第22話 動揺
お互いの部屋でお風呂に入って、今日は一緒にネットでドラマを見ることにしていた。芽依が髪の毛を乾かしていると、鉄雄がタオルで髪を拭きながら、部屋に入ってきた。
「あ、鉄雄さんもドライヤー使ってください。風邪ひきますよ」と芽依が言うと、鉄雄が「じゃあ、先に乾かしてあげる」とドライヤーを取って、芽依の髪を優しく撫でながら乾かしてくれる。
「彼氏と誤解しそうです」と芽依がうっとりしながら言うと、ドライヤーを切って「何?」と聞く。
「なんでもないです。ありがとうございます」と芽依は目を閉じた。
髪の毛を触られるのってどうしてこんなに気持ちがいいのだろう、と芽依は思わず眠りそうになる。うつらうつらしている間に髪の毛は乾かされた。
「じゃあ、私が」と言うと、鉄雄は「もう殆ど乾いてるからいいわよ」と言う。
「それより、あんたチューリップの花瓶に今日買ったブーケ、無理矢理、差し込んでるでしょ?」
「だって花瓶がそれしかなくて」と芽依が言うと、鉄雄はスウェットのポケットから、さっき店で買った小さなガラスの花瓶を取り出した。
「ちゃんとサイズに合わせないと…」と言って、花を移し替える。
何の気なしに眺めていたが、鉄雄の長い指が素早く整えていく。その動きがとても綺麗で芽依は見惚れていた。
「やっぱり家元なんですねぇ」
「家元は妹がやってるわよ。私はお払い箱よ」
「…鉄雄さんはお花のお仕事を続けた方がいいと思います。きっとずっとやってきたことだから、そんなに様になってるんです」
「ありがと。モンプチラパンがそう言うなら、もっと花の仕事受けようかな?」
「私、お手伝いできますか? 重い荷物とか持ちますよ。今の仕事も重いの持ってるし」
「じゃあ、私が小さなお花屋さんしたら、一緒に働いてくれる?」と言いながらプチブーケが入った花瓶に水道の水を入れた。
そう言われて芽依は嬉しくなった。
「そうなったら、ずっと一緒にいられますね」
「結婚しなさいよ」
「鉄雄さんは? しないんですか?」
「結婚っていう制度を使うにはなかなか厳しいものがあるから」と言うと、なぜか芽依が肩を落とした。
「結婚が夢だっていうプチラパンとは違うから、気にしないの」
「…はい」
大人しく頷くと芽依は鉄雄の持っている小さな花瓶のブーケを眺める。
「いつかお花屋さんを一緒にできるように、お花の種類や名前をたくさん覚えなきゃ」
「いいわよ。そんなこと。働いてくれたら、覚えられるから。それより、ドラマ見ましょう」
二人で壁にもたれて、小さな画面のタブレットでドラマを見ていた。可愛いドレスを着ている六十年代のアメリカのドラマで服がどれも素敵だった。鉄雄は「はー、あのドレス素敵」とか横でため息をついているが、芽依は瞼が次第に重くなってきていた。
「先に寝てていいわよ」と言われ、芽依は一人でベッドに入るが、少し寂しくなる。
「お布団に入って見ませんか?」と鉄雄に声をかけると、鉄雄はタブレットを持って移動してくれた。
ベッドの横に敷いてある布団に潜り込むと、鉄雄はタブレットを横に置いた。
「うるさくない?」
「大丈夫です。なんなら、隣に行っていいですか? 一緒に寝ながら見たいです」と言うと、鉄雄は少し考えてから笑った。
「おいで、おいで」
そう言ってくれるから芽依は喜んで、一緒の布団に入った。ただひたすら背中に温かさを感じる。芽依が見えるようにタブレットを置き直し、二人で横向きで、同じ方向を見ている。可愛いドレスとオールディーズの曲、そして英語の音声。芽依は見ているつもりだったが、いつの間にか眠ってしまった。
しばらくして鉄雄は芽依の寝息を確認すると、タブレットを切って、自分も目を閉じた。暖かくて幸せだった。
芽依は朝が来る前に目が覚めてしまった。いつの間にか鉄雄の方を向いていたようで、目の前に鉄雄の寝顔があった。息を飲んだが、仕事まで少し時間の余裕があったので、そのまま寝顔を眺める。寝顔も綺麗だ。芽依は鉄雄の体温が心地よくて、体に頭をくっつけた。その瞬間、鉄雄の寝顔を見たということは、鉄雄も自分の寝顔を見たのでは、と思いいたり、息が止まった。涎なんか垂らしていないだろうか、と思わず口元を擦る。
「何してんの?」と鉄雄が目を覚ましたようで、掛け布団を少しあげた。
「おはようございます。私の寝顔見ました?」
「寝顔? あら? ご自慢の寝顔見ればよかったかしら?」と鉄雄は笑った。
ほっとため息をついた時、朝早いというのに、隣の鉄雄のインターフォンが鳴る。
「こんな朝早くに誰よ?」と言って、鉄雄は布団から出ると、芽依の玄関に向かって行く。
ドアを開けけると思いもよらぬ人がいたようだった。
芽依は起き上がって、鉄雄が玄関で固まっているのを見た。鉄雄の向こうに元カレがいたからだ。鉄雄が少し体を傾けて、芽依を振り返ると、元カレと芽依の視線が合う。これはお芝居をしなければ、と芽依は慌てて髪の毛を整えるふりをして、視線を逸らした。
「ちょっと」と鉄雄が言って、元カレに手を掴まれて、連れて行かれた。
芽依は慌てて、後を追ったが、二人は階段を降りて、車に乗って去っていった。無理矢理乗せられたのではない。鉄雄が自分でドアを開けて助手席に乗ったのを芽依はアパートの上から見ていた。
「あれ?」
芽依は自分の胸が急に苦しくなったのを感じた。
「どういうこと?」
慣れた手つきでドアを開けて、こっちを振り返りもせずに助手席に乗った鉄雄の姿を見て、どうしてこんなに動揺しているのだ、と芽依は思った。アパートの手すりが冷たく感じて、手を離すが、力が抜けて立っていられなくなった。その場でしゃがみ込んだが、鉄雄はしばらくしても戻ってこなかった。芽依はまるで自分が捨てられたような気持ちになって、ものすごく惨めな気持ちで部屋に戻る。仕事に行く用意をしている間にも鉄雄が帰ってくるのではと思ったが、芽依がアパートを出る時間になっても戻ってこなかった。
「行ってきます」
いつもなら鉄雄の返事があるのに、今日はない。静かすぎる部屋が嫌で思い切りドアを閉めて、部屋を出た。
朝から芽依は仕事が失敗しないようにとだけ考えていた。いつもより鉄板は重い気がしたし、動きも素早く動けない。まとわりつく空気が重くて、芽依は手も足も必死で動かさないと、動いてくれない。何度、ベテランパートの村上さんに檄を飛ばされただろう。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「いえ。ごめんなさい」
そんなこんなで午前中が終わり、芽依は申し訳なくて、昼休憩も行かずに働いていた。健人が昼過ぎに来て、芽依の顔を見て驚いた。
「顔色悪いよ。…悪いっていうか白いけど」
「あ…」
芽依は慌ててトイレに駆け込んだ。月のものが来ていた。そんなことも気が付かなかった。
汚れた下着を取り替えたくて、村上さんに事情を話すと「もう、あんた、無理しすぎよ。休憩まだでしょ? 行ってらっしゃい」と午前中の不調の理由に納得したのか、優しくなった。スーパーの売り場で慌てて、下着を買って、トイレで履き替える。確かに腹痛もしてきたし、腰も重い。
(この気分の落ち込みも生理のせいだ)と芽依は思った。
なんとか仕事をこなし、帰ろうとすると、健人が「送って行こうか?」と言ってくれたが、まだ健人は仕事時間だったので、断った。
「それなら…一階のスタバで待っててくれたら、送るけど。あと二時間だし…」
一回断っても、そう申し出てくれて、芽依は迷った。今回はいつもより辛くて、休憩してから帰ろうと思っていたからだった。
「ありがとう。あの…自力で帰るから」
辛くて、苦しかったが、今は健人と一緒にいたくなかった。健人の好きな人は鉄雄なのに、今日のことは相談できない。
「携帯、登録して。何かあったら、すぐ行くから」と電話番号を見せられる。
せめてそれだけは、と芽依は番号を登録して、帰宅することにした。幸い通勤ラッシュの時間でないので、電車では座れた。最寄駅のホームで少し休憩して、ゆっくり歩いて帰ることにした。ようやく家までついて、パンを持って帰らなかったことに気がついた。鍵を開けて、部屋に入ると、いつも「おかえり」と言ってくれた笑顔はなくて、朝、芽依が抜け出した布団がそのままの形で残っているだけだった。
「どうしよう…」
芽依はとりあえず、お腹が痛くて、吐き気もあったので、トイレに行った。そしてパジャマに着替えて、そのまま布団に潜り込む。
鉄雄の匂いがする布団の中で芽依は背中を丸めて「痛い、痛い」とひたすら痛みに耐えていた。痛すぎて、そのまま気を失うように眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます