第25話 望みがない
どう言う意味で言ったのだろうか、と考えていたが、健人が振り向く前には何かを言わなければいけないような気がした。
「…ごめんなさい」
健人が振り返って、芽依を見た。
「私も…」
「私も?」
「あ、でも私は女だし、望みはなくて…」と芽依はまだ手の甲をさすりながら言った。
「…望みがなくても、好きなの?」
そう聞かれて、芽依は胸が突かれた。望みがない、とはっきり言われたのはやはり辛い。頷くと、涙が溢れた。
「ごめん」と健人はそう言って、皿洗いの途中で水を止めた。
芽依は謝られるのも、変な気がして首を横に振る。
健人が近づいてきて「これ、一人で届けに行って」と言われた。
「え?」と芽依が健人を見上げた瞬間、いきなり抱きしめられた。
「ごめん」
もう一回謝られて、芽依は困惑した。
「好きなんだ」
健人の腕の中で芽依は目を大きくした。鉄雄のことじゃなかったのか、と芽依は思ったが、驚きで言葉が出てこない。ただ固まって、時間が過ぎるのを待っていた。
「だから、一人で届けに行って」
「…分かった」と言うと、腕を解かれた。
そしてそのまま健人が出て行って、バイクの音が聞こえなくなるまで動けなかった。テーブルに置かれたお弁当箱を包んで、紙袋に入れる。流しに中途半端に洗われた皿を芽依が最後まで洗いながら、健人が言った言葉を整理した。
芽依がずっと勘違いをしていて、本当は健人が好きだったのは自分だったと言うことが信じられなかった。特に健人に優しくしたわけでも何か特別なことをした記憶もない。しかもこんなに女子力の低い芽依の何を見て、好きになったと言うのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなって、芽依は焼きそばが入った紙袋を手にして、鉄雄の店に向かった。
鉄雄は芽依の仕事中に部屋に戻り、着替えたり、風呂に入ったりしてからまた店に戻って寝ていた。他のスタッフに「主」とあだ名を付けられていたが、鉄雄は気にせず、店のソファで眠った。
「眼帯てっちゃん、襲っちゃうぞ」とオーナーがたまにちょっかいをかけてくるが、それ以外は何事もなく平穏だった。
「てっちゃんのファン? 女の子が何か持ってきたけど」とオーナーが店の裏に入ってきた。
鉄雄は面倒臭そうに体を起こして、オーナーを見た。珍しく最近、店に来ているな、と鉄雄は思ったが、オーナーは「商談で忙しいから、早く出て。時間外手当出すから」と鉄雄を急かした。オーナーは今度、また新しい店を出店する話を自分のカフェでしていた。サブローが少し遅れているらしくて、鉄雄に早めに出るように促す。
鉄雄がエプロンをつけて、カウンターに出ると、芽依が店の入り口で所在なさげに立っていた。
「モンプチラパン!」
その声で鉄雄を見ると芽依の目が大きく見開かれた。眼帯をしている姿も初めて見たのか驚いている。手招きをすると、恐る恐る歩いてきた。
「少し痩せた?」と鉄雄が声をかけると、芽依は泣きそうな顔をする。
「鉄雄さんの目…」
「大したことないんだけど、言ったでしょ? 痣がひどいって」と言って、カウンターに座るように言う。
「あの…これ、焼きそば…部長の息子作なんで美味しいと思います」
「息子が? なんで?」
芽依はどう伝えればいいのか分からなくて、曖昧に、笑って、紙袋をそのまま渡した。
「後で頂くね」と鉄雄は受け取って、店の奥に持って行った。
すると、オーナーが横に来て、「君、誰?」と芽依に聞く。
「あの、お隣に住んでるものです」
「てっちゃんのアパートの? へぇ。あいつが客から何か受け取るのって珍しいから…」
「あ、でも私が作ったんじゃなくて…」と言ってる時に鉄雄が帰ってきた。
「オーナー商談は?」
「商談より面白そうだから、ちょっとこの子に飲み物、出して」と言って、オーナーは商談の席に戻って行った。
「奢りらしいから、好きなの頼んでいいって」と鉄雄はメニューを差し出す。
「烏龍茶で」
氷を入れない烏龍茶が目の前に置かれた。
「鉄雄さん…怪我、他には?」
「ないよ。…置いて行って悪かったけど、殴り合いの喧嘩見たくないでしょ?」
確かに、と芽依は頷いた。
「それでどうして部長の息子が焼きそば作ってくれたのよ?」
「私が…要領悪くて、見るに見かねて…。代わりに作ってくれました」
「見るに見かねてって…。あんた、部屋にあげたの?」
「え? はい」
鉄雄は深いため息をついて、「ご無事で何より」と言った。
それを言われて、芽依は抱きしめられたことを思い出し、思わず宙を見た。
「キスでもされたの?」
その言葉に驚き、芽依は口を開けたけれど、言葉は出てこなかった。鉄雄も健人の気持ちを知っていたという衝撃が走る。
「付き合ってみても悪くないとは思うけど…あの子、苦労知らずだからね」
「付き合っても…?」
「いいんじゃない? 男前だし、前途有望だし」と鉄雄が言うので、芽依はまた胸を抉られた。
「鉄雄さんだったら付き合いますか?」
「…タイプじゃないから、遠慮しとく」
芽依は烏龍茶を一気飲みして、目をまん丸くしている鉄雄に「帰ります」と言った。カウンターに千円置いて、芽依はそのまま店を出た。階段でサブローとすれ違ったけれど、頭を下げただけで、会話せずに表に出た。まだ夜が来る前の淡い時間で、芽依は急いで家路についた。ラッシュアワーの電車に乗って、もう何も考えられないまま揺られ続けた。
サブローは入り口で芽依とすれ違ったが、軽く声をかける雰囲気ではなかったので、感動の再会ができなかったのか、と首を捻った。自分が遅くきたから、先に鉄雄が店にいるはずなのに、と思って店に入ると、商談を終えたオーナーが相手をにこやかに送り出すところだった。サブローも慌てて、横に並んでお辞儀をした。
「サブロー、お前、新店舗の店長するか?」とオーナーが言うので、サブローは思わずガッツポーズを堪えた。
「仰せのままに」とふざけて頭を下げる。
ウキウキ気分で店の裏に入ろうとすると、カウンターでイライラしている鉄雄がいた。
「あ、そういえば、さっきモンプチにあったけど?」
「なになに? モンプチって?」とオーナーも近寄ってきた。
「あんたのモンプチじゃないから」と鉄雄は怒っている。
「おーこわ」とサブローは肩をすくめて裏に入った。
「てっちゃん、どうした?」とオーナーがカウンターの千円をひらひらさせる。
「それはあの子のお金だから」と鉄雄が千円を取る。
「だから、どうしたの? そんなにイライラして」
裏から出てきたサブローが「なんでブイヤベースじゃないのー。ブイヤベース持ってくるように言ったのにー」と叫んでいる。
紙袋に入っていたお弁当を覗き見たようだった。
「ちょっとお腹空いたから食べていい?」とサブローが持ってくる。
「俺も。てっちゃん、皿出して」とオーナーがいうので仕方なく皿を用意する。
「え? あんた、食べないの?」とサブローが言うと「別にいらない」と言った。
「そんなこと言って、あの子、泣くわよ? …そっか。いらないって言ったから悲しそうだったのね」とサブローが呟いた。
「え? 悲しそうって、てっちゃん、何したの?」
鉄雄は黙ってフォークを差し出した。
「まぁ…、あの子に気を持たせるようなことしちゃダメって…言おうと思ってたんだけど」とオーナーがフォークで器用に焼きそばを皿に移し変えた。
「へぇ。あの子、結構上手に作るじゃない」とサブローが一口食べて言った。
「それ、あの子が作ったわけじゃないから」
「じゃあ、誰が作ったのを持ってきたのよ?」
「部長の息子」
「誰よ、それ」とオーナーとサブローの声が重なった。
「将来有望な有名私大のお坊ちゃんよ」
「? で、その子がなんで焼きそば作ってるわけ? それをなんであの子が持って来たのよ?」とサブローが聞く。
「お付き合いしたいんじゃないの? そのお坊ちゃんが、あの子と。だから焼きそば作ったんでしょ?」
「それで…なんて言ったの?」とオーナーが聞いた。
「お付き合いしてみたら? って?」と鉄雄ではなくサブローが言った。
鉄雄は無言で横を向いた。
「自分で傷つけといて、イライラしないでよ」とサブローはため息混じりに文句を言う。
「まぁ、でもそう言うしかないよね。男しか愛せないんだから。…純粋に興味なんだけど、なんで可愛がってんの?」
「そう、それ」とサブローも焼きそばを食べながら、相槌を打った。
「…可愛いし、あの子は私の憧れだから」
「憧れ…あんな感じの子になりたいってこと?」とオーナーは悲しそうな顔で言った。
「だって、あんた…どうやったって体格的に大女にしかならないでしょ? まぁ、だからあぁ言うのに惹かれるって言うのも分かるけど」とサブローは考察した。
「遅かれ、早かれ、現実を知るべきなんだから、まぁ、仕方ないか」とオーナーはため息をついた。
「でもさ。目に涙ためて、あれは哀れよ」とサブローがわざと言った。
「好きな人に、誰かと付き合えなんて言われたら…」とさらに続けた。
「ハートブレイクしちゃう」とオーナーも言った。
「別に、あの子、私のこと、好きじゃないわよ」
鉄雄がそう言うと、二人は天井をわざとらしく仰いだ。
「さっきのお金、今すぐ、あの子に返金して来なさい」とオーナーは言った。
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