第16話 夢みたいな

 芽依は少し興奮してアパートに帰ってきた。鉄雄が貸してくれた毛皮のコートはぶかぶかだったけど、軽くて暖かい。鉄雄はそのまま仕事に行くので駅で別れた。


 さっきまでいた煌びやかな世界は夢のようだった。鉄雄が言っていたお店は一流ブティックで中央に階段があり、その端にガラスに入れられたヒヤシンスが並べられ、入り口には大きな桜が飾られていた。花の匂いがそこかしこにする。名前も知らないような花があちこちに飾られ、お客は入口で小さなブーケを胸につけてもらっていた。鉄雄の顔を見ると、支配人のような人が現れ「来てくださるなんて珍しい。それに可愛らしいお嬢さんも連れてこられて…」と芽依を見る。

「お隣さん」といつものように紹介される。

「ゆっくりして行ってくださいね」と言われて、芽依も頭を下げる。

 今日は鉄雄はブラックスーツを着ていた。ドレスを着るのかと思っていたから、びっくりした。

「二人でドレスもいいけど…今日はどっちかって言うと、お店が映えなきゃいけないから。基本、裏方だしね?」

 一応、仕事の一環なのか…と芽衣は思いつつ、周りと見ると店員が何かお皿に持って歩き回っている。それを鉄雄はスマートに取って、芽依に渡す。チョコレートが乗っていた。

「うわぁ。美味しい」

 芽依が嬉しそうに声を上げる。鉄雄はお店をぐるっと歩いて、ちょっと花の位置を直したりしていた。芽依はついて周りながら、お店を見渡す。みんな余裕のある生活をしている人たちが多そうだった。本当に芽依は魔法で連れてこられたような錯覚に陥る。

 しばらくするとモデルによるファッションショーが始まった。中央の階段を次々とモデルたちが歩いている。みんなヒヤシンスを手にしていたり、髪飾りにしていたりしている。

「あ、プチラパンにも髪につけてあげればよかったわね」とそれを見ていて、鉄雄は自分の胸のブーケを取って、芽依の髪に差し込んだ。

 花のいい匂いがして、鉄雄の大きな手が芽依の髪に触れる。後ろでまとめたところに差し込んだみたいだった。

「あら、ほんと、綺麗」と鉄雄が言った。

 芽依もお返ししようと自分のブーケを取って、鉄雄の髪に差そうとすると、腰を屈んで差しやすくしてくれる。鉄雄の綺麗な顔が近づいて、芽依は思わず胸が詰まった。花を耳にかけている鉄雄は男の姿をしていても綺麗だった。むしろブラックスーツがその美しさを際立たせていた。しばらくするといろんな人から鉄雄が話しかけられる。愛想笑いで適当に会話をしていてるのがよく分かる。だから行くのが面倒だと思うのだろう。仕事の話だけならまだしも、女性から食事の申し込みも多かった。隣に芽依がいたが、「お隣さん」と紹介されるので、デートの申し込みは止まることはなかった。

 断ることにも愛想笑いにも疲れた様子が見えて、芽依から「帰ろう」と言った。

「あら? もういいの?」

 芽依は充分堪能したし、何より居ればいるほど、場違いな気持ちになってきたからだった。

「夢みたいな場所でした」

「夢よ。綺麗なものがぎゅっと集まって」と鉄雄は言いながら、手でお金のサインを作った。

 それを見て、芽依は笑った。次は場違いな格好で牛丼を食べに行った。ブラックスーツの男と毛皮を着た女が牛丼屋に行ったから、客がチラチラ見てきたが、芽依は鉄雄と一緒だから少しも気にならなかった。

「プチラパンは何でも美味しそうに食べるのね」

「え? だって美味しいじゃないですか」

「そうねぇ。でもボトックス入れてたら、そうならないのよ」

「鉄雄さんは入れてるんですか?」

「それも怖くて、出来てないのよ。したいけどね」

「鉄雄さんって怖がりだなぁ…」

「まぁね。生花ってそこにある自然美を最高に美しく見せることなの。だから…人工的な美に対して、抵抗があるのかもしれないわね…。花には自然美を謳って置きながら…、自分は…って思ったりするの」

 そんな言葉を聞いて、芽依は鉄雄の透明な、光も闇も全て透き通るような心を見た気がした。

「…なんか、自分が恥ずかしくなりました」

「え? どうして?」

「…ちょっと優しくされて、すぐ人を好きになって…騙されたって泣いて、今はその人のこと…怖くって」と言って、俯く。

「若いって、そんなもんじゃん?」

 鉄雄が芽依に笑いかけてくれる。どうして鉄雄は芽依にはそんなに面倒臭い感じではないのだろう、と疑問に感じた。さっきいた場所では誰彼にも愛想笑いはしていたが、半分話を聞いていないような感じだった。

「でも…どうして? こんなに愚かな私と一緒にいてくれるんですか?」と芽依は真面目に聞いたのに、鉄雄は息をついて笑った。

「自分を愚かだと思える人間だからよ」

「?」

「愚かだと思える人間、あそこに何人いたかしら」と牛丼の箸をタバコをふかすように動かす。

「愚か…だからですか?」

 鉄雄はその言葉を聞いて、一層、笑顔が柔らかくなった。

「そうじゃないわよ。自分のことをどれほど考えているかってことよ。でもね…プチラパンは…私の憧れなの」

「憧れ?」

 およそ人に憧れられるような人間だと自分のことを思ったことなかった。

「そう。小さくて、まっすぐで…そんな女の子になりたかった」

 芽依は鉄雄がそんなことを思っているなんて、驚きだった。きっとグラマラスな女性に憧れていたのかと思っていた。でも高身長、その綺麗な顔立ちから女装するなら、そういう女性になるしかないのかもしれない。

「…あの…こんなこと言うの…良くないかもだけど。でも今日の鉄雄さん、素敵です」

 今まで一番驚いた顔して、そして笑った。

「ありがと」

 誰かに言って欲しかった言葉を芽依に言ってもらえて、鉄雄は心が温かくなる。芽依が少し恥ずかしそうに一緒に笑った。


 そんな幸せな気分でアパートまで帰ってきたが、直前で岡崎がアパートの前にいるのに気がづき、芽依はそのまま素通りした。毛皮のコートを着ているので、もし見られても分からない。芽依はゆっくり通り過ぎて、角を曲がると全力で駅まで走った。交番に行くべきなのだろうか、と思ったが芽依が向かったのは鉄雄の仕事場だった。

 白い階段を降りて、息が上がったまま店に入る。

「いらっしゃいませー」と声をかけて来たのはサブローだった。

 毛皮のコートを着て、メイクもしている芽依が誰だか分からなかったのか、愛想よく接客してくれる。

「…あの…鉄雄さんは?」とカウンターまで行く。

「鉄雄? 今、近くにお使いに出てるの。オレンジが切れちゃって…。あれ? どこかで…」とサブローはメニューを渡しながら芽依をじっくり見た。

「…鉄雄さんのお隣です」

「あ、あんた。びっくりした。どうしたの? その格好」と毛皮のコートを預かろうか、と手を出す。

 芽依はコートをサブローに預けて、自分のドレスアップしてる姿が急に恥ずかしくなった。

「脱いでもびっくりね。どこ行ってたの? そう言えば…鉄雄もすごく決めてたけど?」

「お店のパーティがあって、鉄雄さんがお花を飾ってたから見に連れて行ってくれて…」

「あぁ、そうなんだ。一流ブランドでしょ? 鉄雄、そう言うところからはよく声が掛かるの」

「へぇ。さすがですね」

「まぁ、でも伝統的なところからは声がかからないんだけどね。ところで何するの?」とサブローから注文を急かされた。

 芽依は走ってきたので、とにかく喉が乾いていた。

「烏龍茶」

「あー、はいはい。ところでなんでそんなに汗かいてるの? 毛皮のせい?」と言いながら、氷を多めに入れた烏龍茶を芽依の前に置いた。

「…ちょっと走って、逃げてきたから」と出された烏龍茶を一気飲みする。

「は? 借金とかあるの?」

「借金じゃないです。元カレです」

「へぇ。あんたに恋人がいたとはね」と心底驚いたような顔をする。

 芽依は鉄雄が助けてくれたことや、力になってくれたことをサブローに話をした。

「それで…鉄雄と家族ごっこしてるんだ」

「ごっこ?」

「そうよ。自分達に都合の良い関係だからでしょ? 傷つくことも傷つけることもない。でも、それ、夢だから、早く醒めた方がいいと思うわ」

 はっきりサブローに言われて、芽依は動けなくなった。

「…お会計」と芽依が行った時、買い物に行っていた鉄雄が帰ってきた。

「オレンジ切らすとか…あれ? プチラパン? どうしたの?」

「元カレがマンションにいたんですって」とサブローがオレンジを受け取りながら言う。

「え? 大丈夫だった?」

「…あ、はい。もう帰ります」

「今は一緒に帰ってあげられないから、裏で寝てて。朝、一緒に帰ろう」と鉄雄が言うと、サブローは肩を竦めた。

 鉄雄に連れて行かれた小さな部屋は事務所として使われているらしく簡易なソファがあって、そこで休んでいるように言われた。

「喉乾いてない?」

「烏龍茶…飲んだんですけど、お会計してなくて」

「心配しなくていいわよ」と言って、着ていたコートを持ってきて上から掛けてくれる。

 芽依がお礼を言うと、鉄雄は出ていった。


「あんた、まだあの子に構ってるんだ?」と笑いもせずにサブローは鉄雄に聞く。

「何か、あの子に言ったでしょ?」

「言ったわよ。なるべく早く夢から醒めるように」

 鉄雄は何も言わずにオレンジをナイフでカットする。

「その方があの子のためじゃん。分かってるでしょ?」

 甘く爽やかな匂いがまな板の上で弾ける。鉄雄はその匂いを感じながらさらに半分に切った。そしてカンパリオレンジが入ったグラスを飾るようにカットしてグラスの淵に差し込んだ。

 

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