、期待をしていた。もしかしたら少しでも好きになってくれているのではないか、と。自分だけは特別なんじゃないか、と。そんな風に思い上がっていたのかもしれない。男しか好きにならないと分かっていたのに、それでも好きになってしまった。

 芽依は自分の部屋に戻って、鏡を見る。どう見たって、女だ。化粧を落としてから芽依は顔を洗った。でも素顔になったところでさほど変わらない。ため息をついた。もし見かけだけでも男になったら、そう言う気持ちを持ってもらえるのだろうか。芽依はセミロングの髪を少しすくって持ち上げた。鉄雄が髪を丁寧に乾かしてくれたこの髪を芽依はハサミで切ることにした。ショートカットにしたら、少しは男に見えるかもしれない。

 ハサミを持ってきて、洗面台で切った。文具用のハサミでは髪がするすると刃から逃げて、切りにくい。それでも力を込めて何とか切ってみる。何ともガタガタな切り口になった。一度切ってしまったものは元に戻らないのだから、斬ばら髪になろうが、続けるしかない。左側の四分の一ほど切った時、インターフォンが鳴った。

 時間を見る。夜八時になる前だった。芽依は扉の除き穴から覗くと、鉄雄が立っていた。

「いるでしょー? 開けて」

 鉄雄が仕事を抜けて来たのだから、余程のことがあったのだろうか、とドアを開けた。ドアを開けて、向かい合う。眼帯の鉄雄に慣れなくて、つい息を飲んでしまう。でも目の前の鉄雄の方が言葉を無くしたように芽依を見た。そして手がふらっと上がったかと思うと、芽依の切ったばかりの髪に触れた。

「…綺麗な髪だったのに…」

「今、カットしてて」

「どうして」

 芽依は本当の理由が言えなくて、「春だし、気分を変えたくて」と適当なことを言った。

「ところで、何の用ですか?」

「ところでじゃないわよ」と鉄雄は怒って、家の中に入る。

 鉄雄が久しぶりの部屋を見渡すと、ずっと敷きっぱなしの鉄雄の布団があり、慌てて隠した芽依のパジャマのズボンがベッドから垂れていた。萎れかけたチューリップ。だらしのない生活が垣間見れるけれど、芽依の匂い、ビスケットのようなほんのり甘い匂いが微かにする。久しぶりの部屋の優しい匂いに心が柔らかくなる。

 横で芽依が大人しく項垂れているのを見ると、何も言う気が失せて、「髪の毛…そのままじゃあれだから切ってあげるわよ」と言うしかなかった。

「こんなんで切ってたの?」と文具のハサミを見て、呆れていた。

 鉄雄に言われて、裁縫道具の裁ち鋏を持ってきた。小学校で買った裁縫セットを今でも持っている。洗面所の床に、鉄雄の部屋から持ってきた大きなブランドのショッピングバッグを破いて広げる。ダイニングの椅子が運ばれて、そこに座らされた芽依はゴミ袋で作られた簡易のケープを巻かれた。

「切るわよ? いい?」と鉄雄に確認されたので、芽依は「お願いします」と言った。

 それを聞いて、鉄雄の微かな笑い声が聞こえる。ついこの前まで一緒だったのに。夜の時間に二人でいるのが懐かしくさえ感じる。通りを車が走っていく音が聞こえるほど、静かな夜だった。

 金属音がして、ハサミが大きく開けられた。芽依は目を閉じて、自分の髪が切られるのを待っていた。鉄雄に自分の気持ちを告げたら、終わってしまう関係だと分かっている。だったらずっと黙って、いい関係でいるしかない。もし…気持ちを告げたら、鉄雄はきっと芽依を遠ざけるはず。

 切られた芽依の髪が紙袋を広げられた床に散らばる。大きなハサミでざっくりと後ろ髪を切られて、芽依はなんだか気持ちも切られた気がした。

 芽依が左側を思い切り短くしているので、仕方なく右側も短くして、ショートカットになった。切ってる鉄雄も切られている芽依もずっと無言だった。ハサミと床に落ちる髪の音だけが聞こえる。髪の毛を切られている間、芽依はずっと胸が痛かった。鉄雄に髪を掬われるたびに、気持ちが溢れそうになる。奥歯を食いしばって、芽依は耐えた。

「美容室とは比べ物にならないけど…あんたが自分で切るよりはマシじゃない?」と言って、鏡を見せてくれる。

 そこにはショートカットの芽依が写っていたが、男の子になったとは思えなかった。

「…鉄雄さんはなんでも上手にできちゃうんですね」と芽依が言った。

 確かに悪くなかった。

「…あんた、どうして」と短くなった髪の毛を掬って、鉄雄は芽依の短くなった髪に顔を埋めた。鉄雄の息がかかって、熱くなるのを感じながら、芽依は意を決した。

「デート、します。部長の息子と」と言って、無理に笑った。

 鉄雄は返事をせずに、顔を離すと、周りを片付けて、ポケットから千円を取り出して、テーブルに置いた。

「ここに置いとくわね。オーナーが返金して来いって言うから」

「返金?」

「烏龍茶代よ。じゃあ、戻るわ」

「お仕事中なのに…」

 芽依は鉄雄の眼帯姿が気になってしまう。でも鉄雄も芽依のショートカット姿が見慣れない。お互い、何だか今までとは違っていて、微妙な距離ができたような気がした。

「…ショートカットも似合ってるわよ。おやすみなさい」

 そう言って、部屋を出て行った。それから芽依はお風呂に入ったけど、思いがけず髪が短くて、洗髪も楽だし、乾かす時間も短かった。それでさっぱりしたような、寂しかったような気持ちで眠りについた。


 鉄雄が店に帰ると、扉を開けた瞬間から爽やかな柑橘系の匂いが広がっている。オーナーがカウンターにいて、ずっとカンパリオレンジを飲んでいたようだった。

「お疲れさん。オレンジが無くなったから、サブローに買いに行かせたところ」

「また…そればっかり」と言って、鉄雄は飲んだグラスを回収した。

「どうだった? 泣いてた?」とあくびをしながらオーナーが聞いてくる。

「泣いてなかったわよ」

 入り口が空いて、サブローがオレンジを抱えて帰ってきた。

「オーナーがカンパリオレンジ飲むから、オレンジジュースの注文もいつもより入るのよ。あら、帰ってたの?」

「泣いてなかったんなら、よかったじゃん」とオーナーがまたグラスを空けて、おかわりを要求した。

「…でも髪の毛切ってた」

「あぁ…」とため息を吐くオーナーのグラスをサブローが横から取る。

「髪の毛自分で切って、ガタガタにしてた」

 オーナーとサブローが肩を一緒に落とした。

「それで?」

「…部長の息子とデートするって」

「そうか…そうか」とオーナーが言うのを聞いて、サブローが肩を竦めた。

「せいぜい、優しくしてあげて」とサブローがそう言って、オレンジを切ってグラスに差し込んだ。

 鉄雄も芽依が言わずに我慢していたことを分かっている。口に出したら、二人の関係が終わることを知っていて、黙っていたのなら、鉄雄も気づかないふりをするしかない。芽依の思いにはどうしたって答えられない。

「あんたの言うとおりね」

「馬鹿なの?」とサブローは鉄雄を嗤った。

 芽依との温かい時間の中で、鉄雄は癒されたし、いつか芽依が元気に違う幸せを見つけてくれるのを楽しみにしていた。

「結婚してあげたら?」とオーナーが手で顔を覆いながら言う。

「結婚はできるじゃん」とサブローも気のないような感じで言った。

「いい男がいたら、浮気しちゃうのに?」

「はっ」と息をオーナーが吐いた。

 サブローが水をコップに入れて飲むと「でもあの子…それでもいいって言いそうで怖い」と口の端で笑った。

 預言者サブローの言葉を鉄雄は重く受け止めることにする。

「いい女じゃん。結婚、結婚」とオーナーは言って、カウンターに潰れた。

 すかさずサブローは膝掛けをオーナーの肩にかけた。次期店長は絶対、外せない目標だ。そんなサブローを見ながら、無理矢理笑顔を作っていた芽依のことを思い出していた。痣が薄くなっても、しばらくは帰れなさそうな気がした。

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