第15話 性別

 明け方、鉄雄がシャワーから出ると、もう隣は起きている気配がする。芽依は音を気にしているようだが、やはり生活音は聞こえてくる。壁に穴が空いているのだから当たり前だが、芽依の鼻歌が届く。初めて芽依の鼻歌が流れてきた時は一瞬、怪奇現象かと思った。鼻歌の選曲がモーツアルトの夜の女王のアリアの有名な部分だったからだ。まだ芽依と話したことない時だったから、一体、どんな子だろうと肩を竦めた。初めて会った時は、秋の終わり、夜に冷たい空気が降りてきていた。鉄雄が仕事に行こうと家を出た時、芽依がちょうど部屋に戻ってきた時だった。

「あ、こんばんは。ご挨拶に伺いたかったんですけど、いつもお留守で…」と言って、手には工具セットを持っている。

「あぁ。夜の仕事で。昼間は…寝てたかも」

「あ、ごめんなさい。しつこく鳴らしてしまって」と頭を下げる。

 およそ最近の若い女の子が入居するなんて考えられない古いアパートだ。どこか手入れが必要なところがあるのだろうか。工具セットを持ったまま頭を下げていた。鉄雄はただのお隣同士だから深い付き合いをするつもりはなかった。だから自分の性別に関しては見た目通りにしておいた。

「大丈夫だから。何か困ったことがあったらいつでも言って」

 ただの社交辞令なのに、顔を明るくさせる芽依を見て、少し呆れたのを思い出す。

 そこからたまに会うと挨拶をしてくれるが、それ以上のことは話しかけてくることもなかった。

 何だか気持ちのいい女の子だな、と鉄雄はただ思っていた。鉄雄は芽依が岡崎と一緒に家まで来るのを数回見かけた。鉄雄が仕事に行こうとする時間に帰る岡崎を律儀に見送る姿を見て、恋する乙女って感じだと思っていた。年の離れた落ち着いた雰囲気で、決して朝まで過ごすことをしない相手だったから、何となく嫌な予想をしてしまっていた。既婚者のような匂いがする。芽依とは気軽に喋れる訳でもなく、鉄雄は少し気になりながらも話すことはなかった。

 素直な明るさのある少女だった芽依が綺麗な大人の女性になりかけているのを鉄雄は感じていた。自分にはない女性の変化。鉄雄は自分の性の違和感は感じるものの、生まれ持ったものを捨てることも本心では躊躇していた。

 女の世界で過ごしてきたから鉄雄は恋愛対象が男なのだろうか…。華道の家元に生まれて、花や美しいものを見て育ったから、ドレスに憧れるのだろうか…自分でもよく分からない。家族に自分は普通じゃない、と告げた時、母親以外は全員、固まっていた。

 ただ母親は何かを感じていたのかもしれない。一人だけ冷静に判断した。

「家元は継がせません」と母親がそう言って、鉄雄はその日、家を出た。

 他の家族がいろんなことを言ったが、母親が鉄雄にしたことはそんなに酷いこととは思えなかった。鉄雄にとっては自由を手に入れたことになるからだ。

 もともと華道の師匠になりたかったという訳でもない。どちらかというと、フラワーアレンジメントも興味があった。伝統の世界は息苦しく、鉄雄は肌が合わないとずっと思っていた。でも華道にはフラワーアレンジメントとは違う、美の迫力がある。枝の一本一本、神経と研ぎ澄まして花を活けていく。美しい花をまさに活かす。ただそれだけに集中して花を活けるのは好きだった。そして鉄雄の生花は業界で人気だった。女性的な華やかさと男性の力強さを感じられると言って、パーティにはよく仕事で呼ばれた。

 そんなことがあって、鉄雄は自分の性が両方で良かったのかも…と思いながらも、手術したい気持ちあり、また躊躇も生じていた。

(ありのままの自分を受け入れることができたら…)と鉄雄は思う。

 ずっと感じていた違和感。

 仕事をする上で、周りは「そのままでいいと思う」と言われてきた。男性でもあり、女性でもある、そんな自分が生かされる仕事だ、と。

 それなのに思い切れない自分が辛くて、あの日、仕事が休みだったのもあって、久しぶりにドレスを着て遊びに出かけた。

 その日、会った人と馬鹿騒ぎをして、男も女もただ酒呑んで憂さを晴らして鉄雄は久しぶりに浮かれて帰って来た。浮かれて帰ってきた時、アパートの前で泣いている芽依を見た。失恋しながら泣いている芽依は、ひどいと思うかもしれないが、美しく見えた。

 男とごく普通に恋愛をして、失恋して泣く女…。そこに自分の憧れが詰まっていた。だからかもしれない、思わず声を掛けたのは。自分の格好のまま、初めて芽依に話しかけた。一瞬、驚いたような顔をしていたけれど、どうやら鉄雄の出立ちどころではないらしく、あっさり鉄雄の存在を受け入れた。


 鉄雄は芽依が仕事に出ていくとすぐに眠って、帰ってくるまで起きなかった。芽依が帰ってくると、音でも分かるが、何だかソワソワした雰囲気が伝わって、起きることにした。

「おかえり。どうしたの?」

「…あの。どんな服で行ったらいいか分からなくて」

「…確かに」と鉄雄は芽依の数少ないワードローブを思い出して、着ていく服はないなぁと正直に思った。

「…やっぱり行くのやめようかな」としょんぼり俯く。

 鉄雄はパンの袋を漁りながら、芽依の体を見た。小さくて、細くて鉄雄の持っているドレスはどれも合わない…。

「ねぇ、あのさ、ちょっとここで待ってて。あたしのドレス、なんとかしたら着れるのもあるかもしれないから」と言って、クロワッサンを咥えて出て行った。

 芽依は自分の持っている服でそんなパーティ用に着れる服なんて持っていなかったので、大人しく待つことにする。鉄雄が持ってきたのはかなり大胆なドレスで、ホルターネックの形で紺色無地のシフォン生地で出来ていたものと、大判のスカーフだった。このドレスは首の後ろで結ぶので、長さはともかく肩が余ることはない。芽依に着るように言うと、着替えて来た姿は松の廊下のように裾を蹴り上げながら歩いてくる。

「控えおろう〜って感じねぇ」と鉄雄はため息をついて、裾については、「まぁ、切ればいいか」と言った。

 そして芽依がやたら背中を気にするので、見ると大胆に背中が開いているのに、芽依はブラジャーをつけたままなので、それは取るように言うと、困ったような顔をした。

「大丈夫よ、無くたって、同じでしょ?」と鉄雄が言うと、明らかに不機嫌になる。

「それより、あんたパンツも見えてるんだけど、なんでこんな木綿のパンツなの?」

「だって…履き心地…。え? 見えてます?」

「見えてるわよ」

「ちょ」と慌てて芽依が向きを変える。

「あんたね。パンツを見られたことより、木綿のパンツでドレスを着ることを恥ずかしがりなさいよ。もっとオシャレなのないの?」

「ないです…っていうか。パンツ見えるドレス無理です」

「だから、これを持ってきたの」と大判のスカーフを差し出す。これを巻いて、ドレス着たらいいのよ。ブラジャーは外しなさいよ。肩紐見えるから」

「…はい」と言って、また洗面所に向かおうとするから、鉄雄は裾だけ先に切ることにした。

 キッチンバサミで切り目を入れて、思い切り引っ張ると布が裂けていった。

「これなら、デザインですって言い切ればいいし」とスカートの裾は短くなり、そしてスリットも少し入れた。

「鉄雄さんの…ドレスが」

「いいのよ。行きたいんでしょ? カボチャの馬車はないけど、ドレスぐらいは用意するわよ」

 そして洗面所に向かったと思うと、しばらくすると顔だけ覗かせた。

「うまく、結べなくて」

 鉄雄は顔を手で覆った。

「ちょっと待ってて」と鉄雄はまた出て行った。

 大判のスカーフはシルクらしく滑りが良くて、結んでもフワッとなってしまって、落ちそうで心配だ。結び方もどうしていいか分からない。鉄雄はもう一つのスカーフを持ってきた。裏表、裏表、と細長く折っている。芽依はスカーフで胸元を隠しながらそれを見ていた。その長いスカーフを真ん中に輪ゴムを通して、ヒダが解けないようにした。

「あのさ、悪いけど、いい?」と芽依が持っているスカーフを渡すように言う。

「え?」

「背中はスッキリさせたいから、前で結びたいの。あんたの胸、拝ませてもらうけど、嫌?」

「嫌ですけど。…でも鉄雄さんはそれを見てもなんとも思わないんですよね?」

「…感想はあるわよ。平だなぁとか…」

 それを聞いて怒ったように芽依はさっとスカーフを渡した。服を着ていても思ったが、裸になると骨格が小さいことがよりはっきりする。そして男の肌とは違って、日に当たっていない部分は白くて滑らかだった。鉄雄はスカーフを手早く広げて、芽依の背中から前に持ってくる。

「余計なものがなくて、綺麗だなぁとか」と言って、スカーフの端を輪ゴムで止めてから小さく結ぶ。

「余計なもの?」

「そうよ。あたしについてる余計なものよ。あんなものがなくて…綺麗だなって思うわよ」

「…手術するんですか?」

「したいわよ。でも普通に怖いって言うのもあるの。だって、あんただって、手を切りますって言われたら、怖くない?」と言いながら、さっきの長いヒダ状にしたスカーフを巻き付けて、後ろで括る。

 そこからホルターネックのドレスを着せて、首の後ろでリボン結びをする。大判のスカーフがうっすら助けて柄が見える

「あんたが小さくて助かったわねぇ」とスカーフの長さは超ミニ丈ではあったが、太腿半分位までは隠されていた。

 芽依は恥ずかしいみたいで顔を赤くしている。

「女性の体は憧れよ…」と鉄雄が言う。

「え?」

「だって、余計なものをとっても…胸もつけなきゃいけないし、何より骨格が違うし…。あんたの裸見せてもらって思ったけど、やっぱり天然には敵わないわよ。叶わないのに、お金も払って、恐怖も克服して…ってなかなかハードル高いじゃない?」

「…。でも私の体より、もっと素敵な体になるかも…」

「あんたはあんたらしい、いい体してるんだから、大切にしなさいよ。まぁ…私が言うのも何だけど。それより後ろ見て、可愛いから」と言って芽依を抱き上げる。

「え?」

 洗面所の鏡では下の方が見えないから鉄雄が抱き抱えて、芽依の背中のスカーフのリボンを見せてくれているのだが、ブラジャーがついていない状態で密着しているので、芽依はそっちが気になった。

「何してんのよ? ちゃんと見てくれる?」

 確かに背中に可愛いリボンがついていて、とっても素敵になっている。

「あ、見ました。見ましたから、降ろしてください」

 確かに鉄雄の言う通り、芽依の体とは違っていて、筋肉質らしく固い体だった。

「やだ。モンプチラパン、顔赤いわよー」

「だって…」

「うふふ。じゃあ。あたしも着替えてくるわねー」と言って、部屋を出ていった。

 芽依は抱き抱えられた時に思わず鉄雄の男性を感じてしまって、自分でもどうしていいのか分からなくなった。


 

 

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