第12話 世界一のアパート
「あの…離してください」と芽依はパンの袋を引っ張る。
「じゃあ手を繋いでもいいですか?」
「…」
健人の申し出に首を横に振って、黙ってパンの袋を引っ張られることにする。バイク置き場に着くと、メットを取り出して、差し出された。
「…別に彼女のじゃないよ。友達も乗せるし」
芽依が気にしているのか、と思ったのだろうか、そう一言言って芽依の頭にメットを乗せた。芽依は仕方なくメットを被る。結局、芽依は言われるままにバイクに乗ることにした。
「掴まって」と言われたので、シャツを掴んだ。
初めてバイクの加速に芽依は一瞬、驚いたけれど、スピードは気持ちを楽にさせた。ダイレクトに通り抜ける風も嫌なことが全て無くなっていく気がする。バイクに乗せてくれたのは気持ちを晴らしてくれるためだったのかも知れないな、と芽依は思いながら過ぎて行く風景を見た。初めてバイクに乗ったので、多少緊張して、疲れも出たけれど、電車に乗って、乗り換えて…と言うのがなかったので、楽にも感じた。
芽依の住所をスマホで経路案内をしていたので、迷わず着いた。
「ありがとう」と言って、メットを返すと、驚いたような顔で芽依を見る。
「ここ? ここに住んでるの?」
古いアパートを健人は見ていた。
「そう…だけど?」
「セキュリティとか…心配じゃない? 一人暮らしでしょ?」
真剣に心配してくれる健人に芽依は恥ずかしくなった。
「こんな…ボロいところだから…泥棒も来ないから」と俯いて言った。
「え? でも女の子一人だし」
「…今日はありがとう」ともう一度、言って頭を下げた。
「…あ」
健人は何か言いたそうにしていたが、芽依はそのままアパートの階段を上ろうとした時、芽依の部屋から、ゴミ袋を持って、鉄雄が出てくる。スエット姿で、起き抜けのままだった。芽依を見て「ちょっとゴミ、ちゃんと」と言いかけて、バイクの横にいる健人を見た。
「あら?」と小さな声を出して、鉄雄は階段を駆け降りる。
通り過ぎる瞬間に芽依は鉄雄の手を掴んだ。
「何?」
「あの人は仕事先の人で…」
「うん。でもね。パンの袋持ってるわよ?」
芽依はパンの袋をバイクに預けたままだった。
「あ…」と芽依が振り返ると、健人は困ったような顔でパンの袋を持って立っていた。
「ちょっと、上がって行きなさいよ。あ、でも
そして戻ってくる時に、芽依の手を引いて「急いで片付けるわよ」と言った。
「え? なんで勝手に…」と芽依は言ったが、パンを受け取ることもできないまま鉄雄に手を引かれて階段を上がる。
結局、鉄雄の敷きっぱなしの布団を芽依の押し入れになんとかしまい、朝ごはんのおにぎりの残りを戸棚に隠し、芽依のパジャマはベッドの中に入れ込んだ。
「あんた、本当にいつも放りっぱなしだから…」と鉄雄が言った時、玄関のチャイムが鳴った。
「もう
「あの…」と健人が戸惑っていると、
「入ってー」と鉄雄が部屋の中から声をかける。
「勝手に…」と芽依は言ったが、バイクのお礼もあるし、と思って部屋に上げることにした。
鉄雄はお湯を沸かして、お茶の準備をしていた。
「今日は菓子パンある? 甘いの?」とウキウキしながら、鉄雄が聞くと「ドーナツがありますよ」と健人が答えた。
「あら、最高」と言いながら、紅茶のパックを取り出す。
「あ、最後の一つ」と芽依が慌てる。
買うつもりだったけれど、いつも忘れてしまうのだった。
「まぁ、三人分いけるでしょ?」と鉄雄は言って、少しばかり薄い紅茶を運んできた。
小さなテーブルに三人囲むのだが、椅子が二つしかないので、鉄雄と芽依が半分ずつお尻を乗せることにした。
「召し上がれ」とお茶を勧めるのだけれど、健人は少し戸惑っていた。
「あの…あなたは?」
「私? モンプチラパンのお隣さんよ。鉄雄っていうの。てっちゃんって呼んでね」
あっけに取られているような顔で鉄雄を見る。
「あなたが人事部長の息子でしょ?」
「あ…はい」
鉄雄はにっこり笑うと「で? 部長の息子が、うちのプチラパンに何か御用?」と訊いた。
「いえ…。朝、お客さんに絡まれてたから…ちょっと心配で。それか…僕が何かしたのかな? って思って」
健人が言う話をふんふん聞きながら、鉄雄はドーナツを食べていた。砂糖が周りについてるタイプなので、食べるたびにティッシュで指を拭いている。
「変な人がいるものねぇ…。探してとっちめてやろうかしら?」と鉄雄が言うので、芽依は慌てて首を横に振った。
「え? ダメなの?」と鉄雄は最後は口の周りの砂糖も拭いて、紅茶を飲んだ。
「後…何だか心配で」
「何が?」
「こんなところに住んでいるのも…」
「こんなところ?」と鉄雄は笑いながら聞き返す。
「女の子一人だし…」
「あら、じゃあ、あなたが結婚して養ってくれるの?」
健人は思わず固まってしまう。
「大丈夫よ。こう見えて、うちのプチラパンはしっかりしてるし。まぁ、だらしないところもあるけど、ちゃんと生活してるから。少ないお給料でもちゃんと貯金も少しずつだけど、してるし…ね」
「なんで知ってるんですか?」と芽依は聞くと、「『貯金、貯金』って毎日、お風呂で歌ってるでしょ?」と鉄雄は笑う。
甚だ恥ずかしくなってきた芽依はもう健人に帰ってもらいたくなった。
「あなたは…人事部長の息子さんで、学生で、与えられるものも充分にあって…、だからあまりにも何も持っていないプチラパンが心配なのかもしれないけど、この子は何もない分、自由だし、これから好きなものを得られるの。だから心配は無用よ。きっと素敵な未来を手にしてると思うから」
「は?」と健人は訳が分からなさそうな顔をしている。
「あなたの周りにいないタイプだから新鮮に映るのかもしれないけど…。下手な同情はしなくていいってことよ」
それを聞いて、何か考えるような顔をして、健人は立ち上がった。
「お邪魔しました」
「いいえ。大したお構いもなく…」と鉄雄が言う。
「送ってくれて…ありがとう」と芽依はお礼を言った。
そして玄関まで見送ると、ドアを閉めた。しばらくしてバイクのエンジン音が聞こえ、次第に小さくなっていった。
「こんなところ…ねぇ」と鉄雄はため息をついて、またパンの袋の中からドーナツを探していた。
その様子を見て、芽依は何故か涙がこぼれて止まらなくなった。しばらくして、鉄雄が顔を上げて、芽依を見て驚いた。
「なんで、泣いてるの?」
「…分かりません。…全部。セキュリティが…心配とか…。奥さんとか。仕事も抜かれるとか…」
ドーナツを探すのをやめて、鉄雄が泣いている芽依のところに来て、頭を撫でた。
「かわいそうに…」
芽依はしゃがみ込んで、子どもみたいに大泣きした。
「あの人から見たプチラパンはそうだけど…。ここにいるモンプチラパンはねぇ。こんな素敵なアパートに住んで、毎日、美味しいパンを食べて、何より素敵なお隣さんがいて、それにそのお隣さんが最強のセキュリティじゃないの」
「鉄雄さんが?」
「そうよ。ここじゃなきゃ、会えなかったでしょうよ。値の張るタワーマンションだったら私はいないから」
「…鉄雄さんに会えたから? 素敵なの?」と芽依は泣きながら鉄雄を見た。
「鉄雄付きアパートは世界を探しても、ここしかないから」
「…ほんとだ」と芽依が言うと、鉄雄は笑った。
「本当にあんたは騙されやすくて、心配になる」
芽依はみんなに心配されて、それが辛かったり、悲しかったりしたけど、鉄雄が言うと何だか優しい気持ちになる。
「少しベッドで寝たら? 私も布団、出してまた少し寝ようかしらね?」と言って、押し入れから布団を取り出した。
夕方、ベッドに入るのが何だか悪いことをしているような気持ちになる。でも鉄雄は気にせず、布団の中に入って目を瞑っている。芽依は洗面所で顔を洗って、パジャマに着替える。寝ている鉄雄の横に行って、芽依は聞いた。
「今日だけ…特別にいいわよ」と言って、掛け布団を上げて、中に入れてくれるようにする。
芽依はその横に体を滑り込ませる。優しい温もりの中に入っていくような感覚がする。
「…今日、朝イチで奥さんが来て…。別れるって」
「そう? まぁ、そうよね。普通はあんな男と一緒にいたくはないわよね」
「…また、来るかな?」
「あいつ? 何度来ても、追い返してあげるから」
「…ありがとう」
今日は芽依にとって確かに大変な一日だった。鉄雄の大きい手を芽依は掴んで、自分の頭に持っていった。鉄雄は笑いながら、頭を撫でてくれた。
「モンプチラパン、お疲れ様。今日はゆっくりおやすみなさい」
繰り返される心地よさと、外から聞こえる夕方の子どもの声をぼんやり聞きながら、眠りについた。芽依の寝息を確認しても鉄雄は頭を撫でた。滑り心地のいい頭を撫でながら、横にある温もりは鉄雄にとっても必要だった。
「私にとっても…世界で一つだけのモンプチラパン付きのアパート」
この幸せを自分だけが分かっている、と鉄雄は思った。
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