第23話 嘘
サブローは左目に眼帯をしている鉄雄を見て、ため息をついた。
「あのさ、どこをどう転んだら、そんなところ打つ訳? テーブルの角にでも自ら突っ込んだの?」
「覚えてないわよ」
「それにさぁ、首元の痣は何? どうしてそんなに引っ込んだところばっかり怪我するの? あの女の子がしたとは思えないんだけど」
「あの子は関係ないわよ」
「じゃあ、どうして家に帰らないわけ? 店で寝泊まりしてさ」
「オーナーに言われたのよ」
「聞いてないわよ」
「うるさいなぁ」
「どうせ痴情のもつれでしょ? モテる男は辛いわよねぇ」とサブローは言って、店内のテーブルを拭きに行った。
妙に勘のいいサブローが鬱陶しかったが、彼なりに心配しているのは分かっている。
グラスが仕舞われている戸棚のガラスに自分の顔を写す。眼帯はしばらく外せそうになかった。幸いに視力には問題がなかったが、痣はなかなか消えない。
「若くないし…時間かかるわ」
このまま家に戻ったら芽依が心配するだろうと思って、マシになってから…と考えたのに、少しも良くならない。あの日、芽依が追いかけてきたのは気づいていた。でも立ち去ったのは元カレの様子が異常だったからだ。芽依まで被害に遭うかもしれない、と考えて、車の助手席に乗った。男の嫉妬って恐ろしい、と鉄雄は自嘲した。
「女と付き合ってるなんて、嘘だと思ったのにな」と荒い運転をしながら言った。
「見たでしょ? 寝てたの」
急ブレーキで体が前にのめり込んだ。シートベルトしててよかった、と鉄雄は思った。
「女で満足できる訳ないだろう」と今度はシートが急に倒されて、後ろに体が引っ張られた。
「結婚するんでしょ?」と言うと、腕が伸びてきた。
「だから?」と笑いながら、首に手をかけられた時はぞっとした。
こっそりスマホのカメラ機能でビデオ撮影を始める。何も映像は映らないだろうが、音声は入るはずだ。意識が遠のく前に横腹を強く殴った。締められていた手が離されて、空気が気道に流れてきて、咳き込む。
「本気なのか?」と言われて、頷くと、今度は顔を殴られそうになったので、避けようとしてちょうど左目に当たった。視界がぼんやり濁っている。
もうこれで十分だろう、と鉄雄は思って、シートベルトを外した。
「綺麗に別れたかったのに…。診断書とって、警察行こうか? 婚約者にも全て話そうか?」
「離れて分かった。お前の方が」
「だから何?」
「あんな外見だけの女より」
「だから…店まで連れてきたわけ?」
元カレは婚約者とは仕事の関係上、仕方がなかったとか、どうでもいいことを呟いている。
「あんたのは愛じゃないわよ。欲よ。性欲、支配欲」と言って、目を押さえると、ぬるっとした感触が伝わった。
「お前のは愛だと言えるのか? 本当にあの女を好きだって? 女でいいのか?」
「…女、男、関係なく。あの子は好きよ」
そう言うと、勝ち誇ったような顔で「やっぱり。俺が好きでそういう芝居をしてたんだろう」と嗤った。
「そう思う? 性欲じゃない、あの子には愛をもってる」
「愛?」
「愛がないから、こうして傷つけあってるんでしょ? あなたも私も」と言って、鉄雄は思い切り元カレの顔を携帯を持った手で殴った。
顔を手で押さえている間に、車から降りる。
「もう二度と来ないで。今から病院に行くから。次は…覚悟して?」と言って、ドアを閉めた。
携帯でタクシーを呼んで、夜間受付の病院に行った。そしてビデオで撮れていると思っていたが、真っ暗な写真が連写されているだけだった。
サブローはテーブルを拭くとゴミ捨ても行く。意外と綺麗好きで、こまめに働くので、性格は悪いがオーナーに気に入られている。オーナーはイタリアンレストランで儲かっているので、赤字カフェを経営してして税金対策にしているらしい。だからこのカフェの客が少なくても文句は言わない。ただし、気取ったお店なので、業界の人が利用したり、そういう界隈では有名だった。だからサブローはいつも客をチェックしている。自分がどこかに抜け出せないか、と人を見ていた。ゴミ捨てもして、店に戻ろうとした時、力なくとぼとぼと歩いてくる芽依を見た。ものすごく落ち混んでいるのが一目で分かったから、面白くなって声をかけることにした。
「おーい」
「あ、サブローさん」
「元気ないけど、また烏龍茶でも飲む?」
「あの…鉄雄さん、働いてますか?」
「鉄雄?」と言いながら、なんと返事したらより楽しいかな、と考える。
「最近、アパートにいなくて…。ちょっと心配で」
「そうなんだ。うーん。そういえば、私もシフトのせいかな? 会ってないわ」と嘘をついた。
明らかに肩を落として、「そうですか」と言う。サブローはその姿を見て、吹き出しそうなのを堪えた。もっと落ち込んだ姿を見たいと思う自分の性格の悪さは自覚している。
「あの…鉄雄さんって、何が好きか知ってますか?」
「何が好きって? 花? じゃないの?」
「あ、食べ物…です」
「あー、そうねぇ。魚は嫌いそうよねぇ。寿司とかもらったら、私にくれるし。でも好きな食べ物ねぇ」
サブローは鉄雄に興味がないので、好きなものを知らない。
「あ、でもブイヤベースとか言ってた気がするわ」と適当に簡単に作れなさそうなものを言ってみる。
「ブイヤベース?」
「世界三大スープの一つらしいわよ」と最近、見たテレビ情報を横流しした。
「そ、そうですか」と明らかに動揺している芽依を見て、またサブローの心は満たされた。
満たされたついでに思い出した情報を言った。
「だって、あの人、フランスにいたから、そういうの好きだと思うわ」
これは嘘ではなかった。鉄雄はフランスの花屋で修行していたという話は聞いていた。
「フランス…」とこれまた芽依が気の抜けたように呟いたのを聞いて、サブローは大満足した。
「まぁ、もし鉄雄に会えたら、探しに来てたって言って、あんたに連絡するように言ってあげるわ。電話番号知ってるのよね?」
「それが…。お隣さんだから交換してなくて」
「はぁ? そうなんだ。だから連絡とれないんだ」とサブローは言って、自分の携帯に芽依の電話番号を入れさせた。
「サブローさん、ありがとうございます」と芽依が頭を下げるので、サブローはほんの僅かだけ、胸が軋んだ。
「ねぇ、もしブイヤベースできたら、私にも食べさせて。お店に持ってきてよ」
「はい」と芽依はそう言って、お店に寄らずに去っていった。
その後ろ姿を見送ると、サブローは地下の店へ降りる階段を駆け降りた。そしてガラスで自分の怪我の確認をしている鉄雄を見ると、急にウキウキしてきた。
「さっきあんたのモンプチが来てたわよ」と言うと、鉄雄が勢いよく振り向いた。
「え? いないじゃん」
「だって、帰らせたわよ。会いたくなさそうだったし」とわざと何でもないように言う。
「…別に会いたくない訳じゃないけど」
「まぁ、今度くるときはブイヤベース持ってきてって言っといたから…。好きな食べ物じゃなかったっけ?」
「好きじゃないわよ!」と鉄雄は怒って返事した。
「そう? でもあの子、一生懸命に作ってくるんじゃないかなぁ。そんな感じだったわよ」
鉄雄は芽依がどんな気持ちでここまで来たかと思うと、今すぐ追いかけようかと思った。
「電話番号、聞いたから、電話したら?」と鉄雄の顔を見て、サブローが言った。
夜の街を歩きながら、芽依は仕事にも来ていない鉄雄を心配した。でももしかすると、復縁したのかもしれない、と。あのまま元カレと…今も一緒に過ごしているのかもしれない。そう思うと芽依は胸が苦しくなった。よくよく考えてみると、家元の息子だし、芽依の手の届かない人間がたまたま隣に住んでいただけで、気まぐれで芽依と一緒に過ごしていただけだった。それに何より、芽依は男じゃない。
どう頑張ったって、叶わない恋だと芽依は思う。
(恋? 私、恋してた?)
芽依は自分の気持ちが分からなくて、戸惑ってしまった。岡崎との恋とは全然違う。ドキドキしたり、気持ちが跳ね上がったりするようなのが恋だと思っていた。鉄雄に対して、そういう気持ちになったことはない。ただひたすら暖かくて、柔らかくて…居心地のいい場所だった。
でもあの日、鉄雄が車に自分から乗り込んだのを見た日から、芽依の体が引き裂かれたような、自分の半分がどこかに消えたような気持ちで、落ち着かない。それに連れて行った元カレに嫉妬した。口を開ければ、どす黒いものが出てきそうな気になる。何となく口を押さえると、涙が溢れた。
「どう頑張ったって…女だし」
夜遅くなっても電車は人でいっぱいだ。芽依は電車に揺られながら、自分がこの先、どうすればいいのか分からなくなる。誰かと結婚して、子どもを産んで…とそんなことを夢見ていたのに、出鼻から失敗して、その上、叶わない恋をしている。電車の窓から見えるマンションの明かり一つ一つが幸せに思える。きっとそれは芽依の思い込みなのかもしれないけれど、どの窓も幸せな光を照らしているように見えた。
(何も望まないから…一生、側にいたいって言ったら、許してくれるかな)と芽依は通り過ぎていくマンションの灯りに聞いてみた。
今日は誰も彼もが幸せそうに見える。昔もそんなことを思っていたな、と芽依はその気持ちを久しぶりに感じていた。
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