第24話 怪我

 電車に乗って帰っただけなのに疲労が体に溜まっている。 混雑している車内にずっと立って揺られていたので、最寄駅に着いた時は一安心した。芽依がホームに降りた時、電話が鳴る。知らない番号だったけれど、サブローに伝えていたので、鉄雄かもしれないとすぐに出た。

「もしもし?」

「モンプチラパン?」と鉄雄の声が聞こえてきて、芽依は思わず息が止まった。

 ほんの数日会っていないだけなのに、随分、久しぶりな気がする。

「あれ? 聞こえてる?」と黙っている芽依に呼びかけた。

「…聞こえてます。…どこ、ですか? もう帰って…こない…んですか? お布団…片付け…ますよ」と泣くのを我慢して喋っているので、鉄雄が軽く笑った。

「やだ、泣いてるの?」

「泣いて…ません」と言いながら、芽依は鼻を啜る。

「ふふふ。あのね…ブイヤベースは嫌いなの。魚くさいときあるから」

「え?」と聞き返す。

「帰ったら、また焼きそば作ってくれたらいいから」

「帰って…来るんですか?」

「帰るわよ。あいつとは殴り合いの喧嘩して、酷い顔なの。だから…そんな顔見せたくなくて」

「…怪我したんですか?」

「大丈夫、あいつももっと酷い怪我してるから。当分、大人しくしてると思うわ」

「本当に…大丈夫ですか? 今、どこですか?」

「プチラパン、怪我は大丈夫。お布団はあんたの押入れに入れておいて。しばらくはお店で泊まろうと思うの。…でも寂しくなったら、いつでも電話していいから。明日、行ってきますの電話もかけていいから」

「じゃあ…家に帰るまで。話しながらでもいいですか?」

「いいよ」

 優しい鉄雄の声が耳に届く。芽依はすごく心配していたこと、最近はパンを持って帰ってきていない事、もう会えないと思っていたことを話した。夜道は声が響くから小さい声で話す。一つ一つに鉄雄が頷いたり、否定したりしてくれた。アパートに着いたと言うと、「ちゃんと部屋に入って鍵かけてから、電話を切って」と言われる。芽依は言われた通りに、鍵をかけて、「着きました。おやすみなさい」と鉄雄に言った。

「いい子で待ってて。おやすみ」

 ずっと言って欲しかった言葉がようやく聞けて、芽依は心の底から安心した。芽依はすぐにお風呂に入って、寝る用意をして、鉄雄の布団に潜り込んだ。一人だと冷たくて、硬い布団だけど、芽依はすぐに眠りにつけた。


 芽依は仕事終わりに、健人にお茶に誘われた。いつも断っていたが、鉄雄のことも落ち着いたので、話してもいいと思って、お茶をすることにした。スタバが混んで居たので、ファーストフード店に入ることにした。特にお腹が空いていなかったので、アイスティだけ頼んで座る。健人はハンバーガーセットを頼んでいた。

「今日は調子良さそうだね」

「あ、心配してくれて、ありがとう。実は…」と芽依は言いかけた時に、健人は「あのさ、調子悪かったのって、鉄雄さんが原因? 最近、パンも持って買えるの少ないし…」と聞かれた。

「…そうなの。その話もしようと思ってたんだけど。急にいなくなって」

 健人は驚いた顔をした。芽依は健人の気持ちを思うと、元カレの話をしたくはなかったが、ちゃんと説明することにした。元カレには婚約者がいてそれを見せつけられたから、こっちも恋人同士のお芝居をしてしまったのだが、それが煽りになってしまったのかもしれない、と芽依は伝えた。

「逆上したってこと?」

「うん。…多分。殴り合いの喧嘩でできた痣がひどいって言ってたから」

「心配?」

「心配だけど…」

「じゃあ、一緒にお見舞いに行こうよ」と健人が言う。

 健人も心配してるんだ、と芽依は思うと断れなかった。それに芽依もやはり会って、一度怪我の具合を確かめたかったので、健人と夜に出かけることにした。

「あの。焼きそば作って持って行こうと思って。作ってからでもいい?」

「焼きそば? じゃあ、僕も食べたいから、食材買うよ」

「え? あ、そんなにうまく作れないけど…」

 芽依の部屋で焼きそばを作って、二人で晩御飯を食べてから行く事にした。鉄雄は夜のシフトだから、今行っても会えそうにないからだ。スーパーに行って、買い物をしてから帰ることにする。

「海鮮焼きそばとかは?」と健人に言われたが、「鉄雄さん、どうもお魚? そう言う匂いが苦手なのかも…。でもイカぐらいはいいのかな」と言いながら、イカをカゴに入れた。

「カゴ持つよ」と芽依からカゴを取って、健人がえびも入れた。

「あ、高級食材」と芽依が言うと、不思議そうな顔で健人がパックを見る。

 特に車海老でもない、インドからの輸入品のブラックタイガーだ。一人暮らしをしたことのない、ましてや実家暮らしの健人には芽依が何を言っているか分からなかった。

「…海老って高いの?」

「え? だって、海老は美味しいけど、食べなくても生きていける食材だもの。滅多に…ほとんど買わないかな」

「イカも?」

「そう。でも今日はお見舞いだから」

 健人は芽依のような女の子は大学にいなかった。流行りのファッションやダイエットの話、就活、自分の夢、そんな話をする子はたくさんいた。

「あ、でも私、そんなに料理しないの。一人だと、結局食材が余ってしまって、勿体無いし。納豆とご飯とか、できるだけ料理しなくて食べれるもの食べてる」と言って笑う。

「お菓子作りとかしないの?」

「お菓子は買った方が安いもん。そっちの方が美味しいし」

 およそ、健人が想像している女の子とは違っていた。


 芽依が自己申告をしているように、料理の手際が悪かった。包丁の持つ手もおぼつかないし、人参の皮剥きを皮むき器で剥いているが、健人は見ていて不安になる。

「あ」と指まで皮剥き器で削りかけた。

「ちょっと」と言って、思わず健人に指を取られた。

 うっすら血が滲んでいる。手を握られたまま、台所の水道で指を流水で流された。

「絆創膏ある?」

 芽依は首を振る。

「本当に、何もないんだね。ちょっと待ってて。買ってくるから」

「大丈夫。すぐに血も止まるから」と言っている芽依の静止も聞かずに、健人は部屋をでて行った。

 玉ねぎの皮を手で剥きながら、なんとなく恥ずかしくなった。料理もまともにできないことがばれてしまった。しばらく玉ねぎを切りながら、切り傷が染みると思っていると、健人が絆創膏と、消毒液を買って帰ってきた。

「何してるの?」

「玉ねぎ…」と言うと、怪我した指に素早く手当てをしてくれる。

 指にかわいいキャラクターの描かれた絆創膏が巻かれた。

「これ…」

「かわいいかなと思って」と健人が言うので、芽依も笑ってしまう。

「子どもじゃないんだから」

 もう出血も止まっていたが、可愛い絆創膏をつけられて芽依は可笑しくなった。

「俺が作っていい?」

「え? 作れるの?」

「中華料理店でバイトしてたから」と言って、包丁を持つと、軽快にキャベツを切り始めた。

 手際よく、肉、イカ、野菜を炒めてから麺だけ別に炒める。あっという間に美味しそうな焼きそばが出来上がった。

「え? すごい。こんなことできるなんて思いもしなかった」

「…うん。まぁ、簡単なのだったらできるから」

 簡単なものも作れない芽依はちょっと俯いてしまった。

「冷める前に食べて」と言われて、芽依は箸を持って、食べる。

 以前自分が作ったものとは全然違っていて、とても美味しかった。

「美味しい」と素直に感動した。

 野菜はシャキシャキしているし、麺も硬く揚げられるているような部分があった。芽依は鉄雄の分をお弁当箱に詰める。

「小林君の手作りの焼きそば、食べてもらえますね」

「え?」と健人は聞き返す。

「美味しいからきっと喜んでもらえます」

「あ。そうかな」

 なんとも気のない返事に芽依は首を傾げたが、そのまま蓋をした。そして皿を下げようとした時、手を掴まれた。芽依が健人を見ると、しばらく目があった。

「あ…怪我してるから、俺が洗う」

「え? でも大した怪我じゃ…」と言って、手を引こうとすると、さらに強く掴まれた。

 健人はそのまま立ち上がって、手を離すとお皿を片付け始めた。芽依は掴まれていた手を見る。特に跡が残っているわけでもないのに、手が熱く感じる。芽依は振り返って、健人がお皿を洗っている背中を見た。ただお皿を洗ってくれているだけだし、ただ怪我をした芽依を労ってくれた…と考えようとした。でも掴まれた強さがまだ残っている気がして、反対側の手でさする。

「あの…ありがとう」と芽依は声をその背中にかけた。

「…鉄雄さんのこと、好きなんですか?」

 こちらを振り返ることもなく、聞かれた問いに芽依は答えられずに、台所の窓から差し込む午後の黄色い光を眺めていた。窓際のチューリップは少し勢いがなくしなだれている。

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