第13話 ミルクティ
あれから芽依は健人とシフトが被ることはなかった。交代のタイミングで挨拶を交わすくらいで、特に何のやりとりもすることはない。ベテランパートの村上さんが寂しそうにしている。三月のひなまつりはピンク色のお雛様のパンを作るのにチョコペンで顔を描いたりして、忙しいながらも楽しく働けた。
「ちょっと口が歪んでしまったわねぇ」と村上さんも笑いながら顔に絵を描いている。
「すまし顔だからちょうどいいですよ」と芽依もチョコペンを握りながらいった。
中はホイップクリームとカスタードが詰まっていて、相当甘いと思うが、鉄雄はきっと喜ぶだろうな、と芽依は思いながら作った。
昼休憩に社員食堂に行くと、遠くの席で座っている岡崎の姿を見た。みんなが見ている前で話しかけてはこないだろう、と芽依はこっそりうどんを注文して、入口近くでご飯を食べる。さっと食べて、後はロッカールームで休憩しようと思った。なるべく顔を上げずに一気にうどんを食べていると、目の前にペットボトルのミルクティーが置かれた。思わず顔をあげると、岡崎が立っていた。声も出せずに見ると、そのまま去っていく。芽依は置かれたミルクティをどうしたらいいのか分からずに、うどんを完食した。
結局、昼からの仕事中、ずっとペットボトルのミルクティが気になって仕方がなかった。そんなにミルクティを岡崎の前で飲んでいただろうか、と芽依は考えてみたがよく分からない。確かに飲んだ時もあったかもしれないけれど…。
「うーん」と唸りながら、オーブンからパンを取り出す。
熱がいっぺんに外に出てきた。熱だけじゃなくて、パンの香ばしい匂いも一緒に出てくるのが芽依は好きだった。綺麗にどのパンもうまい具合に焼けている。
「美味しそう」と芽依は毎回、そう思ってにっこりしてしまう。
鉄雄の好きなパンがうまく焼き上がると、さらに嬉しくなってしまう。
「石川さん、パン見て笑ってる」
昼休憩から戻ると、健人がいて、芽依の直ぐ横に立っていた。
「あ…。うまく焼けたから」
「ほんとだ」と健人も鉄板の上を覗いた。
「今日は早いですね」
「あ、そうなんです。本当は休みの日なんですけど、ちょっとお雛様パンの様子を見にきました」
「石川さーん。この鉄板お願い」と村上さんに言われて、開いたところに入れていく。
鉄雄の好きなクロワッサンだ。長い指でクロワッサンをちぎりながら、たまには飲み物に浸して食べている。初め見た時はびっくりしたが、鉄雄がすると、何だか美味しそうに見えて、芽依もこっそりやってみたことがある。大して美味しいとは思わなかったので一回限りだったけど。だから芽依はクロワッサンの鉄板を入れる時は「美味しくなりますように」と思いながらそっとオーブンに入れる。
「あの人…パンが好きだから、ここで働いてるんですか?」と健人に聞かれた。
「え? あの人?」
「お隣に住んでる人」
「あぁ。いえ。たまたまです」
「…あんな人が隣にいたら、石川さん、恋人できないですね」
「え?」
思わず健人を見る。
「あんな完璧な人…」
「完璧?」
鉄雄が完璧だなんて思ったことはなかった。
「男でもない、女でもないって、どっちでもないじゃなくて、どっちでもあるってことじゃないですか?」
芽依はそう言われて、初めて鉄雄がそう言う意味では完璧だと思った。それ以上、健人は喋らず、仕事を手伝ってくれた。
「時間外じゃあ…」と芽依が言っても、そのまま仕事を続ける。
そして芽依が仕事をあがるタイミングで健人も帰ると言う。
「あの…何か用ですか?」と思い切って聞いてみると、「またあの人に会いたいんです」と健人は言った。
芽依は思わず、いろんなことを考えたが、口に出すことはせずに、「あの…きっとお雛様パンとクロワッサンを買って行ったら喜ぶと思います」とだけ言った。健人は売り場でちゃんとパンを買って、芽依をバイクに乗せると言う。どうせ同じ家に行くのだから断らずにそうしてもらうことにした。健人のシャツを握りながら、芽依は少し緊張した。どういう目的で鉄雄に会いたいと言い出したのか、考えれば、考えるほど、なんとも言えない気持ちになった。
アパートの前にバイクを停めて、芽依の部屋まで行く。いつも芽依の部屋で寝ているはずなのに、今日に限って、起きてどこかへ行っているようだった。
「あれ? おかしいなぁ。自分の部屋かな?」と呟いて、隣のインターフォンを鳴らしても返事がなかった。
「ごめんなさい。いらっしゃらないみたいです」と芽依が言うと健人はそんなに落ち込んだ様子ではなかった。
「じゃあ、このパンを渡しておいてください」と言うので、芽依は受け取ることにした。
「あの…せっかくなのでお茶でもって言いたいんですけど。…まだ紅茶も買ってなくて。近くの喫茶店でも行きますか?」と言ってみた。
芽依は健人がどんな気持ちで鉄雄に会いたいと思っているのか、気になって仕方がなかった。
「え? いいんですか?」
「近くに手作りクッキーと紅茶のお店があるんです」
「ぜひ」と言って、何故か健人は嬉しそうに笑った。
近くのお店は手作りクッキーの販売している。女の人の友達同士、二人で作っているらしく可愛らしいアイシングクッキーが並んでいる。芽依がお店に入ると、「いらっしゃいませ」と微笑みかけてくれた。
販売の奥の方に小さなテーブルが三つほど置かれていて、その場で食べることができた。
紅茶とクッキーのセットを頼んだ。
「ミルクかレモンは?」と聞かれて、芽依は「あ…」と思わず呟いてしまった。
「え?」
「ミルクで」
酸っぱいのが苦手な芽依はいつも紅茶はストレートかミルクティにして飲む。大抵、外ではミルクティを頼んでいた。だからだったのだろうか。岡崎がペットボトルのミルクティを目の前に置いたのは。健人は不思議そうな顔を一瞬したが、「同じもので」と注文を終えた。
「どうかした?」と健人が話しかけるので、芽依は首を横に振った。
「あ、それより…どうして鉄雄さんに会いたいのかな…って」
芽依はもし想像しているように、健人が鉄雄のことを思っていたら、どうしたらいいのだろうか、と思い悩んでしまう。案外、鉄雄も好きになったりするかもしれない、と思うと、気持ちが何だか落ち着かない。
「あぁ。あの人…僕に穏やかな顔で話してたけど…少し怖かったから」
「え?」
鉄雄が怖いなんて思ったこと、一度もなかった。
「君について的外れなことを言っている…って言われた時、ちょっと、なんて言うか、うまく言えないけど、嫉妬? とは違うかな? でも少しだけ怖かったんだ」
「嫉妬? それはないと思う。鉄雄さんは男の人が恋愛対象だから」
「そうなんだ。でもなんか、ほら、可愛がっているものに対してって感じかもしれないけど…」
芽依は少し考えた。鉄雄が芽依をどう思っているのか、考えても分からなかったが、確かに可愛がってもらっているのは分かっている。そしてそれが男女の恋愛の範囲外であることも分かっている。
「お気に入りの…ペット? くらいに思ってるのかもしれないけど…。でもお母さんみたいなところもあるし…。子育てしてるのかな?」と芽依は思いつくことを口に出してみた。
紅茶と可愛いお花とウサギのアイシングクッキーと小さなメレンゲも乗ったお皿が運ばれてきた。
「可愛いでしょ? それに美味しいし」と芽依はメレンゲから口に入れた。
サクサクしたと思ったら口の中で溶けていく。
「結局、どう思ってるかなんか、よく分からないけど、あの人がそばにいると…きっと現状に満足して、恋人なんて作らないんだろうなっと思って」
「恋人? 私が?」
「今、付き合ってる人いる?」
「いないけど。恋人は…当分いらないかなって」
「どうして?」
芽依は健人に岡崎の話をする気持ちにはなれなかった。自分の馬鹿さ加減を人に言うことではない。
「そう。言われた通り、鉄雄さんといると楽しいから」と芽依はにっこり笑ってそう言った。
「好きなの?」
「好き…だけど…。恋人って言うより、人として…」
「…それって完璧じゃない?」
「でも恋愛とは違うと思うんだけど…。でも恋愛ってしなくちゃいけないことなの?」
「え?」
「恋人っていなきゃいけないの?」
「いけないことはないけど…」と健人は口ごもった。
「私は信頼関係が築いていける今が心地いいから。だから一緒にいるの」と芽依は自分の口でそう言って、鉄雄といる理由がはっきりできた。
信頼できる人と一緒に時間を過ごすことが何よりだと思ったからだ。
「じゃあ、僕が入る隙はなさそう?」
そう言われて、芽依はまた混乱した。
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